第8話 兄の馬車と、弟の背中
兄弟の決別の話は、王都中に広がった。
翌日、私は職場へ出なかった。ヨスト様が休むよう伝言を届けてくださったからだ。叔父が昼過ぎに借家に駆けつけてきて、客間の長椅子に腰を下ろすなり顔をこすった。
「商人が朝のうちに噂を、王都の東にまで運んでしまった」
「……そうですか」
「屋敷に夜中、王都の警備隊の巡邏が回ったらしい。屋敷のなかで何かがあったと、近所の目撃は多い」
「カスパル様は、どうなされたのでしょうか」
「屋敷を出るか出ないかで揉めたらしい。出なかった、と聞いている。弟の名を怒鳴った以上、いまさら外に出られる顔でもない」
叔父は湯気の立った紅茶を、まだ手に取らなかった。
「お前は、借家にいろ。外出するな」
「……わかりました」
「儂は夕までに戻る」
叔父はそう言って客間を立った。玄関先で、叔父は私の方を振り返った。
「イルゼ」
「はい」
「この先は、お前の勝ちだ」
叔父が私の前で「勝ち」という言葉を使うのを、私は、聞いたことがなかった。
私は頷くことができなかった。ただ、叔父の背中を見送った。
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昼の明るいうちは、借家は静かだった。
マルタがいつも通りに湯を沸かし、床を拭き、卓を磨いた。借家の外の通りを行き交う人々は、昼のうちはうちに用がなかった。うちに押しかけてくる者がいるとすれば日が暮れてからだと、誰もが示し合わせたように知っていた。
私は書き物の間の机の抽斗を開けなかった。
指輪の入った木箱の上にかけた布を、いま剥ぐと、引き返せない気がした。
午後、叔父からの使いが借家に届いた。
「本日の夕刻以降、借家の周りに王都衛兵を数名、目立たぬ形で配置させる。マルタにも伝えてある」
伝言を届けた若い書記が、早口で告げた。
私は頷いた。
叔父は動いていた。
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夕刻、空が曇ってきた頃、玄関でマルタが短く息を呑む音が客間まで届いた。
石畳を、重い靴音がいくつも踏みしめる音。
人数は少なくなかった。
「――ノルトハイム公爵よりの使いである」
聞いたことのない、若い男の声だった。家令ではない。
「前公爵夫人が、お嬢様の身の安全を案じておいでです。騒ぎのあいだ、屋敷にてお預かりしたいとの仰せでございます」
私は客間の椅子から立ち上がらなかった。立ち上がる必要を認めなかった。今夜のこの口上は私のものではない。私は聞き役でもないからだ。
マルタが玄関で「少々お待ちを」と返したきり、扉を開けなかった。
扉越しに別の靴音が加わった。
軽く、しかし慣れた、まっすぐな靴音。
――コンラート様。
マルタが客間に駆け戻ってきた。
「お嬢様、コンラート様が」
「わかっています」
私は息を整えて、玄関へ向かった。
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玄関の戸は閉まっていた。
戸の向こうで、コンラート様の声が冷たく落ち着いていた。いつもより抑制されていた。
「ノルトハイム家の家臣の方々でいらっしゃるな」
「……左様」
「私は、王立騎士団法務官のコンラート・フォン・ノルトハイムだ。兄の名代などと名乗る方々に、申し上げたいことがある」
「……お聞きしましょう」
「公爵家の私兵による市民の強制連行は、王国法の明文にて禁じられている。王国法典第五節に照らせば、今夜ここで借家の扉を強引に開ければ、前公爵夫人のお名での使命であれ、王国臣民の安全に関わる重罪となる」
外で、短い沈黙があった。
「……お嬢様は、市民でいらっしゃるのか」
「離縁の成立している者は、独立した王国臣民である。ノルトハイム家との関わりは、もうない。王国法のうえではそうだ」
若い家臣の声が、言葉を探している気配があった。ほかの家臣と低く囁き合う気配もあった。
「……なら、その離縁の効力について、我々は疑いを持っている」
「ほう」
「疑いがあれば、当事者を屋敷にお引き取りし、事実関係を確かめさせていただくのが家臣の務め」
「事実関係は昨日、真実封印室にて、王立の印のもとに明らかにされた。貴方がたがご存知ないのであれば、ご主人のもとに戻ってお確かめいただけばよい」
コンラート様の声は少しも怒っていなかった。
ただ丁寧に、相手の論理の道を順に塞いでいっただけだった。
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扉の向こうで、若い家臣が踏み込もうとする気配があった。
それを制する、べつの声もあった。おそらく年長の家臣だろう。
「……コンラート様」
「はい」
「貴方様は、兄君に刃向かわれるおつもりで」
「兄の意向ならば、こうはなりません。ここに来ておられるのは、兄の意向ではないのでしょう」
「――」
「前公爵夫人の意向でお越しいただいたのなら、前公爵夫人のご用向きを、私はいまこの場で受けさせていただく。兄ではなく、私に」
長い沈黙があった。
そのあいだに、石畳の奥から別の靴音が近づいてきた。
揃った、重い足音。
王都衛兵だった。叔父が夕刻より前に手配していたとおりに、借家の周囲に配置されていた者たちが、屋敷の使者の靴音を聞きつけて集まってきたのだ。
さらに耳慣れない軽くて速い足音が混じっていた。
「コンラート様、遅参しました」
若い声だった。
コンラート様の従者のキリアンだと、私はすぐにわかった。これまで姿を見たことはなかったが、叔父がかつて「あの堅物には似つかわしくない、すばしこい従者がついている」と笑って話していたことがあった。
「――もう、よい。戻ろう」
年長の家臣が短く言った。
石畳を逆向きに踏んでいく靴音。
軋む馬車の扉。
蹄の音。
やがて、外はもとの夕刻の音に戻った。
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扉が開いた。
コンラート様が玄関の枠の下に立っていた。
背中に雨の気配を背負っていた。雨は降っていなかった。ただ、雨が来る前の湿った風が、街の屋根の上を流れていた。
マルタが下がっていった。
コンラート様は私を見ずに、扉の木目を見ていた。
「――ご無事で、よかった」
低い声だった。
私は彼の外套の裾に目を落とした。雨が降っていないのに、裾に少しだけ埃がついていた。長く立っていた人の、外套の沈み方だった。
「……借家の扉の前に、いつから立っていらしたのですか」
彼は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
「……コンラート様」
「はい」
「お手を」
私は自分の手を差し出した。
自分の口から出た言葉に、自分で驚いた。
彼は私の手をゆっくりと握った。
大きな手だった。堅物の、骨の固い指だった。指の節は、書類の羊皮紙を日々、繰り返しめくってきた人の節だった。
――手を握る、というだけのことだった。
それだけのことだった。
それだけのことなのに、私は自分の肩が、この数日ずっと強張っていたことに、ようやく気づいた。
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翌日、ノルトハイム邸で公爵家の晩餐会があった。
親族と、王都に残っている縁戚の貴族と、屋敷の家令長、そして王都法務院からの立会人として叔父が、その晩餐に連なっていた。
コンラート様がこの席で、兄カスパル様に対して公の場での事実確認を行うことを、叔父は事前に私に知らせてくださっていた。
私は借家の書き物の間で、蝋燭の火の下に座って、その時間を待った。
叔父が戻ってきたのは夜も更けた頃だった。
「……カスパル様は、反論なさいませんでしたか」
「反論の入る隙がなかった」
叔父は外套を脱がずに客間の卓に座った。
コンラート様が晩餐の席で述べた事実は、裏どり済みの動かしようのないものばかりだった。嫁いできたイルゼを兄がついに正面から見ようとしなかったこと。屋敷で書かれた書類の宛名がずっと「偽物の公爵夫人」となっていたこと。前公爵夫人の暖炉で焚かれた手紙の件。白い結婚のままの離縁。署名の場でカスパル様が母の意向に反論する素振りを見せなかったこと。
それらをコンラート様は感情を混ぜずに、事実のみで並べていった。
「カスパル様は顔色が青くなって、終わりには杯を握る手が震えていたと、同席した親戚殿からうちに使いが来た」
「……反論の余地は、どうして」
「すべて屋敷の使用人と、王立法務院の書類記録で裏付けられる事柄だった。反論の材料がないのだ」
私は蝋燭の炎を見つめた。
炎は揺れなかった。
「……貴族たちの評価は、今夜のうちに固まるでしょうね」
「うむ。カスパル様の評価は夜のうちに覆った」
「……」
「コンラート様はそのあとすぐに、借家に戻ってこられるそうだ」
叔父はそう告げて、マルタに湯を頼みに玄関の方へ下がっていった。
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コンラート様が借家に戻られたのは、もう夜が深くなった頃だった。
マルタが玄関で彼の外套を受け取った。コンラート様は書き物の間で待っていた私のところへ、直接足を運んでこられた。
「遅くなりました」
「……お疲れでしょう」
「いえ」
彼は机を挟まずに、私の座っている椅子の真横の床に、膝を折らずに、ただ立った。
「晩餐の席での事の次第は、叔父君からお聞きになっておられると存じます」
「はい」
「――兄を公の場で糾弾することに、迷いはありました」
彼は続けた。
「それでもこのままでは、兄自身が自分の罪を正面から見ることができないままに老いてしまう。兄の生涯のためにも、今夜の事実の並べ直しは必要でした」
「……」
「いまさらと、お感じになられたなら、そのとおりでございます」
私は机の縁に置いた自分の手を見ていた。
昨夜、彼に握られた手だった。
「……いまさら、では、ございません」
「……」
「いまさらでは済まなかったから、屋敷から多くのものがこぼれ落ちたのです。ここで並べ直さなければ、こぼれ落ちたものの行き先がわからなくなります」
私は顔を上げた。
「ありがとうございます」
堅物の彼の眉がわずかに動いた。
それだけだった。
それだけで、私は充分だった。
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翌朝、王宮からの使者が借家にも、ノルトハイム邸にも届いたという報せが、叔父からもたらされた。
羊皮紙の召喚状が、卓に広げられた。
「公爵家『身代わり婚』無効審問」
場所は、王宮大聖堂。
日取りはほどなくだった。王家が事態の進行を待たぬという意志で定めた、近い日取りだった。
そして召喚状の末尾に、王家の印のついた文言があった。
イルゼ・フォン・リンドホルムと、コンラート・フォン・ノルトハイムの婚姻を、王家が審問と同日、大聖堂にて承認する、という文言。
私はその文言を声に出さずに読み返した。
叔父が私の肩に軽く手を置いた。
「……お前の願いどおりか」
私は叔父の顔を見た。
叔父の目に、もう迷いはなかった。
「……承知いたしました」
王宮の印のついた羊皮紙が、蝋燭の下でかすかに音を立てた。




