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第097話:無音の射線、鋼鉄の鏃が貫く装甲

コンマ数秒の刹那、森の時間が凍りついた。


 石組み水路の護岸にへばりついた中尉の指が、魔導小銃の引き金を絞り込む。

 薬室内の励起コイルが臨界点に達し、銃口の青白い光球が光弾となって解き放たれる直前――


 樹上十五メートルの天空デッキで、アルトの指先が迷いなく動いた。

 カチリ、と小さな木製ラチェットの外れる乾いた音。


 ――バァァァァァンッッ!!!!


 天空デッキの空気が破裂した。

 二トンの張力で限界まで引き絞られていた複合弓幹が、積層されたスプリング鋼と動物腱の復元力を一瞬にして解放する。

 三十本の炭素鋼線を撚り合わせた極太ワイヤーが音速を超えて空気を切り裂き、白いヴェールのような衝撃波の輪がデッキの周囲に広がった。

 大樹の幹の背後で、五百キロの玄武岩カウンターウェイトが一気に落下し、多段遊星滑車が猛烈な勢いで回転して反動を吸収する。

 樹齢数百年の大樹の幹が、ドォンと重低音を響かせてわずかに身震いした。


 青銅製ガイドレールから撃ち出された「重鉄徹甲矢」。

 全長一・二メートル、手首ほどの太さを持つ鋼鉄の槍は、人間の目では軌跡を捉えることすらできない黒い閃光となって空間を翔けた。

 空気の壁を突き破る瞬間、パァァンと甲高いソニックブームが鳴り響き、矢の周囲に円錐形の水蒸気の霧が発生する。

 螺旋状に取り付けられた三枚の銅製風切羽が、毎秒百回転を超える超高速スピンを生み出し、空気を錐揉み状に穿ちながら、五十メートルの距離を一瞬で跳び越えた。


 放物線など存在しない。

 重力と空気抵抗を力ずくでねじ伏せる、完全な直線弾道。

 アルトが計算した狙撃点は、中尉の頭部でも心臓でもない。

 魔導小銃の薬室直前――最もマナが集中し、かつ脆弱な「魔導励起コイルの冷却ジャケット中央部」だった。


 そして――


 ガギィィィィィィィンッッ!!!!


 耳を劈く凄まじい金属破砕音が、泥炭沼一帯に轟き渡った。

 中尉の放とうとした青白い魔導弾が発射されるよりも早く、超音速の徹甲矢の切っ先が、男が構えていた魔導小銃の銃身へと、狂いなく直撃したのだ。


 浸炭焼き入れによってダイヤモンドの硬度を得た四角錐の鏃。

 それが、二トンの運動エネルギーを一点に凝縮させて叩きつけられた瞬間、帝国の誇る鍛造鋼の銃身は、乾いた陶器が砕けるように粉々に破砕された。

 内蔵されていた魔導コイルが真っ二つに両断され、暴走したマナのエネルギーが青白い火花となって四方八方に爆散する。

 薬室内に装填されていた魔導実包が誘爆し、黒煙とともに機関部が激しく吹き飛んだ。

 飛び散った真鍮の破片とネジが、激しい火花を散らしながら泥水の上に降り注ぐ。


「ぎゃあああああっ!?」


 手の中で武器が爆発した衝撃により、中尉の両腕は激しく弾き飛ばされた。

 だが、徹甲矢の威力は小銃を粉砕した程度では止まらなかった。

 銃身を突き抜けた鏃は、男の右肩の鉄製装甲板を紙切れのように抉り取り、そのまま背後の護岸石――厚さ三十センチの玄武岩の巨石へと激突した。


 ドガァァァァンッ!


 玄武岩の表面が蜘蛛の巣状に砕け散り、砂利と岩煙が派手に舞い上がる。

 徹甲矢の半分以上が硬質な岩盤の中へと深々と突き刺さり、鋼鉄の矢柄がビィィィンと甲高い共鳴音を立てて震え続けていた。

 わずか数センチのズレもなく、中尉の右肩の軍服の布切れが、矢のシャフトと岩盤の間に縫い止められていた。


 アルトは最初から、男の命を奪うつもりなど毛頭なかった。

 相手が銃口を向けてきた瞬間、銃身の機構部と肩の装甲だけを正確に狙い撃ち、肉体への致命傷を完全に避けながら、武器と戦意を同時に粉砕したのだ。

 人間を殺すのではなく、機械を殺す。

 命を奪えば怨恨と報復の連鎖を生むが、圧倒的な技術格差を見せつけて武器を奪えば、相手の心に植え付けられるのは「絶対的な無力感と恐怖」だけだ。

 それが、アルトの信じる「防衛工学」の絶対的な流儀だった。


「ひ……ひぃぃぃ……っ!」


 中尉は腰を抜かしたまま、岩盤に縫い止められた自らの肩と、足元に転がる銃の残骸を見つめていた。

 右手の甲冑は吹き飛び、火傷を負った指先がガチガチと痙攣している。

 もし、あの矢がわずか五センチ左に逸れていれば――自分の頭部や胸部は、跡形もなく吹き飛ばされていたはずだった。

 死の淵を覗き込んだ恐怖が、帝国のエリート軍人としてのプライドを粉々に打ち砕く。

 男の喉から、言葉にならない引き攣った悲鳴が漏れ出た。



「ば、化け物だ……! あんな兵器、どこの軍隊にも存在しない……! 魔力もないガキが、なぜ……!?」


 泥炭沼のあちこちで、腰まで泥に浸かって身動きの取れなくなっていた残余の兵士たちも、その超絶的な狙撃の一部始終を目撃して完全に凍りついていた。

 大砲のような破壊力を持つ矢が、樹上から音もなく正確に飛来したのだ。

 次に狙われるのは自分たちの頭部ではないのか。

 誰一人として、泥の中から武器を構えようとする者はいなかった。


 だが、絶望の時間はそれで終わりではなかった。


 シュタッ――


 天空デッキの床板を蹴る、鋭く軽やかな跳躍音。

 直後、樹上十五メートルの高みから、巨大な「白銀の影」が虚空へと躍り出た。


 シロだった。


 肩高一メートルを超える神獣の巨躯が、重力を嘲笑うかのような優雅さで宙を舞う。

 風を孕んだ銀の毛並みが朝の光を浴びて神々しく輝き、空中で身を翻したシロは、石組み水路の跳ね橋の土台――中尉のわずか数メートル手前の岩場へと、無音で着地した。


 ドォォォォンッ……!


 十五メートルの落差から着地したにもかかわらず、巨狼の肢体は一切の衝撃を逃がし、柔らかな黒土だけが波打つように小さく跳ねた。

 その着地と同時に、シロの背中の銀毛から、バチバチと鋭い青白い電弧が迸る。


 グルルルルルル……――


 地底のマグマが煮え滾るような、重厚な低周波の唸り声。

 シロがゆっくりと頭を上げ、金色の瞳で中尉を、そして泥炭沼の兵士たちを睥睨した。

 至近距離で放たれる、森の主たる絶対的捕食者の殺気。

 それは、人間の本能が何万年もかけて刷り込まれてきた「原初の恐怖」そのものだ。


「ぎゃああああああああっ!!」


 中尉は縫い止められていた服を自ら引き裂き、四つん這いになって泥水を跳ね上げながら後方へと転がり逃げた。

 軍刀も、階級章も、軍人としての尊厳も、すべてを泥の中に捨て去って。


「に、逃げろぉぉッ! 神狼だ! 森の悪魔だぁぁっ!」

「助けてくれ! 置いていかないでくれ!」

「装甲を捨てろ! 早く鎧を脱げぇぇッ!」


 泥炭沼に囚われていた兵士たちも、狂乱状態で装甲板の留め金を外し、泥まみれになりながら次々と這い上がってきた。

 重装甲も武器もすべて底なし沼の中に脱ぎ捨て、泥だらけのシャツ一枚になった兵士たちが、蜘蛛の子を散らすように装甲列車のある境界線へと我先にと敗走していく。

 十四名からなる帝国の精鋭歩兵小隊は、一人の死者を出すこともなく、完全に戦闘力を喪失して壊滅したのだ。


 遠くの境界線では、列車の屋根の上でその光景を見ていたザイデル少佐が、信じがたい屈辱に顔を真っ赤に染め上げ、軍刀を振り回していた。

「退却だと!? 貴様ら、帝国軍人の誇りはどこへ行ったのだ! 戻れ、戻らんかぁぁッ!」

 だが、死の恐怖に駆られた敗残兵たちが、指揮官の命令に耳を貸すはずもなかった。

 彼らは装甲列車のステップへと転がり込み、泥を撒き散らしながら車内へと逃げ込んでいった。


 森の境界線に、静寂が戻ってきた。

 残されたのは、泥炭沼の表面に浮かぶ無数の黒鉄の装甲板と、兵士たちが投げ捨てていった装備品の残骸だけだった。


「……見事だったよ、シロ」


 アルトは天空デッキから滑車昇降機を使い、地上へと静かに降り立った。

 駆け寄ってきたシロが、先ほどまでの荒ぶる神の威圧感を消し去り、嬉しそうにアルトの腰に大きな頭を擦り付けてくる。

 アルトは相棒の首筋を両手でしっかりと抱きしめ、柔らかな銀毛に顔を埋めた。


「ありがとう。怪我はないかい?」

「くぅん」と短く喉を鳴らすシロ。一片の傷もなかった。


 アルトは身を起こし、石組み水路の対岸――敗残兵たちが遺していった泥炭沼の縁へと歩み寄った。

 そこには、中尉の壊れた銃のほかに、後続の兵士たちが慌てて投げ捨てていった、泥を免れた「無傷の最新鋭連発式魔導小銃」が三丁、そして黒革の弾薬ポーチがいくつも転がっていた。


 アルトはそのうちの一丁を泥の中から拾い上げた。

 ずしりとした冷たい鉄の重み。およそ四キログラム。

 銃身には精密な真鍮の刻印で『帝国工廠製造・七式魔導歩兵銃』と刻まれ、ボルトハンドルを少し引くだけで、滑らかな油の匂いとともに青い魔導結晶の実包が顔を覗かせる。

 黒革の弾薬ポーチを開くと、頑丈な真鍮薬莢に封入された結晶実包が、五十発以上も綺麗に並んでいた。

 魔力を持たないアルトであっても、この銃の撃発機構と結晶のエネルギー変換原理さえ解明できれば、新たな防衛兵器の動力源として活用できるはずだ。


「……帝国の最新兵器、か」


 アルトの双眸に、戦いの興奮ではなく、純粋な工学者としての知的好奇心の光が灯った。


「どんな構造になっているのか……作業台でじっくりと分解してみよう」


 少年は鹵獲した三丁の魔導銃と弾薬ポーチを両腕に抱え、跳ね橋を渡って大樹の工房へと足早に戻っていった。

 その背中を、シロが誇らしげに尻尾を揺らしながら護衛するように追従していく。

 森の平和を奪いに来た鋼鉄の軍勢から、最高の「研究資材」を手に入れたのだ。

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