第3話 春の夜会
支度の段になって、私は鏡を見る気になれなかった。
マルタが背の紐を締める手つきは慣れていた。もとはこの家に、私の母の侍女として仕えていた人だ。マルタの指が私の肩甲骨のあたりを滑って、紐を所定の位置に収めた。
「お嬢様。少し、痩せましたね」
「雨が続いたせいだわ」
「雨は、昨日で上がりました」
私は黙って鏡の端に視線を寄せた。
鏡の中の女は、私が覚えているよりも頬の影が深かった。薄水色の夜会服は実家の箪笥の奥に眠っていたものだ。嫁ぐ前の娘が着るような色で、今の私には少し若すぎた。それでも喪の色は選べない。私は喪に服してはいない。ただ、離縁しただけだ。
「櫛を、お母様のお形見で」
「もちろんでございます」
マルタが結い上げに使った櫛は、象牙の細いものだった。母が亡くなる前、父と並んで座っていた夕の窓辺で髪を梳いていた櫛だ。私は櫛の歯の揃い方を指の腹でたしかめた。
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「馬車が参りましたよ」
叔父の声は、玄関の外からも聞こえた。
出てみると、叔父ハラルトが私のために外套を広げて待っていた。
「似合う」
「似合いますか」
「母上に、よく似た」
私は少しだけ笑った。お世辞だとわかっていても、叔父が母の話を持ち出すと、私はいつも息が楽になる。
馬車に乗り込む。叔父は私の向かいに座り、膝の上で指を組んだ。
「今夜、無理はしなくていい」
「はい」
「顔を出して、挨拶して、帰ってくる。それだけのことだ」
「はい」
「顔を出すこと自体に、意味がある」
――顔を出すこと自体に、意味がある。
叔父がそう言うということは、そういう話なのだ、と私は理解した。
南方の小国で姉の夫が躓いたという話が王都に届いてから、貴族社会では私のことを思い出す者が少しずつ増えているという噂が叔父の耳に入ったらしい。忘れられたままでいたいと私は望んだ。けれど忘れられ続けるためには、むしろ顔を出して「何もない娘」のままであることを見せておく方がいいと叔父は言った。
私は叔父の言葉を信じている。
馬車の窓の外で、王都の街灯が揺れていた。雨上がりの石畳が、灯りを滲ませていた。
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夜会の階段を上がりながら、私は、これが処刑台ではないことを、自分に言い聞かせていた。
王宮の大広間は、記憶より眩しかった。シャンデリアの光が天井から降りて、大理石の床を磨き上げていた。楽師の演奏は控えめで、話し声と衣擦れの音に溶けていた。
叔父は私の肘のあたりに手を添えて、ゆっくりと進んだ。速く歩くなという合図だ。私は速くは歩かなかった。
視線は、感じていた。
気づかないふりをしてくれる人の視線が半分。気づいているつもりの人の視線が残り半分。どれも私の顔を見てはいなかった。私の手元、私の装飾、私の髪の結い方、私の夜会服の古さ、そういうものを見ていた。
「リンドホルム卿」
ふいに、叔父の名を呼ぶ声がかかった。
叔父が振り返った先に、ノルトハイム前公爵夫人――義母だったヘートヴィヒ様と、夫だったカスパル様が立っていた。
私は、息を止めなかった。
止めないことを、叔父と歩く間に決めてきた。
「夫人。ご無沙汰しております」
叔父が先に会釈をした。
「リンドホルム卿。お変わりなく」
ヘートヴィヒ様の声は相変わらず鈴を振るような響きだった。社交界でもっとも美しく年を重ねた女、と言われている声だ。その声が私に向けられたとき、私は浅く頭を下げた。
「ご機嫌よう、義……」
言いかけて、私は言葉を呑んだ。
もう、義母ではない。
「ご機嫌よう、夫人」
ヘートヴィヒ様は、わずかに首を傾げた。
「あなた。少し、お痩せになりましたね」
「雨が、続きましたので」
「まあ、そう」
それだけだった。扇が閉じられる音がした。会話は終わり、ヘートヴィヒ様はもうこちらを見ていなかった。
カスパル様は会話の間、私の斜め後ろの壁を見ていた。
私もカスパル様の肩の向こうを見ていた。
それがおそらく、私たちのこれきりの挨拶だった。互いの顔を結局、正面から見ることはなかった。
叔父が私の肘をそっと押して、私たちはその場を離れた。
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広間の端を進んでいるとき、姉に気づいた。
姉は広間の中央近くで、男性と話していた。背の高い、やや肩の張った人で、南方の仕立てらしい外套を羽織っている。姉の夫だ。
姉の笑い声は昔と同じで、少しだけ高い。
私は顔を逸らそうとした。
逸らすより先に、姉がこちらを見た。
姉の表情が、止まった。
白い手袋を外しかけていた手から、布が滑り落ちた。片方の手袋が大理石の床に音もなく広がった。周囲の会話がそのあたりだけ、ふっと薄くなった。
「……エメリック」
姉が呟いた。
姉の夫の名は、そうではなかった。
私はそれを、姉の婚礼を他家の噂で聞いたときから、知っていた。姉の夫となった南方出身の外交官の名は、エメリックではない。
姉は、夫でない男の名を、夫の目の前で、呟いた。
姉の夫の顔が凍った。
それから何事もなかったかのように、姉の夫は膝を折って手袋を拾った。
「落としましたね」
「……ありがとう」
受け取る姉の手が、震えていた。
私は視線を戻した。
叔父の肘の圧が、私の腕にわずかに強く添えられた。「進め」という合図だった。私は進んだ。振り返らなかった。
振り返らなくても、周囲の空気が、姉の失言の意味を測りかねている音が背中越しに届いていた。
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広間の壁際で、私は呼吸を整えた。
壁に寄りかかるわけにはいかない。貴族の女は壁に寄りかかってはいけない。けれど壁の前に立って、扇を開いて顔を扇いでいるぶんには、誰も咎めない。
叔父は少し離れたところで、古い友人と話し始めていた。私に静かに呼吸する時間をくれたのだ、と思う。
扇を動かす手の、手袋の白い布の端が壁の塗装でこすれて、くすんだ灰色の汚れをつけていた。
――いつのまに。
自分でも気づかずに、壁に軽く触れていたらしい。扇を動かす手の動きがぶれて、広間の明るいところへ出るに出られなくなった。
「失礼いたします」
耳の近くで、声がした。
低く、落ち着いた、水を湛えた井戸のような声だった。
顔を上げると、コンラート様が私のすぐ横に立っていた。
外套ではない、黒の夜会服。胸元には家紋の銀刺繍。手には畳まれた白いハンカチをこちらに差し出していた。
「お使いください」
「……」
「無理に、と申しているのではございません。ただ、今ここで手袋を汚したまま広間の中央に戻られるのは、あまりご本意ではないだろうと存じましたので」
私はハンカチを受け取った。
手袋の汚れを、ハンカチの端に押し当てた。白い布の上に壁の塗装の粉が移った。こすらずに、ただ押し当てるだけで十分だった。
「ありがとうございます」
「お返しは、結構でございます」
「そういうわけには」
「どうしても、とおっしゃるなら、図書館の貸出カウンターで」
私は顔を上げた。
コンラート様は笑ってはいなかった。ただ、目尻のあたりがわずかに柔らかかった。それが堅物のこの人の笑顔なのかもしれないと私は思った。
ハンカチを手のひらに握り直したとき、指先が布の端に縫われた刺繍に触れた。
ノルトハイム公爵家の黒鷲。
その裾に銀糸で、何か別の形が小さく添えられていた。
指先の感触だけが、そのあたりで止まった。
――家紋の、意匠のうちでしょう。
私はそう納得した。夜会服の家紋には流派ごとに意匠の組み合わせがある。黒鷲に添えられた小鳥のかたちも、ノルトハイム家の伝統のどこかの細部だろう。ハンカチの刺繍を詳しく観察する余裕は、今の私にはなかった。
「……コンラート様」
「はい」
「このハンカチは」
「差し上げたもの、とお思いいただければ」
彼はそれだけ言うと頭を下げて、壁際から離れた。
人の流れの中に紛れて、背中は広間の向こうへ遠ざかった。
私はハンカチを握ったままその場に立っていた。
握る指が少し、強くなっていた。
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「イルゼ」
叔父が戻ってきた。
「帰ろう」
「はい」
「ずいぶん立派に、乗り切った」
「姉のおかげでしょう」
叔父は苦笑して、私の肘を支えた。広間の出口に向かって歩き始めたとき、私は背中に、刺すような視線を感じた。
振り返らずに歩いた。
それでも、その視線の持ち主が誰か、私にはわかった。
広間の奥、柱の陰から、ヘートヴィヒ様がじっと私の背中を見ていた。
私を嫁として受け入れた日と同じ温度で。
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馬車に戻って、私はようやくハンカチを膝の上に広げた。
白い布の真ん中に、灰色の小さな汚れが移っていた。
家に帰ったらこれを洗うのだと思った。洗って、乾かして、畳んで、引き出しに仕舞う。そこまで考えて、私は自分の考えに笑いそうになった。差し上げたものと彼は言った。返さなくていいものを洗って仕舞うということの意味を、考えないようにしていた。
叔父は馬車の向かいで、何も言わずに窓の外を見ていた。
知らないふりをしてくれる叔父の横顔を、私はありがたく眺めた。
石畳を行く車輪の音が雨上がりの王都の夜に、静かに響いていた。




