第099話:懸垂式空中トロッコの敷設
樹上十五メートルの天空を渡る春風は、地上の泥炭地の生臭さを忘れさせるほど、清涼な若葉の香りに満ちていた。
主樹の天空デッキの床板の上には、先日の戦いで泥炭沼に遺棄されていた帝国軍の工作車両から回収した資材が、山のように積み上げられていた。
直径十五ミリ、炭素鋼線を六条撚り合わせた頑丈な「多重鋼線ケーブル」が二巻――全長にして百メートル以上。
重量物を吊り上げるための「二連青銅滑車」が四個。
そして、太いボルトと真鍮のターンバックル(張力調整器)。
装甲列車のクレーン用予備部品として積載されていたこれら最高品質の工業資材は、アルトの構想する「天空空中都市計画」にとって、願ってもない最高の極上品だった。
「シロ、まずは東のトチノキへパイロットラインを飛ばすよ」
アルトは重力滑車バリスタのガイドレールに、特製の「誘導矢」をセットした。
矢の先端には重鉄の鏃ではなく、頑丈な三叉の鉤爪が取り付けられ、尾部には細く強靭なタコ糸(極細の麻撚り糸)が結びつけられている。
標的は、東に三十五メートル離れた場所に聳える、樹齢三百年を超えるトチノキの大樹。
その地上十四メートル付近に張り出した、大人が五人乗ってもビクともしない太さ八十センチの主枝だ。
アルトは照準器を覗き、風向きと枝の隙間を慎重に計算した。
トリガーを軽く引く。
カシャン、と小気味よい音とともに放たれた誘導矢は、糸を引きながら空中を一直線に飛翔し、トチノキの主枝の向こう側へと見事に突き抜けた。
矢の先端の三叉フックが枝の樹皮にガッチリと食い込む。
「命中だ。引き込みを開始しよう」
ここからが、アルトの計算された力学の真骨頂だった。
細いタコ糸を手繰り寄せて、次に指の太さの麻ロープを通す。
そしてその麻ロープの端に、ずしりと重い本番の「鋼線ケーブル」を結びつけ、トチノキの枝に据え付けた滑車を介して、主樹の巻き上げウインチで力強く巻き取っていく。
ギギギ、ギギギ……と音を立てて、太い鋼のワイヤーが地上十数メートルの虚空を渡り、二本の大樹の間にピント張り渡されていった。
だが、ただワイヤーを結ぶだけでは、大樹に致命的な負担をかけてしまう。
生きた樹木に金属ワイヤーを直に巻き付ければ、風の揺れで樹皮が剥がれ、形成層が傷ついて木が枯れてしまうのだ。
そこでアルトは、幹の接触面に、松脂を染み込ませた厚さ五センチの樫の当て木を幾重にも噛ませた。
木の成長を妨げず、大樹が風でしなる時の振動を適度に逃がすサスペンション構造。
その外側に頑丈な鋼鉄リングを掛け、特大の真鍮ターンバックルを差し込んで、両端からレンチでギリギリと締め上げていく。
キン、キン、キィィィン……
ワイヤーが張り詰められるにつれて、金属のピッチが澄んだ高音へと上がっていく。
指先でワイヤーを弾くと、巨大なハープの低弦を爪弾いたような重厚な共鳴音が森の梢に響き渡った。
張力、推定三トン。
大人が数人乗り込んでも、中央のたわみはわずか数十センチに収まる完璧なテンションだった。
同様の工程をもう一度繰り返し、主樹から西の白樫(新温室予定地・距離四十メートル)へ向けても、二本目の幹線レールを架設した。
天空の巨木群を貫く、二条の「スカイ・レール(空中懸垂線)」の完成だった。
「よし……次はゴンドラの組み立てだね」
作業台に向かったアルトは、軽さと強度を極限まで両立させた乗り物のクラフトに取り掛かった。
骨組みには、粘り強く折れにくいトネリコの角材を使用。
接合部は釘を使わず、ホゾ組みと膠、そして水に強いカバノキの樹皮テープで隙間なく固定した。
ゴンドラの側面と床は、冬の間に編み方を習熟した強靭なアケビと藤の蔓を緻密に編み込んだ「籠構造」だ。
風を通すため横風に煽られにくく、万が一の衝撃にもしなやかに変形して搭乗者を守る。
底面には、シロが快適に座れるよう、厚手の羊毛マットと鹿革の敷物を敷き詰めた。
そして、ゴンドラの屋根から伸びる二本の懸垂アームの先端に、帝国軍の二連青銅滑車を取り付けた。
滑車の車輪の溝には、鋼線ケーブルとの摩擦を滑らかにするため、獣脂と黒鉛粉末を練り合わせた特製の固体潤滑油をたっぷりと充填してある。
さらに、手元には一本の木製レバーを設けた。
レバーを手前に引くと、硬質ゴムと革を貼り付けたブレーキシューが鋼線ワイヤーを上下から挟み込み、滑走速度を自在に落とし、停止できる摩擦ブレーキ機構だ。
往復の移動を可能にするため、アルトはもう一つの工夫を施していた。
二本の大樹の間に、鋼線レールとは別に細い麻の「エンドレス循環ロープ」を環状に渡してあるのだ。
下り勾配の時は自重で滑走するが、帰りの緩やかな上り勾配の時は、ゴンドラ内の手回しクランクを回すか、主樹側の巻き上げ水車ドラムとクラッチを繋ぐだけで、指一本の力で自動的に引き戻すことができる。
物資の無人搬送すら可能にする、完璧な交通インフラだった。
「できたよ、シロ。『第一号スカイ・ゴンドラ』だ!」
完成した木製のゴンドラを、天空デッキの乗り場へと引き込み、滑車を鋼線レールへとパチンと噛み合わせた。
アルトが手すりを開けると、シロは全く恐怖の色を見せず、軽やかな足取りでゴンドラの中へと乗り込んできた。
大型の成狼となったシロだが、ゴンドラは十分に広く、シロが伏せてアルトが隣に腰掛けても余裕があった。
二人の体重を合わせても約百キロ。ゴンドラの自重三十キロと合わせても百三十キロ。
三トンの張力を持つ鋼線レールにとって、その重量は羽毛のように軽かった。
「シロ、東のトチノキまで試運転だよ。しっかり掴まっててね」
アルトがゴンドラの安全柵を降ろし、固定ピンを外した。
ブレーキレバーを緩める。
シューーーーーッ……!
心地よい金属の滑走音とともに、ゴンドラが滑らかに宙へと滑り出した。
地上十五メートルの虚空。
足下には、新緑の絨毯のように広がる原生林の木々。
大樹と大樹の間に張られた一本の銀色の糸の上を、木籠の乗り物が風に乗って滑走していく。
主樹側がトチノキ側よりわずか一メートル高く設計されているため、重力に従って自然と前進し、速度は時速二十キロ近くまで心地よく加速していった。
視界が開け、眼下には石組み水路の清流がきらめき、遠く南の平原や、かつて自分を追放したオルディスの崩壊した城壁の残骸までが一望できた。
大地に縛られていたかつての無力な少年が、今や天空の風を従えて、自らの作ったレールの上を飛翔している。
「わぁ……! すごい……! 本当に飛んでるみたいだ!」
アルトの口から、感嘆の声が零れた。
頬を撫でる春風が心地よい。
これまで、大樹から降りて地上を歩き、泥炭地を迂回してトチノキへ向かうには、どんなに急いでも二十分以上かかっていた。
それが今、木漏れ日の中を優雅に空を飛ぶように、わずか十数秒で対岸の大樹へと接近していく。
シロもまた、籠の縁から鼻先を突き出し、耳を後ろになびかせながら、眼下に広がる森の景色を嬉しそうに見下ろしていた。
風を浴びる白銀の毛並みが朝日に輝き、短く「ウォン!」と歓喜の声を上げる。
トチノキのプラットホームが目前に迫った。
アルトはブレーキレバーをゆっくりと手前に引いた。
ギィィィ……と滑らかな摩擦音とともに速度が落ち、ゴンドラは新設したトチノキの木製デッキのバンパーへと、コトリと優しく接触して静止した。
「到着! 所要時間、わずか十二秒だ!」
アルトがデッキへ飛び降りると、シロも続いて軽やかに降り立ち、尻尾を大きく振ってアルトの周りをくるくると回った。
成功だった。
このスカイ・レールによって、二つの大樹は完全に行き来可能な一つの生活圏として結ばれたのだ。
このトチノキのテラスに炉と金床を据えれば、煙や熱を気にすることなく思う存分に鉄工や鍛造ができる「空中鍛冶工房」が誕生する。
秘密基地は、孤立した一本の隠れ家から、天空に広がる「複合要塞都市」へと、不可逆の進化を遂げたのだ。
だが――二人がその達成感に浸っていた、その直後のことだった。
ブルルルルルッ……ズドドドドドドッ――!
原生林の静寂を暴力的に踏み躙る、激しい内燃機関の排気音が、南西の谷底から轟いた。
蒸気機関のピストン音とは違う。
より高回転で、耳障りな油煙を撒き散らす、石油発動機の獰猛な唸り声。
アルトはトチノキの見張り台へ駆け上がり、望遠鏡を構えた。
視線の先――大樹の南西側を流れる渓流の対岸。
装甲列車の先遣隊が敗走したのを受け、帝国軍が投入してきた第二の刺客の姿が、木立の隙間に現れていた。
黒鉄の傾斜装甲板で全身を包み、太い六輪の鋼鉄車輪にゴム履帯を履かせた「六輪装甲戦闘車」。
装甲列車のレール敷設を待たず、不整地を単独で走破できる帝国軍の機甲斥候車両だ。
その旋回砲塔の上には、大口径の魔導機関砲が据えられ、車体前面の排障器で倒木をなぎ倒しながら、浅瀬の小川を強行渡河しようとしていた。
「装甲車……! 列車のレールが届かないから、単独で渡河して大樹の根元を砲撃する気だ!」
アルトの表情が引き締まる。
小川の川底には泥炭沼のようなトラップはない。
あの装甲車が対岸に渡り切れば、主樹の根元にある水車や工房が、至近距離から魔導機関砲の連射で粉砕されてしまう。
だが、樹上十五メートルのトチノキのデッキの上で、シロが静かに前へ進み出た。
その白銀の毛並みが、かつてないほどの激しさで逆立ち、全身から青白い火花がパチパチと音を立てて爆ぜ始める。
相棒の金色の双眸は、浅瀬を蹂躙する鋼鉄の車両を、絶対の怒りとともに見据えていた。




