第6話 眠っていた指輪
叔父の馬車で借家に戻ると、マルタが玄関で湯気の立つ器を用意していた。
「お戻りなさいませ」
「……ありがとう、マルタ」
「今夜までお休みくださいと、館長様からの伝言でございます」図書館の書庫の出来事は、館長のヨスト様が司書たちに事情を簡単に説明してくださったらしい。私は頷いてマルタの差し出した湯を受け取った。手のひらが湯の熱にゆるんでいくのに、しばらく時間がかかった。
叔父は玄関の土間のところで外套を脱がずに立っていた。
「儂はいったん法務院に戻る。午後に、また来る」
「いえ、叔父様。お疲れでしょう」
「儂の疲れの話ではない」
叔父はそう言うと、玄関の外の石畳に目をやった。雨上がりの石に馬の蹄の跡がいくつか残っていた。
「――昨夜、カスパル様が屋敷に戻られたとお前には伝えた」
「はい」
「屋敷にいるということは、そこから動けるということだ」
叔父の言葉が何を示唆しているか、私はようやく理解した。
理解してから私はカップを両手で握り直した。
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叔父が出ていってから、マルタは私に寝台に入るよう勧めた。濡れた衣を着替え、髪を拭かせ、マルタの手ぎわは湯を差したあとの茶葉を扱うように静かだった。
「お嬢様」
「はい」
「しばらくお休みください。お客人の対応は、あたくしが玄関で止められます」
「……たぶん、それでは済まないの」
「承知しております」
マルタは余計な説明を求めなかった。
私は寝台に入らずに、客間の長椅子の上で、毛布を膝に掛けて目を閉じた。眠ったのではなかった。眠ろうとして、うまくいかず、ただ瞼を下ろしていただけだ。
雨上がりの日の借家は、思っていたより明るかった。
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昼を少し過ぎた頃、玄関で馬の蹄の音が止まった。
続いて馬車の扉の音。
石畳を踏む、重い靴音。
玄関の戸を叩く音は遠慮のない叩き方ではなかった。それが、かえって私の胸を打った。遠慮を覚えてしまった人の叩き方だった。
マルタが玄関に出る。
「どちらさまでいらっしゃいますか」
――ノルトハイム公爵、カスパル・フォン・ノルトハイム、と告げる声。
私は毛布を膝から外した。
客間の椅子に掛け直して、息を整えた。髪が乱れていないか、マルタが確かめに来てくれた。櫛を挿し直すあいだ、私たちは何も話さなかった。
叔父は、まだ戻っていなかった。
それでも私は、待たなかった。
「お通しして」
マルタはわずかに躊躇ってから、頷いた。
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カスパル様が客間に入ってきた。
外套を脱いでいなかった。脱ぐ間も惜しかったらしい。裾から雨上がりの石畳の水気が床に少しずつ落ちていた。
「……ノルトハイム公爵。どうぞ、お掛けください」
私は立ち上がらなかった。立ち上がる体力が、今日の私には残っていなかった。マルタがもし客人を重ねて通していたなら、私は立ち上がっていただろう。けれどいま、私は離縁された女で、目の前の人は私を離縁した家の主で、立ち上がらないというささやかな選択が、私に残された姿勢の保ち方だった。
カスパル様は私の向かいの椅子にぎこちなく腰を下ろした。
椅子の木がわずかに軋んだ。
「……戻ってきてくれないか」
最初に口をついた言葉がそれだった。
前置きも、挨拶もなかった。私の体調を問う言葉も、離縁の詫びも、どれもなかった。ただ、戻ってきてくれ、だった。
私は膝の上で手を重ねた。
「私は、戻りません」
「だが、」
「カスパル様の屋敷は、私の屋敷ではございません」
「いや」
「ノルトハイム公爵のご妻女は、今、いらっしゃいません。その席に、私を戻されたいのですか」
「違う、」
「では、何でしょうか」
カスパル様は、言葉に詰まった。
詰まった顔を、私はそのとき見た。屋敷で暮らしていたあいだ、私はこの人の顔を正面から見たことがなかった。挨拶の場で、儀礼の場で、婚礼のときでさえ、私たちは互いに互いの肩の向こうを見ていた。
今日ようやく、正面から顔を見ている。
顔を見られてみれば、この人は私とそう変わらない人の形をしていた。
眉が少しだけ疲れていて、目の下に寝不足の影があって、口元のあたりには言い慣れない言葉を探している固さがあった。
「……俺は、」
「はい」
「俺は直したいと思った」
「何を、でしょうか」
「……貴方があの屋敷に残してきたものだ」
私は息を呑んだ。
呑みたくなかったのに呑んだ。
呑んだあと、私は頭を振った。
「ノルトハイム公爵。失礼ながら、あの帳簿は、貴方のものでございます。貴方が責任を持って直されるべきものです。私ではありません」
「だが、」
「私が再び手を入れれば、また同じことの繰り返しです。誰も引き継がない。貴方のもとにいる代官たちが自分たちで直す力を持たなければ、領地は、結局、崩れるばかりでございます」
私の声は、自分でも意外なほど、乾いていた。
カスパル様は、長く黙った。
そのあいだに、玄関で、別の足音がした。
叔父が戻ってきたのだった。
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叔父は客間に入ってくるなり、私の横に立った。立ち位置で、すでに会話の主導権を取っていた。「公爵。姪の体調が、まだ優れぬ。ひとまず、お戻り願えるか」
「リンドホルム卿」
「はい」
「……俺は、何と詫びていいか、言葉を持たない」
「詫びの言葉は、後からでよろしゅうございます。今夜のところは、屋敷にお引き取りいただきたい」
「わかった」
カスパル様は、長く息を吐いた。それから立ち上がった。
立ち上がりながら、私の方を見た。
「……貴女の名は、イルゼと言うのだな」
私は答えなかった。答えられなかった。
いまさら、だった。
カスパル様はそれ以上は言わず、客間を出ていった。
外套の水気が玄関までの木の床に、まだらな跡を残して去った。
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扉が閉まった音のあと、私は卓の縁に指を置いて、しばらく動かなかった。
叔父が私の横に黙って立っていた。「……泣かなかったな」
「泣く予定がございませんでしたので」
「お前は昔からそうだ」
叔父はそれだけ言って、マルタに湯を頼みに玄関の方へ下がっていった。
私は膝の上に手を戻した。
手は震えていなかった。
震えていないことがいま、少しだけ悔しかった。
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夕刻の近く、空が曇ってきた頃、また玄関に訪いの音がした。
今度は、遠慮のある叩き方だった。
マルタが出ていく。こちらに戻ってくる足音の間合いで、誰が来たのか、私にはわかった。
「コンラート様がお見えでございます」
「……お通しして」
マルタは頷き、それから、ひと呼吸置いてから、続けた。
「奥の書き物の間へ、お通ししましょうか」
「……そうね」
借家の奥には、私が本を読むための小さな部屋がある。机と棚があるだけの部屋だ。客を通すような場所ではない。だが今夜の私は、客間でコンラート様と向き合う気力を持たなかった。
マルタは、私の選択を見越していた。
コンラート様を奥へ案内し、私は遅れて小さな部屋へ向かった。
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書き物の間に入ると、コンラート様は机の前に立ったまま待っていた。
外套は玄関で脱いでこられた。黒の上衣の胸元に銀の刺繍の家紋が見えた。いつもと、何も変わらなかった。
「夜分に、失礼をいたします」
「いえ」
「――昨夜、兄が王都に戻ってきたという話は、届いておられると存じます」
「はい」
「昼過ぎに、こちらに来たという話も」
「……はい」
「ご無事でよかった」
彼の言い方は、「ご無事でよかった」という言葉がどれだけ薄いかを、堅物の彼自身が知っていて、それでも他に言いようがなかったから口にした、という言い方だった。
「座って、お話しくださいませ」
「……立ったまま、よろしいですか」
「どうぞ」
私は棚の前の椅子に腰を下ろした。机を挟んで、彼は立っていた。
彼は外套を預けた代わりに、上衣の胸元から木箱を取り出した。
暗い色の木の箱。
手のひらに収まるほどの大きさで、角が古びていた。
私はその箱の輪郭をどこかで見た覚えがあった。――思い出す前に、彼が口を開いた。
「少し、時間をいただけますか」
私は頷いた。
彼は、長く持っていたその箱を、ようやく開けた。
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箱の中には、銀の指輪があった。
細い輪に、小さな石が埋め込まれていた。石は淡い灰色だった。ありふれた色の石だった。高価な輝きで人目を引く種類の指輪ではなかった。
ただ、指輪は長く仕立てられた指輪の風情をしていた。
銀の輪の内側が、使われていないのにわずかに曇っている。仕立てられてからずっと箱のなかで息をしていたのだろう、という曇り方だった。
「……これは」
「貴女に差し上げたく、仕立てたものです」
「いつ、」
「仕立てたのはずいぶん前のことになります。お渡しするつもりでお渡しできないまま、来てしまいました」
私は机に両手をついた。
「――コンラート様」
「はい」
「貴方は、私を、何だとお思いなのでしょうか」
私の声は少し掠れた。
「兄君が手放した女を、義弟としての責務で迎え直そうとしておられるのですか。それとも、屋敷に残してきた仕組みを、私に直させるために娶ろうとしておられるのですか」
言いながら、私はこの言葉が彼にとってどれほど酷いものかを自覚していた。
自覚していて、口にした。自覚していなければ、口にできなかった。
コンラート様は、私の目を見ていた。
目を逸らさなかった。
「――責務でお迎えする気はありません」
「はい」
「仕組みを直させるためでも、ありません」
「はい」
「貴女を、私の妻に迎えたい。兄の代わりではなく、責務の代わりでもなく、私自身の意志で」
それから、彼は息を整えた。
「求婚の言葉をもっと美しく申し上げるべきだったと、私は昨日までに繰り返し考えました。けれど、私は美しい言葉の引き出しを、あまり持っておりません。ここまでが、私の言葉の精いっぱいでございます」
私は指輪を見た。
それから、自分の左の手の指を机の上に広げた。
なぜ、と自分に問う暇もなく、指が勝手に動いていた。
「……嵌めてみても、よろしゅうございますか」
「……どうぞ」
私は指輪を取った。
薬指にそっと差し込んだ。
指輪は、私の指にぴたりと収まった。
大きすぎも、小さすぎもしなかった。
そのことの意味が、私の指先から肩のあたりまで、ゆっくりと上ってきた。
私は指輪をひとまず外した。
外して、箱のなかに戻した。
「……少し、考えさせてください」
「はい」
「拒んでいるのでは、ございません」
「承知いたしました」
彼は頷いた。
それから机の前から下がって、書き物の間の扉のところまで、黙って歩いた。
扉を開ける前に、彼は私の方を向いて、頭を下げた。
深く、ゆっくりと頭を下げた。
その背中の形を、私はどこかで見ていた。
――あの、雨の日。
離縁されて屋敷を出る馬車に乗り込むとき、門の向こうで、雨のなかで、傘も差さずに頭を下げていた、若い男の背中。
同じ形だった。
背中の角度も深さも、あのときと、何も違わなかった。
私は机の縁を掴んだ。
掴んでいなければ、立っていられなかった。




