第5話 書庫に降る雨と、屋敷の夜
叔父が借家に顔を出したのは、夕方の少し前だった。
こんな中途半端な時刻に前触れもなく訪ねてくるのは珍しい。私は読みかけの写本を卓に置いた。
「お茶の用意をいたします」
マルタが玄関で外套を受け取りながら言った。叔父は軽く頷いて、客間に入ってきた。
座るなり、叔父は私の顔を見た。
「今日は長くはいられない。要件だけ言って、すぐに戻る」
「お聞きします」
「ノルトハイム領の、帳簿のことだ」
私は少しだけ背筋を伸ばした。
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叔父は王立法務院の記録官として、各領地の公式帳簿が正規の手順で提出されているかを定期的に確認している。そのなかでノルトハイム領の帳簿のいくつかが、このところ妙に体裁を崩しているのだという。
「体裁、とおっしゃいますと」
「お前が整えた書式が、どんどん変わっている。仕入れの勘定と、倉の在庫の照合が合わない月が増えた。代官の署名が、同じ月のうちに別の筆跡で並んでいる頁もあった」
私は視線を卓の縁に落とした。
嫁いでいた頃、私は屋敷の誰にも頼まれないまま、公爵家の帳簿に手を入れていた。はじめはただ、読める形に整え直していただけだった。代官たちの筆跡は流派が違いすぎて、同じ帳簿のなかで書式が入れ替わっていた。日付の入れ方も月ごとにまちまちだった。それを、屋敷の書庫に出入りするついでに、私は整えていった。
見知らぬ家に嫁いで、夫に顔も見てもらえない娘が、せめて屋敷のなかで何かをしている証を、自分のために残したかったのだと思う。そういう、情けない動機だった。
だから、私が離縁された後でその書式が崩れ始めているというのは、誰も私のしたことを引き継がなかった、という話だ。
「お前があのとき、誰にも言わずに直していた仕組みだな」
「……はい」
「ほかの領地から見ても、目立つほどに崩れてきている」
叔父は湯気の立ち始めた紅茶に、まだ手をつけていなかった。
「お前に、この話を聞かせてよかったものか、私も迷った。だが、お前が知らないままでいる方が、私は嫌だと思った」
「……ありがとうございます」
「屋敷に戻れ、と言っているのではない」
「わかっております」
「ただ、お前があの家に、何を残してきたのか。それを、お前自身が、忘れないでほしい」
叔父はそう言ってから、ようやく紅茶に口をつけた。
マルタが暖炉の薪を足した。
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叔父が帰ったあと、私は図書館に出かけた。
閉館前に処理しておきたい書物があった。今日のうちに書庫の奥に運び入れなければ、明日からの長雨で濡れる危険がある。この時期、王都の屋根は古い建物から順に雨漏りを始める。図書館も例外ではなく、北側の天窓の継ぎ目から、毎年どこかの梅雨で水が落ちてくる。
今年はもう、落ち始めていた。
受付の同僚に「私が奥を片付けておきます」と告げた。彼女は頷いて先に帰っていった。館長のヨスト様は、今日はほかの区画にかかりきりで、私のいる階にはいなかった。
保管区画の棚の並びを思い出しながら、私は書架の足元に積まれた写本の束を順に動かしていった。天窓の下から水が落ちる場所と、書物の位置をずらす作業だった。
気がつくと、外の雨音が強くなっていた。
蝋燭の灯りの外で、石の床の色が濡れたように見え始めていた。天窓から、たしかに雫が落ちている。木の桶を司書長の部屋から借りてこなければ。
書庫の扉の前まで戻ったとき、廊下の奥で、鍵が外から掛かる音がした。
書庫の鍵が外から掛かる音を、私はその夜、久しぶりに耳にした。
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屋敷にいた頃、私は書庫で本を読みふける娘だった。
屋敷の女中頭が、「奥様を夜の書庫に放っておくと、風邪を召される」と気を揉んで、私が居るあいだに書庫の扉を締めて鍵を掛け、取りに来させる方式をとっていた時期があった。鍵の回る音はあのとき、私を少しだけ安心させた。外から締められていれば、少なくとも屋敷の廊下を通る誰とも顔を合わせずにすむ。
けれど今、図書館で掛かった鍵は、安心を連れてこなかった。
「お待ちください」
私は扉に手をかけて、声を張った。
「まだ、中に人がおります。開けてください」
返事はなかった。
扉越しの廊下に、すでに誰もいないのがわかった。閉館前の巡回で、事務員が奥までは確認せずに施錠して帰ってしまったのだ。私が奥に詰めているのを、同僚に伝えそびれた。
司書長のヨスト様は、今日は他館の会議に出向いている。戻りは朝だと聞いている。鍵の束は司書長の手元にある。
私は扉に額を預けた。
冷たい木の感触に、ひとまず呼吸を整えた。
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雨は強くなっていた。
天窓からの雫はもう断続的ではなくなり、細い線を引いて落ち始めていた。私は蝋燭を掲げて桶の代わりになる空の木箱を探し、書物の下に差し入れていった。濡らすわけにはいかない写本が、私のすぐ目の前にあるという事実が、いま私の閉じ込められた不安よりも、先に動くべき理由を私に与えた。
手を動かしていれば、考えないでいられる。
どのくらいのあいだ、そうしていただろう。
廊下の奥で、靴音がした。
速い歩調。そのあと、立ち止まる気配。
「――リンドホルム嬢」
扉の向こうから、聞き慣れた声がはっきりと届いた。
「コンラート様」
私は扉に近づいた。
「どなたか、鍵を」
「司書長は朝まで戻らないと、受付の書記から聞きました。私の方で代わりの鍵を探させております。ただ、この図書館の保管区画の鍵は、管理が厳重で、司書長の許可なしには動かせないそうです」
「……朝まで、ですか」
「ええ。朝まで、です」
扉越しの声がそこで、呼吸を整えた。
「外からこの扉を壊すという選択肢もあります。ですが、そうしてしまえば、貴女がここに残って書物を守っていたという仕事の意味が、損なわれる気がいたします」
彼は、私が桶の代わりを差し込み続けていることを扉越しに察していた。
私は、少し笑ってしまった。
笑ったことを、自分で意外に思った。
「壊さないでください。書物のほうが、大事でございます」
「承知いたしました」
「コンラート様は、どうぞ、お帰りくださいませ」
「……それは、難しいのです」
「なぜ」
彼は少し黙ってから、続けた。
「隣の資料閲覧室で朝まで、お待ちします。扉は開けません。貴女の側から開けたいとおっしゃらない限り」
私は扉の木目に指を当てた。
「……どうか、お帰りください。朝まで、そんな」
「お帰りくださいと重ねて言われると、私は、かえって、ここを離れにくくなります」
率直な物言いだった。
堅物のこの人が、ほかにどんな口のきき方を知っているのか、私はいまだに見たことがない。
「……左様でございますか」
「ええ」
「では、お言葉に甘えて」
「承知しました」
靴音が、隣の資料閲覧室の方へ移っていった。
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隣室の扉が開く音。
そのあと、椅子が軽く鳴る音。
それ以降、音はしなかった。
私は書庫の蝋燭を増やし、木箱を追加で差し入れ、書物の位置を、より安全な棚の段へと動かし続けた。天窓から落ちる雫の線は太くなり、細くなり、また太くなった。手は動かしていれば冷えなかった。
手が止まった瞬間、私は自分の頬が冷えていることに気づいた。
壁に背を預けて、私はしばらく目を閉じた。
扉の向こうで、彼は何をしているのだろう。
椅子に座って、彼もまた、ただじっと雨音を聞いているのか。
それとも、何か書物を開いて、読んでいるのか。
開いていないはずだ、と私は思った。
書物を取ろうとすれば、棚の方向から衣擦れの音がする。それを私は聞いていない。
つまり、彼はただ、座っていた。
外は雨。中は雨の音。扉の向こうで、堅物の騎士団法務官がただ、座っている。
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【カスパル視点】
屋敷の書斎で、俺は暖炉の炎を見ていた。
長雨に紛れて屋敷に戻ってきたのは、気まぐれとも言えなかった。領地に居続けられなくなった、という方が近い。代官たちが俺の顔色を伺うようになった。帳簿の体裁が崩れているらしいというのは、俺の耳にも入っていた。けれど直し方を俺は知らない。もともと、俺が直してきたものではないからだ。
母は先月から体調を崩して、王都の別邸に移っている。俺は、母のいない屋敷の書斎にいる。誰かに何かを相談するという役目を、俺は久しく忘れている。
――あの女の名を、俺は呼んだことがあったか。
暖炉の灰の上で、まだ燃えきらずに膨らんでいる紙切れがある。薪に紛れて投げ込まれた、どこかの報告書の端だ。紙が燃えていく匂いを、俺は昔から嫌いではなかった。母の暖炉でも、この匂いはよくした。
紙の匂いをしていたのは薪ではなかったのかもしれないと、今更のように、思う。
「アリ、」
呼びかけて、喉が止まった。
俺はその名を知らなかった。知ろうとしなかった。嫁いできた日に、宣誓の場で、俺はその名を耳にしたはずだった。それきりだ。書類の宛名を直す機会は、毎日あった。直さなかった。
弟のコンラートが王都の図書館で、あの女に毎日会っているらしい。
そんな噂を、俺は最近、耳にした。
俺は、馬車を呼んだ。王都の屋敷へ行くためだ。
何をしに行くのか、俺自身、わからなかった。
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書庫の蝋燭の芯が短くなった。
新しい蝋燭に換えて、私は壁の高いところの、小さな通気の格子を見上げた。外はすでに、夜だった。
扉の向こうから、声がした。
「――リンドホルム嬢」
「はい」
「夜食をお取りになっておられないでしょう。何か、お通しできるものがあれば」
「いえ。お気遣いなく」
「ですが」
「私は、こういう夜を過ごしたことがございます。大丈夫でございます」
扉の向こうが、しばらく黙った。
「そうでしたか」
短い返事だった。けれどその短さのなかに、彼が呑み込んだ言葉の輪郭を、私は感じ取った。
屋敷にいたとき、私がどういう夜を過ごしていたのか、彼は、知っているのだ。
そう気づいた瞬間、私は蝋燭に手をかざして、炎の熱で指先を温めた。あたたかいはずの指が、なぜか、冷たく感じた。
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夜が更けるにつれ、雨音はむしろ静かになった。
雫の落ちる間隔が、ゆっくりと長くなっていった。私は書物の整えが済んでしまうと、することがなくなった。壁に背を預けて、蝋燭の炎の揺らぎを見ていた。
扉の向こうで、椅子の脚が石の床を鳴らす音がした。
坐り直したのだろう。
それきり、音は途絶えた。
私は扉の木目をじっと見た。
扉は開かなかった。
彼は「貴女の側から開けたいとおっしゃらない限り」と言った。言った通りにした。夜の書庫に女を閉じ込めておいて、隣の扉から開けないというのは、堅物にしかできない忍耐だ。
そして私は、自分が扉を開けさせる言葉を、最後まで口にしなかった自分のことも、見届けていた。
私は、開けたくなかったわけではなかった。
ただ、開けさせたあとの、自分の顔を、見られたくなかった。
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夜明け近く、雨は止んだ。
通気の格子の向こうで、空気の色が薄くなっていった。蝋燭の数が段々と少なくなってきていた。残った蝋燭に火を移してから、私はカウンターの向こうの床に腰を下ろした。体が冷え切っていた。
廊下の奥で、鍵の音がした。
重なった足音。司書長のヨスト様が、予定より早く戻ってこられたらしい。
扉が開いた。
「……リンドホルム嬢。申し訳ない」
ヨスト様の白い髪が、薄明の光のなかで少しだけ乱れていた。ここまで馬で戻ってきてくださったのだろう。
「書物は、無事でございます」
「貴方が、大事だ」
ヨスト様はそう言って、私に外套をかけてくださった。
私はヨスト様の肩越しに、廊下を見た。
資料閲覧室の扉が開いていた。
コンラート様がその入り口に立っていた。
目の下に、昨夜はなかった影ができていた。外套の裾のあたりが、わずかに皺になっていた。椅子の上で体を預けた跡だろう、と私は思った。
私は何か言おうとして、言葉が出てこなかった。
彼はただ、軽く会釈をした。
それだけだった。
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玄関の外で、叔父が雨上がりの石畳の上に馬車を止めていた。
「イルゼ」
叔父は、私の顔を見るなり駆け寄ってきた。
「知らせが来た。カスパル様が、昨夜、王都の屋敷に戻られたそうだ」
私は叔父の顔を見つめた。
叔父の顔には、まだ眠気が残っている。駆けつけてくださるために、早起きをしたのだ。
私は叔父の腕を支えて、頷いた。
「……承知しました」
雨上がりの王都の空に、薄い青が滲み始めていた。




