第096話:泥炭地の底なし沼トラップ
大気を切り裂いたのは、鋼鉄が泥に呑み込まれる湿った破壊音だった。
バキバキバキッ……ズブズブズブッ、ジュルルルルルッ――!
偽装ネットの支柱となっていたヤナギの格子が、二トンを超える集中荷重に耐えかねて一斉に破断した。
薄い赤土と枯れ草で覆われていた平原が、突如として口を開けた黒い巨大な顎へと変貌する。
先頭を走っていた斥候兵二名の身体が、何の前触れもなく腰まで地面へと吸い込まれた。
「な、なんだ!? 足が――」
「地面が抜けたぞ! 止まれ、後続止まれぇぇッ!」
斥候兵の絶叫が木立に木霊したが、すでに手遅れだった。
密集隊形で突進していた後続の歩兵小隊――十数名の蒸気甲冑兵は、慣性の法則によって急停止することなど不可能だった。
百五十キロを超える鉄の塊が、次々と前のめりに泥炭の穴へと雪崩れ込んでいく。
ドシャアァン、ジュバァァンと黒い泥水が四方八方に跳ね上がり、わずか数秒の間に、十四名全員が底なしの泥濘の中へと叩き落とされた。
「ぐわぁっ!? 泥だ! 底がないぞ!」
「あ、足が抜けん! 底の粘土に足首が吸い付いて動かん!」
「助けろ! 誰か手を引っ張れ!」
帝国兵たちの誇る無敵の機甲歩兵は、一瞬にして泥水に浮く無様な鉄の操り人形へと成り果てていた。
アルトが冬の間に構築したこの「偽装泥炭沼」は、ただのぬかるみではない。
雪解け水で極限まで過飽和状態になった泥炭層と微細なシルト(沈泥)が混ざり合った、物理学における「非ニュートン流体」――チキソトロピー現象を利用した流動トラップだった。
冬の間、アルトは大樹の南側の低地を深く掘り下げ、火山灰を含んだ腐葉土と粘土を幾重にも層状に積み重ねていた。
さらに、周囲の融雪水を木製の水門で制御し、地下の水位を常に地表下わずか十センチの限界点に保ち続けていたのだ。
外見は乾燥した大地に見えながら、地下は完全に水と微粒子が臨界圧で拮抗したゲル状のコロイド溶液。
静止している時は分子同士の結合によってある程度の粘度を保つが、ひとたび重機や甲冑のような強大な衝撃荷重が加わると、網目構造が一瞬にして崩壊し、急速に液状化する。
兵士たちが焦って手足をバタつかせ、もがけばもがくほど、泥はさらさらとした液体のように流動化して身体を奥深くへと引きずり込んでいく。
そして動きを止めた瞬間、周囲の泥炭粒子が再び急速に再結合し、今度は石膏のように硬化して甲冑の関節をガチガチに締め上げるのだ。
もがくことも、止まることも許されない。己の運動エネルギーがそのまま自分を縛る枷となる、完璧な幾何学の蟻地獄だった。
さらに、このトラップの真の恐ろしさは、物理的な拘束だけに留まらなかった。
蒸気工学の基本原則そのものが、彼らに牙を剥いたのだ。
ジュゥゥゥゥッ……ボコボコボコッ!
冷たい雪解けの泥水が、兵士たちの背負う蒸気ボイラーの排気弁と吸気口へと容赦なく流れ込んだ。
摂氏二百度近くに過熱された高圧真鍮配管に、氷点下の泥水が直接触れる。
激しい熱衝撃により、配管の表面が一気に収縮し、ジュウジュウと凄まじい白煙が噴き上がった。
圧力計のガラス面がパンと音を立てて砕け散り、ハンダ付けされた真鍮の継ぎ目から、高圧蒸気と熱湯が鋭いジェットとなって兵士たちの背中を灼いた。
「ぎゃあああっ!? 熱い! 蒸気が噴き出した!」
「火室に泥が入った! 石炭が濡れて火が消えるぞ!」
「排熱弁が泥で詰まった! 内圧が逃げ場を失っている! 安全弁が作動せん!」
「ば、爆発する! このままでは背中でボイラーが破裂するぞ! 緊急停止弁を引けぇぇッ!」
爆発の恐怖に駆られた兵士たちが、泥まみれの手で背中の緊急減圧レバーを一斉に引き抜いた。
ヒュオオオオオォォォッ――!
白い減圧蒸気が勢いよく噴き出し、ボイラーの火室の熾火は泥水に呑まれて完全に鎮火した。
爆発の危機は辛うじて免れた。
だが――それは同時に、彼らにとって決定的な「死刑宣告」でもあった。
動力を失った蒸気駆動型外骨格。
それはもはや、兵士の筋力を強化する鎧ではなく――ただの「重さ八十キロを超える冷たい鉄の棺桶」だった。
「お、重い……! 腕が上がらん!」
「動かない! ピストンが固着して膝が曲がらん!」
「沈む……! 鎧の重みで、泥の中に沈んでいくぅぅっ!」
外骨格の動力アシストが消滅した瞬間、生身の人間の筋力だけで八十キロの装甲板と泥の粘性に抗えるはずもなかった。
兵士たちは自らの装甲の重みによって、胸まで、あるいは首元までズブズブと泥の中に沈み込んでいく。
手にした最新鋭の魔導小銃は泥水に浸かって薬室に泥が詰まり、後方の工兵が担いでいた大型蒸気チェーンソーも、泥を噛んでガガガッと激しい異音を立てた末に、モーターが焼き切れて黒煙を吹き上げた。
後方の装甲列車の屋根の上では、ザイデル少佐が片眼鏡を取り落としそうになりながら、泥炭沼の地獄絵図を凝視していた。
「な……何が起きているのだ!? 我が精鋭の機甲小隊が、なぜ泥の中で溺れている!? 工兵、何をしている、早く救出しろ!」
少佐の怒号が響くが、後方に控える工兵たちも、一歩足を踏み出せば同じように呑み込まれる底なし沼の光景に震え上がり、誰一人として前へ進むことができなかった。
樹上十五メートルの天空デッキ。
アルトは真鍮の照準望遠鏡越しに、泥炭沼で阿鼻叫喚の地獄絵図を繰り広げる帝国兵たちを、瞬き一つせず見下ろしていた。
シロが足元で静かに立ち上がり、眼下の光景に低く喉を鳴らす。
「計算通りだね」
アルトの呟きには、勝ち誇った傲慢さも、敵を嘲笑う下品な愉悦もなかった。
あるのは、自分が緻密に積み上げた工学設計が、自然の物理法則に従って完璧に機能したことへの静かな確信だけだった。
相手がどれほど最新鋭の兵器を誇ろうと、どれほど強大な軍隊であろうと、重力と流体力学の法則から逃れることはできない。
大地の性質を知り、水と泥の動きを計算し、相手の傲慢な心理を利用する。
一滴の血も流さず、一本の矢も射ることなく、アルトは帝国の精鋭歩兵小隊十四名を完全に無力化したのだ。
だが――その泥炭の底なし沼の中で、唯一、狂気じみた執念で這い上がろうとする男がいた。
「おのれぇぇぇッ! 謀ったな、土民どもがあぁぁッ!!」
第一小隊長――中尉だった。
男は自らの外骨格の連結ピンをナイフで強引に叩き折り、重い脚部装甲を泥の中に脱ぎ捨てることで、辛うじて下半身を泥から引き抜いていた。
泥まみれになりながら四つん這いで這い進み、沼の縁に積まれた石組み水路の護岸石へと、爪を立ててしがみつく。
「小隊長殿! 助けてください!」
「見捨てるな! 引き上げてくれ!」
泥の中に沈みゆく部下たちの悲鳴。
だが、中尉は彼らを振り返りもしなかった。
泥水を吐き出し、血走った眼球を剥き出しにして、護岸の石段を這い上がる。
そして男の視線が、石組み水路の向こう岸――天を突くように聳え立つ巨大な神木へと注がれた。
木漏れ日を浴びる青々とした梢。
その地上十五メートルの天空デッキの上に、男の目は「それ」をはっきりと捉えた。
真鍮の道具を手に、冷徹な双眸で自分を見下ろす、一人の華奢な少年。
そしてその傍らに寄り添う、神話の威厳を放つ巨大な白銀の狼。
「な……んだと……!?」
中尉の喉から、信じがたいものを見た衝撃の叫びが漏れた。
「ガキ……!? 原住民の軍勢でも、魔導士の部隊でもない……あんな小さな子供が、この罠を仕掛けたというのか!?」
帝国の誇る最新鋭機甲小隊を壊滅させた相手が、魔力すら持たないように見えるただの少年であったという屈辱。
それが、中尉の残された理性を完全に焼き切った。
「貴様ぁぁッ!! 帝国の軍人を愚弄するかぁぁッ!!」
中尉は泥の中から、辛うじて泥水を免れていた自らの連発式魔導小銃を引き抜いた。
銃身の冷却ジャケットに泥を塗りたくりながら、ボルトハンドルを力任せに引き絞る。
ジャキリ、と薬室に装填された青白い魔導実包。
高純度マナのエネルギーが銃身内のコイルを駆け巡り、チチチ……と耳障りな電磁励起音とともに、銃口の先端に眩い青白い光球が集束していく。
有効射程三百メートル、分速百発の連射が可能な最新鋭小銃。
わずか五十メートル先の樹上に佇む無防備な少年など、一撃で胸を吹き飛ばし、消し炭に変えられるはずだった。
中尉は護岸の石に銃身を預け、泥と血で汚れた右目で照準器を睨みつけた。
その銃口の照星が、樹上のアルトの胸元を正確に捉える。
「死ねぇぇッ! 森の害虫があぁぁッ!!」
中尉の指が、魔導小銃の引き金へと容赦なく掛けられた。
銃声が轟き、青白い破壊の光条が放たれる――その一瞬の隙。
樹上の天空デッキでは、アルトの手がすでに「重力滑車バリスタ」の木製トリガーレバーへと触れていた。
少年の瞳には、死の恐怖など微塵もなかった。
あるのはただ、光速に近い魔導弾の射線と、己が放つ二トンの重鉄徹甲矢の弾道軌道を冷徹に比較する、絶対の計算だけだった。




