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姉の身代わりで嫁ぎ、離縁されました。今度こそ本物の妻として嫁ぎます。  作者: 秋月 もみじ


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第4話 燃えたはずの手紙


夜会のあとも、コンラート様は閉館前に図書館を訪れ続けた。


雨の日も雨の上がった夕暮れも、古典法の棚から順に書物を指していった。私は淡々と貸出を記帳し、淡々と書物を差し出した。会話は挨拶の域を出なかった。


マルタが淹れる紅茶の色は、ますます濃くなっていった。


-----


春の長雨が戻ってきた頃、その日も、コンラート様は現れた。


閉館の鐘が鳴り終わった直後だった。私が蝋燭の火を落とそうとしていた手を止めたのは、ただ靴音がいつもと少し違ったからだ。


いつもより、速い。


「リンドホルム嬢」


カウンターの向こうで、彼は口を開きかけて閉じた。それからふたたび口を開いた。


「書庫の奥を、お借りしたいのですが」


「奥、とおっしゃいますと」


「古典法の棚よりも、さらに奥――保管区画のほうを」


保管区画は司書補が鍵を預かっている。貸出の対象にならない書物や、引き取り手のない寄贈品を積んでおく埃っぽい場所だ。普段は館長のヨスト様がときおり確認に入る程度で、誰も好んで足を踏み入れない。


「どういう、ご用件でしょうか」


「差し上げたい、というよりは――お返ししたい、ものがあります」


私は羽根ペンを置いた。


彼の表情は、いつもの堅物のそれだった。けれど口元のあたりに、わずかに緊張が滲んでいた。それは私が気づけたのではなく、こちらに気づかれていないと彼が思っているからこそ見えてしまった種類の緊張だった。


「……ご案内いたします」


私は蝋燭を持ち直した。


-----


保管区画の扉は重い。


私は鍵を回した。蝶番の軋む音が、誰もいない図書館の奥に長く尾を引いた。


中は冷たい空気の層があった。書物の匂いと埃の匂い、わずかな黴の匂い。蝋燭を高く掲げて、私は先に入った。コンラート様は無言で続いた。


「どのあたりに」


「――奥の、壁寄りの棚です」


私は訝しく思った。この区画に、彼が目的の品を置いている道理がない。寄贈品の整理は館長が仕切っている。知らない人間が自分の荷をここに隠すことは、できない。


ただ、知っている人間に頼めば、できる。


「館長にお願いして、置かせていただいたものがあります」


やはり、そうだった。


「……ヨスト様に」


「ええ。折を見て、お返しする機会があれば、と」


彼の声は普段より低かった。


-----


奥の、壁寄りの棚。


寄贈の品らしい古い紙束がいくつも無造作に積まれていた。その中に黒い布に包まれた文箱があった。持ち手のところが使い込まれた艶で沈んでいる。


コンラート様は箱の前に立って、黒い布の結び目に手をかけた。


そこで動きが止まった。


「――何か、お心変わりでも」


私がそう訊ねると、彼は頭を振った。


「いえ。ただ、これをお渡しするのに、どう言葉を選べばいいのか、今、考えておりました」


「普段通りで、よろしゅうございますよ」


「普段通り、というのが、この件については、難しいのです」


私は黙った。


彼はようやく、結び目を解いた。


文箱の蓋が軋みもせずに開いた。中には古い封筒が重ねて入っていた。


コンラート様はその中から表にあった封筒を手に取って、私の目の前に差し出した。


「これを、お返ししたいと思っておりました」


私は受け取った。


指の先が封筒の紙にふれた瞬間、わかった。


私の字だ。


宛名は叔父ハラルト。差出人は私。嫁いで間もない冬に、家から遠く離れた屋敷の部屋で、寝付けない夜の終わりに書いた手紙だった。


私はこの手紙を、屋敷の女中に託したはずだった。


届かなかったことは、叔父から便りが来なかったことですぐにわかった。それでも私は書き続けた。返事が来ないまま書き続けた。書かないと呼吸ができない夜があったから。


その書いた手紙の束が、どこに行ったのか。


私は、知っていた。


――屋敷の、ヘートヴィヒ様の暖炉。


燃えていく紙の匂いを、私は廊下の向こうから嗅いだことがあった。


紙の燃える匂いは薪の燃える匂いと少しだけ違う。嗅いだとき私は廊下の途中で立ち止まり、そのまま自分の部屋へ引き返した。確かめに行くことはしなかった。確かめに行けば、私は屋敷にいられなくなる気がしたから。


その、燃えたはずの封筒が。


今、私の手の中にある。


-----


封筒の折り目は、擦り切れかけていた。


紙の端の繊維が、綿のようにほぐれ始めている。表の宛名の文字のインクは紙の中に深く染み込んで、色が薄れていた。軽く触れられただけの紙の疲れ方ではなかった。


私はその擦り切れを指でなぞった。


なぞってから、意味を考えるのをやめた。


考えたら、立っていられなくなりそうだった。


「これは、どうして」


声が、思ったより掠れた。


「――母が、暖炉に投じるのを、見ておりました」


コンラート様は静かに答えた。


「母は、貴女が屋敷の使用人に託した手紙を、日を置かずに引き取っていました。兄の屋敷の郵便は、母が差配していたので」


「……はい」


「暖炉の火が小さくなって、燃え残りが出ることが、たまにあります。そのとき、まだ灰にならずに済んでいたものを、私は、拾いました」


「……拾われた」


「ええ。――すべてを救えなかったことは、私の罪です」


彼はそこで言葉を切った。


それから私の目を見ずに、続けた。


「兄の離縁を、止めようとはしなかったことも、私の罪です。――離縁を望んだのは、兄ではなく、母です。兄は、母の言うままに、署名しただけです」


私は、手紙を握る手に、力を入れすぎないよう気をつけた。


紙は古くなっていた。力を入れれば、音を立てて折れてしまいそうだった。


「……コンラート様」


「はい」


「屋敷の、あの暖炉の前に、よく、いらっしゃったのですか」


「……いえ、そういうわけでは」


「燃え残りを拾うには、暖炉の前にたまたまいるだけでは足りません」


彼は黙った。


しばらくして、彼は書庫の石の床に膝を折った。片膝だった。堅物の騎士団法務官が、埃っぽい保管区画の床に片膝をつくということの意味を、私はわかっていた。わかっていて、止めなかった。


「――兄の離縁を、止めようとはしなかった。それが、私の、罪です」


彼の声は落ち着いていた。落ち着いていればいるほど、私はそれが、長く繰り返し、自分の中で練習されてきた言葉だと感じ取った。


私は手紙を胸のあたりに引き寄せた。


封筒の擦り切れた縁が、昼の衣の胸元にこすれた。


――この人は、いつから、この手紙を持っていたのだろう。


考えかけて、私は考えるのをやめた。


それを考え始めると、私はこの人の沈黙の意味を、数え始めてしまう。数えたら、どこかで泣いてしまう。泣くことは今日の私の予定にはなかった。


「――お立ちください」


私は言った。


「床が、冷とうございます」


「いえ、私は」


「お立ちください、コンラート様」


私は彼の目を見た。


彼はようやく立ち上がった。外套の膝のあたりに埃がついていた。私は手を伸ばしてその埃を払ってあげようとして、途中でやめた。払うには距離が近すぎた。


「この手紙は、いただきます」


「ええ」


「ありがとうございます」


「礼には及びません」


「礼を、言わせてください」


彼は小さく頷いた。


-----


私は彼より先に保管区画を出た。


扉を閉めるとき、指先が鍵のあたりで少し震えた。


カウンターまで戻って、燭台の火を順に落としていった。コンラート様はカウンターの向こう側で、私が燭を消し終わるのを黙って待っていた。


「――また、伺ってもよろしゅうございますか」


「ええ」


私は頷いた。


「雨の日でも、雨の上がった日でも」


「どうぞ」


彼は頭を下げて、図書館の扉を押した。


重い扉が閉まる。雨音が図書館の内側から、また閉め出された。


私はカウンターに両手をついた。胸元にしまった封筒が、肋骨のあたりで紙の衣擦れの音を立てた。


家に帰ったら、叔父に見せるのだ。


そう決めた。


決めてから私はカウンターのへりに額を当てて、しばらく顔を上げなかった。


-----


借家に戻ったとき、マルタは玄関の土間で、私の外套の裾の水気をすぐに拭った。


「今夜はずいぶんと、重いお顔をしていらっしゃる」


「少し、疲れましたの」


「湯を多めに沸かしましょう」


「……ありがとう」


私は客間の卓に封筒を置いた。


卓の上の蝋燭の光の下で、封筒はひどく小さく見えた。胸元に抱いていた間、肋骨の熱でほんのわずかに温まっていた紙が、卓の上に戻されると急に冷えていく気配があった。


叔父に早馬を出すべきか、それとも明日を待つべきか。考えていると、マルタが湯気の立つ器を持って入ってきた。


「お夕食は、軽いものを用意しました」


「ありがとう」


「お嬢様」


「はい」


「その封筒は、燃えないところへ仕舞っておかれるのがよろしゅうございますよ」


私はマルタを見た。


マルタは卓の上の封筒を、ちらりとも見ないようにしていた。見ないようにしながら、私に言っていた。


「……そうするわ」


「承知いたしました」


マルタが器を置いて下がっていったあと、私は封筒を両手で包み直した。


窓の外で、また雨が降り始めていた。

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