第095話:帝国第7機甲軍団の先遣隊
原生林の朝霧を切り裂いて進んでくるのは、規則正しくも耳障りな「鋼鉄の軋み音」だった。
ガション、シューッ……ガション、シューッ――
歩を進めるたびに、関節部の真鍮製ピストンロッドが伸縮し、外骨格の排気弁から白い蒸気が鋭く吹き出す。
先陣を切って境界の森へと足を踏み入れたのは、帝国第7機甲軍団・先遣支隊の第一歩兵小隊――十四名の精鋭たちだった。
全身を隙間なく覆う黒鉄の装甲板は厚さ三ミリ、頭部には横長のスリットが入った無機質な鉄兜。
背中には石炭と加圧水を蓄えた円筒形の蒸気ボイラーが唸りを上げ、兵士たちの両腕には、二十ミリ口径の重厚な連発式魔導小銃が構えられていた。
さらに隊列の後方には、工兵たちが担ぐ大型の蒸気チェーンソーが、太いチェーン刃を回転させながら煙を吐いている。
樹上十五メートル。
大樹の青々とした枝葉と、昨秋から編み込んである擬装網の陰で、アルトとシロは完全に気配を消して潜んでいた。
足音一つ立てず、呼吸すら風のざわめきに同調させる。
新調した鹿革のモカシンは木の枝に完璧に馴染み、シロの銀白の毛並みも、木漏れ日の陰影の中に溶け込んでいた。
「小隊長殿、前方五十メートル地点より、濃密な白霧が発生しております!」
先頭を歩く斥候兵が、右手を挙げて立ち止まった。
背中のボイラーがプシューと減圧音を立てる。
隊列の中央から進み出てきたのは、胸当てに真鍮の二本線――中尉の階級章を刻んだ小隊長だった。
鉄兜のバイザーを押し上げ、露わになった険しい顔で前方の木立を睨みつける。
その額には油と汗が滲んでいた。
外骨格の動力によって体重は軽減されているとはいえ、密閉された鉄甲冑の内部は、背中のボイラーからの輻射熱でサウナのように蒸し暑い。
長時間の進軍によって兵士たちの体力は確実に削り取られ、呼吸のたびに鉄兜の隙間から荒い呼気が漏れ出ていた。
「霧だと? 今朝の気象観測では、前線は乾燥しているはずだったが……」
「はっ、周囲の気温に比べて、この一帯だけ異常に湿度が高く、地表から温かい蒸気が立ち昇っているようです。視界、およそ十メートルまで低下」
中尉は忌々しそうに舌打ちを鳴らした。
彼らの足元を包み込んでいるのは、他ならぬアルトが仕掛けた「温泉排熱と山背の衝突による人工濃霧」だ。
地下の温泉水を竹管で地表に染み出させ、北からの冷風とぶつけることで生み出された霧は、濃密な霧が生き物のように兵士たちの膝元から腰へと這い上がり、木々の輪郭を白くぼやかしていく。
「魔導探知機を使え。霧など、魔力波の前には意味を成さん。磁気コンパスで方位を維持しながら前進するぞ」
中尉の命令に、背後に控えていた通信兵が、真鍮の箱から突き出たパラボラ状の探信儀を掲げた。
内部の魔導水晶がチリチリと青い放電を放ち、周囲のマナの流れを走査し始める。
しかし――次の瞬間、通信兵の口から狼狽した悲鳴が上がった。
「ば、バカな!? 探知機の指針が激しく乱回転しています! 磁気コンパスも針が狂ったように回転して止まりません! 計測不能です!」
「何だと? 故障か!?」
「いえ、違います! 全方位から……信じられないほど高密度の生体マナと地脈エネルギーが奔流となって押し寄せてきています! それに、地中から強い生体電場が発生しているようです! 森全体がひとつの巨大な魔力炉として脈打っているせいで……水晶が共鳴過負荷を起こしています!」
通信兵の掲げた探知機の水晶が、パキリと音を立てて表面に細かな亀裂を走らせた。
機械が狂ったのではない。
大樹の地下深くに張り巡らされた「古代のエネルギー網」と、冬を越えて覚醒しつつある大樹の生命力が放つ圧倒的なフィールドが、帝国の粗雑な探知機を内側から焼き切ったのだ。
さらに、アルトが冬の間に水路沿いに埋設した蓄電瓶と鉱石の放電回路が、局所的な磁気嵐を巻き起こしていた。
樹上のアルトは、真鍮の照準眼鏡越しにその様子を観察し、口元に微かな笑みを浮かべた。
(……やっぱりね。大樹のマナ循環は、僕たち人間が扱う魔力の数十倍の密度がある。都市の魔力炉と同じ規格で作られた探知機じゃ、情報過多でショートするに決まってる。方位磁石だって、地熱水路の鉄バラストのせいで狂うように計算してあるんだ)
目に見える視界を人工濃霧で塞ぎ、機械の目を大樹の地脈エネルギーで潰す。
さらに方位感覚すら狂わせることで、帝国軍の誇るハイテク装備は完全に無力化され、彼らはただの「重い鉄の塊を引きずって歩く盲目の集団」へと成り下がった。
ヒュルルルルル……ヒュオオオオオォォォ……
さらに、木立の梢から、不気味な風鳴り笛の怪音が四方八方から降り注ぎ始めた。
アルトが配置した三十本の竹筒が、乱気流を受けて異なる周波数の低周波音を共鳴させる。
人間の耳には「どこから聞こえてくるのか判別できない猛獣の唸り」として知覚され、兵士たちの三半規管を激しく揺さぶった。
音響心理学に基づき、心拍数を跳ね上げ、パニックを誘発する不協和音。
閉塞感のある鉄兜の中に閉じ込められた兵士たちにとって、その見えない音の暴力は耐え難い精神的拷問となった。
「くそっ、何の音だ!? 魔獣か!?」
「右から聞こえるぞ! いや、左だ! 上空か!?」
「小隊長殿、包囲されている可能性があります! 隊形を散開させますか!?」
鉄兜の奥で、兵士たちの呼吸が荒くなっていく。
重装甲を着込んでいるからこそ、視界を奪われ、耳を狂わされることへの恐怖は生身の兵士以上に大きかった。
周囲の見えない恐怖から逃れるため、兵士たちは無意識のうちに魔導小銃の銃口を左右へ振り回し、味方同士で銃口を向け合いそうになる。
「落ち着け、貴様ら! 取り乱すな!」
中尉が怒鳴り声を上げ、自らの腰の軍刀を抜いた。
「ただの森の風音だ! 怯むな! 我らの装甲は小銃の直撃すら跳ね返すのだぞ! 探知機が使えぬなら、目視で直進するのみだ!」
中尉は霧の向こう、木立の隙間を睨みつけた。
風の迷路によって、左右のルート――西の枯れ谷と東の急峻な岩場は、猛烈な突風と濃霧で完全に塞がれているように見えた。
一方で、大樹に向かって真っ直ぐ伸びる中央の平坦地だけが、奇妙なほど風が穏やかで、足元の黒土が平らにならされているように見えていた。
「見ろ、中央のルートだ! あそこだけ木々がまばらで、地盤も平坦だ! あの平原を一気に駆け抜け、巨木の根元を制圧するぞ!」
中尉の判断に、樹上のアルトは静かに息を呑んだ。
すべては、アルトが描いた防衛幾何学のシナリオ通りだった。
左右を険しい突風と怪音で威嚇し、侵入者の心理を誘導して、最も「歩きやすそうに見える一本道」へと誘い込む。
だが、その平坦に見える大地こそが――
冬の間、雪解け水を逃がさないよう周囲の排水溝を意図的に堰き止め、枯れ草と薄い乾いた赤土を丁寧に敷き詰めて偽装した、死の底なし沼。
水深三メートルに及ぶ「偽装泥炭沼」だった。
アルトが冬の間に施したのは、自然の浮島現象を模倣した高度な偽装工学だ。
水面の上には、しなやかなヤナギの枝と蔓植物を粗い格子状に編み込んだ「偽装ネット」を張り巡らせ、その上にわずか五センチの厚さで乾燥させた腐葉土と枯れ草を敷き詰めてあった。
野兎や狐といった森の小動物が歩く分には、枝の弾力で支えられて大地と何ら変わりなく歩行できる。
しかし、一定以上の集中荷重――人間の体重はおろか、蒸気甲冑の百五十キロを超える鉄の点圧力が加われば、細工された支持ロープが一斉に破断し、一瞬にして底なしの泥濘が口を開けるように設計されていた。
「小隊、前進! 続けぇぇッ!」
中尉の号令とともに、十四名の蒸気甲冑兵が一斉に駆け出した。
ガシャン、ガシャン、と大地を揺るがす重厚な足音。
一人あたり、生身の体重に加えて外骨格と装甲板、武器弾薬を含めて百五十キロを超える鉄の質量。
それが十四人分、二トンを超える超重量が、密集隊形を組んだまま、偽装された泥炭の表面へと一斉に雪崩れ込んでいく。
後方の装甲列車からは、ザイデル少佐が満足げに片眼鏡を光らせてその進軍を見守っていた。
誰もが、巨木の制圧は時間の問題だと確信していた。
アルトは天空デッキの手すりを握りしめ、手元に伸びる第三のトリガーロープに指を掛けた。
隣で伏せていたシロが、金色の双眸をスリットのように細め、牙を剥いて低く喉を鳴らす。
アルトの指先が、ピンと張り詰めた麻ロープをクッと手前に引いた。
地上十メートルの滑車を介して、沼の縁に隠された樫の固定クサビが、音もなく外れる。
「……シロ、仕掛けるよ」
先頭を走る斥候兵の黒鉄のブーツが、偽装された枯れ草の敷かれた地面へと、勢いよく踏み下ろされた。
ズブッ……ジュブ、ジュルルルッ――!
乾いた足音ではなく、水気を含んだ不吉な水音が、兵士の足元から響いた。
足元の「大地」が、泥濘んだ肉のようにぶよぶよと沈み込み、黒い泥水が軍靴の隙間から噴き上がる。
それが、帝国の無敵を誇る機甲兵団にとって、底なしの悪夢の始まりを告げる合図だった。




