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姉の身代わりで嫁ぎ、離縁されました。今度こそ本物の妻として嫁ぎます。  作者: 秋月 もみじ


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第7話 真実封印、ひらく


カスパル様の訪問から、数日が過ぎた。


空模様は晴れと曇りを短く繰り返した。私は職場に復帰して閉館の鐘が鳴るまで、書架と貸出の仕事を淡々と続けた。コンラート様はあの夜以来、図書館に姿を見せなかった。


指輪の入った木箱は書き物の間の机の抽斗に、布をかけて入れてある。開けていないし、触れてもいない。私にはまだ返事を出すだけの整理がついていなかった。


その日の午後、マルタが借家の玄関で、見知らぬ客に応対していた。


「お取次ぎいたしかねます」


低いマルタの声が、玄関から客間まで届いた。そういう語調のマルタを、私はこれまでほとんど聞いたことがなかった。


私は立ち上がって、玄関まで出た。


-----


玄関先に立っていたのは、ノルトハイム家の家紋を胸につけた黒服の男だった。若くはなかった。義母が屋敷の奥で差配していた古参の家令の顔にどこか似ている。


「リンドホルム嬢」


男は私に気づくと、わずかに頭を下げた。


「前公爵夫人より、お嬢様へのお言伝をお預かりしております」


「……どうぞ」


「『貴女様のお手元に渡った書物のことは、これ以上お広げにならぬがよろしい。お互いのためと存じます』とのことでございます」


私は扉の枠に手を置いた。


この家紋のついた服を着た者が、借家の玄関に立っていることの意味を、マルタが入れようとしなかった理由を、私は理解した。


「……お言葉、承りました」


「ご賢察、ありがたく」


「もう、お尋ねしても」


「どうぞ」


「これは、前公爵夫人ご自身のお言葉ですか。それとも、貴方が屋敷の誰かのご意向を汲んでお運びになった言葉でしょうか」


男は束の間、私の顔を見た。


「……わたくしは、前公爵夫人に仕えております」


「左様でございますか」


「お嬢様」


男は声を落とした。


「わたくしが屋敷を出るとき、先代旦那様の書斎の前を通って参りました。部屋は埃をかぶっておりました。屋敷は先代旦那様が亡くなられてから、ずいぶん変わっております」


私は男の目を見た。


男はそれ以上は言わず、浅い会釈をして帰っていった。


玄関の外に馬車が待っていた。馬車の紋章もノルトハイム家のものだった。


-----


マルタが私の背後に立っていた。


「お嬢様」


「……叔父様に、お使いを」


「承知いたしました」


その夕方、叔父が馬車で駆けつけてきた。


玄関に叔父の顔が見えた瞬間、私の背中に張り詰めていた糸がわずかにゆるんだ。


-----


客間の卓の上で、私は今日の言伝をそのまま叔父に伝えた。


叔父は私の話を最後まで黙って聞いた。それから、膝の上で指を組み直した。


「……ヘートヴィヒ夫人は、手を打ってきたな」


「はい」


「このままでは、お前は、屋敷の外の噂と屋敷の内の圧力に、挟まれる」


「……」


「道が、あるにはある」


「道、とおっしゃいますと」


叔父は顔を上げた。


「王立図書館の真実封印室へ、焚書の件を正式に申し立てる」


私は卓の上の木目を見た。


真実封印は王立の記録魔法だ。公式文書に施されると、一切の改ざんが効かなくなる。封印を解除するときに、その紙に触れ、持ち去り、火に投じようとした者の手の痕跡が、銀の粉のような光となって浮かび上がる。王立法務院の記録官である叔父には、この封印室に審問を申し立てる権限がある。


つまりコンラート様がお返しくださった燃え残りの封筒を、封印にかける。


封印を解けば、紙を火に運んだ者の手の形が紙の上に、写る。


「……義母の手の跡が、出ましょう」


「うむ」


「それでよろしいのですか」


「お前が躊躇う話ではない。儂が申し立てる」


叔父はそれだけ言った。


私はそれ以上訊ねなかった。叔父は私の父の代わりに、ずいぶん長いあいだ、「儂の姪だけは守る」という約束を己のうちだけで果たしてきた人だ。その人の決断を、私は疑わない。


-----


申し立ては翌日のうちに法務院を経由して、図書館の真実封印室に通された。


館長のヨスト様は、叔父の申請を少しも渋らずに許可した。書庫の出来事のあと、ヨスト様の眼差しが私に向くたび、その奥に何かを抑えている気配があったことを、私はうっすら感じていた。


審問の日取りはすぐに決まった。


前公爵夫人への召喚状も同時に発送された。ただしヘートヴィヒ様は病を理由に欠席を届け出ることが確実視されていた。本人が来ても来なくても、痕跡魔法は本人の立会いを必要としない。


審問の前夜、私は書き物の間で、机の抽斗を開けた。


指輪の入った木箱の隣に、コンラート様からお返しを受けた封筒を仕舞っていた。私はその封筒を胸の高さまで持ち上げた。


紙の擦り切れた縁が、夕の光のなかで、綿のように毛羽立っていた。


――明日、この封筒を手放す。


手放しても、燃えた仲間の元へは戻れない。けれど、灰にならなかったというこの紙の意地を、せめて公式の記録に残すことは、できる。


私は封筒を両手で包んで、深く息を吸った。


-----


真実封印室は、王立図書館の最深部にある石造りの小部屋だった。


窓がない。天井の中央に、格子から差す細い光が落ちている。壁際に石の卓が据えられ、そこに王立の印を帯びた帳面と、銀の匣が用意されていた。


立会人として、館長ヨスト様、王立法務院の記録官である叔父、王室から派遣された記録官の老人、そしてコンラート様が室内にいた。コンラート様は弟として、そして兄の代理として、この審問に連なっていた。


前公爵夫人ヘートヴィヒ様の席は空いていた。


王室記録官の老人が、儀礼の文言を淡々と読み上げた。


「これより、リンドホルム卿ハラルトの申し立てに基づき、公爵家旧蔵の書信に対し、真実封印の復元審問を執り行う」


私は封筒を石の卓の銀の匣の上に置いた。


王室記録官が匣の蓋を閉じ、魔法紋の刻まれた印を銀の表に当てた。


印がわずかに淡く光った。


光が収まった。


王室記録官が印を退けた。


そして匣の蓋をゆっくりと開けた。


-----


封筒の上に、銀の粉のような光が細く浮かんでいた。


光はある形を取った。


指の先の繊細な形だった。


女の手が親指と人差し指と中指で紙の端をつまみ、暖炉の炎の中へ押し込んだ、その手の形だった。


王室記録官は、叔父が事前に法務院で写し取ってきた前公爵夫人の公的署名記録と、指紋の形を照合した。


老人は静かに頷いた。


「――前公爵夫人ヘートヴィヒ・フォン・ノルトハイム様の、指の形と一致いたします」


室内の空気が石の壁に吸い込まれたように動いた。


館長のヨスト様が深く息を吐いた。


叔父は目を伏せていた。


コンラート様は前に出て、匣の上の銀の光をじっと見ていた。


-----


わたくしは、屋敷の暖炉の前に座っていた。


灰のなかで、まだ燃えきらずに膨らんだ紙の断片があった。わたくしはそれを火箸でつついて、灰の中へと押し込んだ。押し込んでしまえば、もうどの紙だったか、わからなくなる。わからなくなってしまえば、このわたくしの手のうえに、罪も残らない。


――そのはずだった。


最近、屋敷の廊下が、やけに広く感じる。誰もいない廊下の奥から、昔嗅いだような紙の匂いが、ときどき、こちらに流れてくる。わたくしは、その匂いに気づかないふりをする。


息子は先月から王都に戻ってきて、屋敷の書斎に籠っている。義娘だった娘に屋敷へ戻ってくれと頭を下げたという話が、古参の家令から届いた。


わたくしはその話を聞いて、笑いそうになった。


笑ったあとで、なぜ笑ったのか、わからなくなった。


暖炉の灰を、わたくしは火箸で撫でた。


灰は動かなかった。灰はもう動かない。わたくしの手の跡が、その灰のなかで、いまも残り続けているのだと、なぜか、今日、ようやく気づいた。


-----


真実封印室の退出後、私は廊下に出た。


叔父が館長ヨスト様と王室記録官と、後の手続きを打ち合わせていた。同時に、審問の流れで叔父が持ち込んだ婚姻契約書の写しにも、封印が施されていた。私の離縁の元となった契約――姉オデットの名で署名されたはずの契約書に、姉ではない誰かの指紋が浮かんでいた。


指紋は前公爵夫人のものと、姉オデットのものが重なっていた。姉は署名を書いた。義母は署名の筆跡を直したか、あるいは筆を握る姉の手を誘導した。どちらでも公式記録としての偽造には違いがない。


私は壁に手をついた。


石の壁は冷たかった。


廊下の先で、靴音が止まった。


コンラート様だった。


「……お疲れでしょう」


「いいえ。立ち会いの方々のほうが、お疲れでしょう」


「貴女の、ほうです」


短い返事だった。彼はそのあと、少し言い淀んだ。


「リンドホルム嬢」


「はい」


「――それでも、私が兄の代わりだと、疑いますか」


質問ではなかった。答えを求めているのでもなかった。彼はただ、あの書き物の間で受け取らずに終わった言葉の続きを、今日のこの場で置き直していた。


私は壁から手を離した。


「……疑っていたのは、本当です」


答えた声は思ったより、静かに出た。


「疑わずにいることは、私には贅沢でした。繰り返し身代わりにされてきた身で、また選ばれても、私には立てなかったのです」


「――繰り返し、と」


「はい」


「姉君の、代わりに」


「はい」


「兄君の、代わりに」


「はい」


「そのあとに、貴女が残してきた仕組みの代わりに」


「――はい」


コンラート様はそこで目を伏せた。


「――違うと証明するのに、私は生涯をかけます」


堅物の声だった。


堅物の声で生涯を差し出されることの意味を、私は、廊下の石の床の冷たさと一緒に、足の裏で受け取った。


私はその足で歩き出した。


歩きながら、振り返らなかった。


振り返ったら、私はこの廊下で泣いてしまう。廊下の壁には王立の印が刻まれている。王立の印の前で泣くのは、離縁された女が自分に許したくないことだった。


-----


その夜、ノルトハイム邸で、兄が弟の名を怒鳴ったという話が、家令を介して叔父の耳に入ってきた。


「俺の妻だった女を、お前が娶るというのか」


――兄のその声は、屋敷の玄関前まで響いたという。


玄関前に、昼間、屋敷を出入りしていた商人たちが居合わせた。商人たちは翌朝までに、その話を王都の西の市場に持ち込んだ。市場の噂は昼までに王都の中央まで届いた。


兄弟の決別は夜のうちに、王都中に広がった。

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