第2話 名前を、呼び直す人
「リンドホルム嬢」
その声を、私はしばらく理解できなかった。
雨音に混じった響きが自分の名を呼ぶものだと気づいて、私は遅れて顔を上げた。
男は傘を持たない手で濡れたフードを外した。黒髪の雫が、羊皮紙の貸出簿に染みを落とした。
私はその染みから目を逸らせなかった。
染みの形が、離縁の朝に馬車の床へ落ちた雨粒と、よく似ていたからだ。
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「……コンラート様」
ようやく口にしたその名は、喉の奥で少し掠れた。
「夜分に、申し訳ありません」
「いえ。閉館までは、まだ間がございます」
「では、貸出をお願いしたい」
彼は書物の題を告げた。それを聞いた瞬間、私は羽根ペンを握る手を止めた。
――あの本。
屋敷の書庫の、奥まった棚にあった古い法典の写本だった。私が嫁いだ冬、誰からも声をかけられない日々の多くを費やして読みこんだ本だ。
同じ題の写本は、王立図書館にもある。偶然だ、と自分に言い聞かせた。
そのはずだった。
「こちらの棚にございます。お待ちください」
私は立ち上がった。椅子が石の床を鳴らした。
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古典法の書架は、窓から遠い列にある。この時刻には燭台を増やさないと背表紙の文字が読めない。
燭の火を移しながら、私は自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。
――落ち着けばいい。
あの方は義弟だ。正確には、義弟だった人だ。王立騎士団の法務官であれば、古典法を読む理由はいくらでもある。私の読み癖を知るはずもない。屋敷の書庫で私が何を読んでいたかなど、あの家で見ていた者はいなかった。
そう、誰も。
――誰も、見ていなかったはずだ。
書物を抜いて、カウンターへ戻った。
コンラート様はカウンターの前から動いていなかった。外套の裾から雨がまだ石の床に落ちている。小さな水溜りができかけていた。私は視線をそこに落としてから、書物を差し出した。
「お待たせいたしました」
「手間を、かけました」
「貸出証に、ご記名をお願いいたします」
羽根ペンを差し出す。
彼の指がペンを受け取った、そのときだった。
外套の胸元が、燭の光に揺れた。
胸のあたりに、何かが入っている。
手のひらに収まるほどの、四角いもの。
――書類ではない。
そう感じたのは、輪郭が立ちすぎていたからだ。書類ならば布に沈む。沈まないということは、それは箱だ。
私は視線を手元に戻した。見てはいけないものを見てしまった気がした。
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ペンを走らせる音。
彼の筆跡は予想よりずっと細く、迷いのない字だった。「コンラート・フォン・ノルトハイム」と区切りをつけて書く。それから貸出の日付を入れる。
そこで手が止まった。
貸出簿の前の頁を、私が手元に置いたままにしていたことに気づいたようだった。
そこには私の筆跡で書かれた、私自身の記名がある。
「イルゼ・リンドホルム」
司書補として名を書くとき、私は夫の家名を外している。それはこの図書館の中では私の自由だった。
彼は、頁の縁に視線を置いた。
それから何も言葉を足さずに、自分の頁へ戻り、記入を終えた。
「ありがとうございました」
羽根ペンを返す手つきは、ただ礼儀正しかった。
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書物を差し出す。
受け取る指が、私の指に触れる手前で止まった。堅物の作法として当然のことだ。触れるべきでないとわかっている人の、間の取り方だった。
「返却の期限は、月が変わる前まででございます」
「承知しました」
彼は書物を外套の内側に収めた。胸元の四角いものに背表紙が触れたのが、布越しの影でわかった。
「――コンラート様」
思わず、呼んでしまった。
彼が顔を上げた。
私は自分が何を言うつもりだったのか、わからなかった。
「……外は、お足元が悪うございます。よろしければ、貸出用の傘を」
苦し紛れに口から出た言葉だった。
彼は間を置いて、首を振った。
「雨には、慣れております」
「左様でございますか」
「ええ。――また、伺います」
「……承知いたしました」
彼は頭を下げ、フードを被り直し、重い扉を押した。
扉が閉まる音。
雨音がふたたび図書館の内側から閉め出された。
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私はカウンターに両手をついた。
羊皮紙の貸出簿の、彼の頁を見下ろした。
整った細い字の下、貸出の日付の横には、何もない。ただ日付があるだけだ。
――何を、期待したのだろう。
自分に呆れた。
燭の炎が揺れて、その隣にある前の頁、私の名の上を、影が通った。
「イルゼ・リンドホルム」
あの人は、この頁を見た。
そして、何も言わなかった。
何も言わないということは、確かめに来たということだ。私の名がもう夫の家名を冠していないことを。
――そう思ってから、私は頭を振った。
考えすぎだ。堅物の義弟殿にそんな含みがあるはずもない。書物を借りに来た者が貸出簿に目を落とすのは、当たり前のことだ。
そう自分に言い聞かせて、燭を消した。
石の床の、彼が立っていたあたりの水溜りが、いつのまにか広がりながら、端から乾き始めていた。
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借家へ戻ると、マルタが湯を沸かして待っていた。
「今日はずいぶんと、遅うございましたね」
「閉館前に、お客様がいらして」
「雨の日に、珍しゅうございますね」
「ええ」
それ以上、私は何も言わなかった。マルタも訊かなかった。
紅茶が注がれる音が、暖炉の薪が爆ぜる音に重なった。カップの取っ手が熱くて、私は指を離し、また握り直した。
湯気の奥で、マルタが静かに言った。
「お嬢様」
「なんですか」
「今日はお夕食に、鰆のような魚を用意しましたの。白身をバターで焼いて、塩だけを添えて。ご存じのとおり、あたくしの得意ではありませんけれど」
「……ありがとう」
「召し上がってくださいませ」
私は頷いた。
本当は食欲がない夜だった。けれどマルタが魚をさばいている間、私が図書館で燭の火を消していたことを思うと、断ることはできなかった。
魚は少し焼きすぎていた。
それが、ありがたかった。
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翌日、閉館の鐘が鳴る少し前に、扉が軋んだ。
石の床に、靴音。
私は顔を上げずに、わかった。
「ご来館、ありがとうございます」
「昨日の、礼を申し上げに」
「礼には及びません」
「では、貸出をお願いしたい」
私は燭の火を入れ直した。
その夜、彼が指した書物は、屋敷にいた頃、私があの本の次に手を伸ばした本だった。
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彼は、次の日も来た。
その次の日も。
雨の日にも、雨の上がった夕暮れにも、古典法の棚から順に書物を指した。
順番に、意味があった。
屋敷にいた頃、私が読んでいった順だった。
私はそれに気づいて、そして気づかないふりを続けた。
マルタが淹れる夜の紅茶の色が少しずつ濃くなっていくことにも、気づかないふりをした。
「お嬢様。このごろ、お顔の色が」
「雨が続きますもの」
「左様でございますか」
マルタはそれ以上は言わなかった。
窓の外で、雨がまた降り始めていた。




