第1話 雨の書庫で
雨の日には、誰も図書館に来ない。それが、私がようやく辿り着いた、唯一の休息の時間だった。
貴族社会では、私の名は半ば消えている。残りはひそひそ声の中にだけ息づいて、私の前では誰も口にしない。それでいい。その方がずっと、いい。
「リンドホルム嬢」
書架の奥から呼ばれて、私は振り返った。
――まだこの姓で呼んでくれるのは、叔父ハラルトだけだ。
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王立アンセリム図書館の窓は高く、光は斜めに差し込む。書物の匂いは、すこし湿っていた。
「おはようございます、叔父様」
「休みの日くらい、少しは休めと言っているのだが」
「休みの日も、ここにいる方が落ち着くのです」
「お前はまったく、兄に似た」
叔父はそう言って苦笑した。私の父のことを話すとき、叔父の声はいつも、少しだけ細くなる。
司書補の制服は、くすんだ灰色だ。貴族の娘が袖を通すたぐいの布ではない。けれど袖の汚れを気にしないでいいという事実は、私の体を軽くした。屋敷にいた頃は絹の袖が汚れるのを気にして、本の背に触れるのもためらった。
「イルゼ」
叔父は声を落として、書棚の陰にさらに踏み込んだ。
「オデットの話を、聞いたか」
私は返事の代わりに、手にした書物の背を書架に戻した。指先が、冷たかった。
「南方小国の外交で、しくじったそうだ。嫁ぎ先の派閥が、揺らいでいる」
「――そうですか」
「感想は、それだけか」
「私に、他にどんな感想を求めていらっしゃるのですか」
叔父は、私の顔をじっと見た。それから、ゆっくり息を吐いた。
「お前は、本当に、水のような娘だ」
「水は、低い方へ流れますわ」
「そして、いつか、海になる」
――海には、まだ遠い。
私はそう返しそうになって、唇を閉じた。叔父の前で、弱音を吐く習慣を私は持たない。
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叔父が帰ったあと、昼を取らずに私は書架の整理を続けた。
昼の光が雨で薄められて、窓を灰色に染めていた。貴族社会の噂は、この灰色の窓までは届かない。姉が外交でしくじったという報せも、ここでは書物の背に吸い込まれて音を立てずに沈んでいく。
――あの日も、雨だった。
ふいに、思い出した。
離縁の書類に署名した朝、ノルトハイム公爵邸の門の前に馬車が停まっていた。御者と、私。返還されるわずかな荷が横に積まれていた。父の形見の本と、母の形見の櫛。それだけだった。
屋敷の玄関からは、誰も出てこなかった。
当然だ、と思った。夫と呼ぶべきだった人は、私の顔を知らないまま、季節を幾度もまたぎ、そして私を手放した。義母は私を門まで見送る気はなかった。使用人たちは主の意向に従うだけだ。
――誰かが、お辞儀をしていた。
門柱の陰、雨の中に、若い男の背中があった。軍人のような、まっすぐな立ち姿。顔はよく見えなかった。傘も差していなかった。
彼は、深く頭を下げた。
私が馬車に乗り込むまで、頭を上げなかった。
御者が鞭を入れて馬車が動き出したとき、私は窓から振り返ろうとしてやめた。振り返れば何かを覚えてしまう。覚えてしまえば、私はこの屋敷を忘れられなくなる。それは嫌だった。
だから、私は前だけを見た。
――あの背中が、誰のものだったのか。
私は、今でも、知らない。
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閉館の鐘が鳴った。
外は、朝よりも雨が強い。同僚の司書補たちが順に帰っていく。私は最後に書架の鍵を閉めて回る役を、自分から買って出ている。鍵の音だけが石の床に響く。誰もいない書架の列を歩くのは、嫌いじゃなかった。
王都の路地を、傘で顔を隠して歩く。
貴族の屋敷街ではない、ささやかな借家の並ぶ通り。家政婦のマルタが湯を沸かして待っているはずだ。湯気の立つ夕食と、寝る前の紅茶。それが私の今のすべてだ。
もう十分だ、と思う。
屋敷にいた頃の、朝食の席で誰からも名を呼ばれなかった沈黙を思い出せば、私はこの借家の小さな食卓を、両手で抱えたくなる。
「明日も、雨らしゅうございますね、お嬢様」
マルタが言った。私は頷いた。
「それは、ありがたいですわ」
「お嬢様は、雨の日の方が、お顔が明るくていらっしゃる」
「誰も、来ませんもの」
マルタは笑わなかった。ただ、紅茶を淹れる手に、少しだけ力を込めたように見えた。
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翌朝、私は図書館の扉を開けた。
雨は、予報どおり続いていた。閉館が近づくにつれ、来訪者はまばらに現れては去っていった。最後は、私だけが残された。
窓を打つ雨の音を数えるくらいしか、することがない。静けさの中で、私は自分の呼吸が深くなっていくのを感じていた。
これでいい。
これが、私の辿り着いた場所だ。
誰にも呼ばれず、誰にも覚えられず、書物の背の匂いの中で静かに年を重ねて、静かに消えていく。それが私の選んだ結末のはずだった。
――そのとき、扉が、音を立てた。
重い扉が、雨音の中で、はっきりと軋んだ。
石の床に、濡れた靴音。
「――貸出を、お願いしたい」
堅物の声が、雨音を切った。
私は、カウンターから顔を上げた。
そこに立っていたのは、傘も差さずに濡れて、それでも姿勢だけはまっすぐな、若い男だった。
黒い外套の胸元に、銀の刺繍。
――見覚えのある、紋章。
ノルトハイム公爵家の、家紋。
私の心臓が、遅れて鳴った。
「申し訳ございません。閉館まで、あと少しお時間が……」
言いかけて、声が途切れた。
男はフードを取った。
濡れた黒髪が、額に張りついている。年の頃は、私より少し上。堅物の骨格に、堅物の目。
その目を、私は知っていた。
屋敷の書庫ですれ違ったとき、わずかに会釈をされた覚えがある。それきりの、義弟の顔。
「――お久しぶりです」
彼は、静かに頭を下げた。
そして、私の名を、呼んだ。
「リンドホルム嬢」
旧姓で。
屋敷に嫁いで以来、誰も口にしなかった姓で。
雨音の中で、その音だけが、やけにはっきりと、耳の奥に落ちてきた。




