第094話:黒煙を吐く鋼鉄の巨獣
夜明け前の青暗い大気を、地割れのような重低音が震わせ続けていた。
ズズン……ズズン……ドォォォォン――!
境界の森の南端。雪解けの黒土を踏み躙りながら、ガレリア帝国第7機甲軍団の装甲列車「鉄騎号」は、その巨体を森の奥へとねじ込みつつあった。
機関車が吐き出す石炭の煤煙は、朝霧と混ざり合って重苦しい油煙の帳を形成し、原生林の澄んだ空気を徹底的に汚染していく。
車体側面のリベット止めされた防弾鋼板は、夜露に濡れて冷酷な鈍色に光り、前方の排雪器が巨木を根元からへし折るたびに、メキメキと悲鳴のような裂開音が響き渡っていた。
樹上十五メートルの天空デッキ。
アルトは新調した鹿革のモカシンを床板にしっかりと据え、手すりの偽装用枯れ枝の隙間から望遠鏡を覗いていた。
レンズが集める夜明けの微光の中に、装甲列車の屋根の上で仁王立ちする帝国軍の指揮官の姿が、鮮明に浮かび上がっている。
痩せぎすの身体にぴったりと仕立てられた漆黒の軍服。胸元には勲章が幾重にも揺れ、襟には少佐の階級章が輝いている。
男の名は、エーリヒ・フォン・ザイデル少佐。
右目にはめ込んだ真鍮枠の片眼鏡を指先で直しながら、眼下の原生林を、虫けらを見るような冷淡な眼差しで見下ろしていた。
その後方、装甲列車の機関室からは、熱気と金属臭が混ざり合った蒸気が容赦なく噴き出している。
上半身裸になった十数名の火夫たちが、石炭粉で真っ黒に汚れながら、大型スコップで塊炭をボイラーの火室へと放り込み続けていた。
火室の扉が開くたびに、オレンジ色の獰猛な火炎が吐き出され、給水ポンプがガタガタとけたたましい金属音を立ててボイラー内部へと冷水を圧送する。
圧力計の針は、すでに赤色で示された危険域寸前の高圧を指していた。
この鋼鉄の巨獣を動かすためだけに、数分ごとに何十キロもの石炭と真水が消費され、周囲の木々は排気熱によって瞬く間に萎れ、黒ずんでいく。
自然の循環を一切顧みず、消費と破壊だけで前進する、帝国の工業文明そのものの権化だった。
「工兵長、レールの敷設速度が落ちているぞ。貴様らは大地の泥と遊んでいるつもりか」
ザイデル少佐の冷ややかな声が、拡声器を通して響き渡った。
列車の直前で、泥まみれになりながら蒸気ハンマーを振り下ろしていた工兵長が、慌てて敬礼を返した。
「はっ! 申し訳ありません、少佐閣下! ですが、この一帯の黒土は雪解け水を深く含んでおり、地盤が予想以上に緩んでおります! 枕木を十分に敷き詰め、バラスト石を叩き込まねば、鉄騎号の四百トンを超える車重を支えきれず、脱線の危険が――」
「黙れ、無能が」
少佐は部下の言葉を、軍手で払うように遮った。
「帝国機甲軍団の鉄路に、大地の軟弱さなどという言い訳は通用せん。軟弱な泥など、丸太を敷き詰めて圧殺すれば済むことだ。我が軍の目的を忘れたか? オルディス都市の魔力炉が爆発し、あの無能な評議会が全滅した今、この境界の森の地下に眠る『旧神話時代の超巨大マナ脈』は、我がガレリア帝国が独占接収すべき至宝なのだ」
少佐は軍刀の鞘をコツコツと甲板に打ち鳴らしながら、原生林の奥――アルトの秘密基地が聳える巨樹のシルエットを指し示した。
「見ろ、あの不自然な巨木を。周囲の樹木とは桁違いの生体反応と、微弱な高純度魔力場が観測されている。あの大樹の根元こそが、旧時代のエネルギー供給ラインの地上露出点だ。あそこを更地にし、掘削要塞を築き上げれば、我らは大陸全土を制圧する無限のエネルギーを手に入れるのだ」
「し、しかし閣下、先ほど敗走してきた難民たちの証言によりますと、あの巨木の根元には巨大な神狼と、森を操る謎の主が潜んでいるとのことですが……」
工兵長の怯えたような言葉に、少佐は心底から可笑しそうに嘲笑を漏らした。
「神狼だと? 土民の迷信に怯えるとは、帝国の軍人として恥ずかしくないのか。仮に野犬の類がいたところで、帝国の二十ミリ連発式魔導小銃の前にはただの動く標的に過ぎん。未開の森など、機甲兵団の車輪の下で更地にしてくれるわ」
少佐は腰のサーベルを抜き放ち、森の奥へと切っ先を向けた。
「斥候歩兵中隊、前進! 邪魔な木々はすべて伐採鋸で薙ぎ払い、あの巨木への直進路を確保せよ! 立ち塞がる原住民や害獣は、見つけ次第射殺して構わん!」
下された命令は、一切の妥協も躊躇もない「皆殺しと略奪」の布告だった。
その怒号を、樹上のアルトは集音ラッパを通して、一言一句漏らさず聞き届けていた。
望遠鏡の視界の中で、アルトの目は少佐の顔から、前進を開始した兵士たちの装備へと細かく移動していく。
兵士たちが身にまとう「蒸気駆動型外骨格」。
背中のボイラーから太もも、脛、そして腕へと伸びる真鍮のパイプ。
一見すれば無敵の鉄の甲冑に見えるが、アルトの科学的知性は、その致命的な構造的欠陥を冷静に見抜いていた。
(……ボイラーの圧力配管の接合部、真鍮のロウ付けが荒い。急激な冷却や泥の付着で温度差が生じれば、金属疲労であっさり亀裂が入る。それに、足回りのピストンロッドが完全に露出している。泥水がシリンダーの隙間に噛み込めば、一歩も歩けなくなるはずだ)
さらに、兵士たちが構える「連発式魔導小銃」。
弾倉に装填されているのは、青白い魔力結晶を砕いて火薬と混ぜ合わせた特殊実包だ。
威力は高いが、連続射撃を行えば銃身の魔導回路が激しく加熱する。
冬を越え、機械の熱管理と素材の限界を骨の髄まで叩き込んできたアルトにとって、帝国の最新兵器は「強力だが酷く脆い鉄の玩具」に見えていた。
少年の瞳の奥に、永久凍土の氷床よりも静かで、絶対零度の冷徹さが満ちていく。
「……やっぱり、話を聞く気なんて最初から欠片もないんだね」
アルトは静かに呟いた。
オルディスの大人たちもそうだった。
自分たちに都合の良い理屈だけを並べ立て、力のない者を踏みにじり、奪い、用が済めば泥の中に捨て去る。
そして今、国境を越えてやってきたこの帝国の軍隊も、何一つ変わらない。
彼らにとって、この森の息吹も、シロの命も、アルトが血を流して築き上げた家も、すべては自らの欲望を満たすための「障害物」でしかないのだ。
どれほど華美な言葉で飾ろうと、彼らがやろうとしていることは、ただの暴力的な強盗に過ぎない。
「シロ」
アルトが呼ぶと、背後に伏せていた白銀の巨狼が、無音で立ち上がった。
その金色の双眸は、眼下の侵略者たちを冷静に見据えている。
逆立つ銀の毛並みからは、微かなパチパチという放電音が漏れ、神獣の闘志が研ぎ澄まされていた。
「相手は本物の軍隊だ。重い鉄の鎧を着て、遠くから弾を撃ち出す武器を持っている。……でも、恐れることはないよ」
アルトはシロの分厚い首筋を優しく撫でた。
「ここは、僕たちが冬を越え、地形を知り尽くした僕たちの領域だ。森の木々も、土も、水も、風も、全部が僕たちの味方なんだ」
地上では、少佐の命令を受けた斥候歩兵中隊――三十名の蒸気甲冑兵が、隊列を組んで前進を開始していた。
ガシャン、ガシャン、と重厚な金属足音が夜明けの静寂を踏み砕いていく。
背中の小型ボイラーから立ち上る白い排気蒸気。
手にした魔導小銃の銃身には、青白い魔力結晶が装填され、いつでも発射できる臨戦態勢が取られている。
さらに工兵たちが担いだ大型の蒸気チェーンソーが、ギュイィィィンと耳障りな高速回転音を上げ、行く手を遮る若木を無慈悲に両断しながら進んできた。
兵士たちの表情は、分厚い鉄のバイザーの奥に隠されていたが、その動きには、未開の森を踏みにじる者特有の傲慢な油断が滲み出ていた。
彼らは信じて疑っていなかったのだ。
この大陸で、帝国の機甲兵団に正面から立ち向かえる存在など、どこにもいないということを。
だが、彼らはまだ知らなかった。
自分たちが踏み込もうとしているその森が、ただの自然の原生林ではないということを。
少年の緻密な工学知性と、森の主たる巨狼の絆によって、一歩踏み込むごとに死の罠が待ち受ける「絶対不可侵の要塞」へと造り変えられているということを。
「アルト、第一境界線を越えた」
シロがそう伝えるかのように、短く喉を鳴らした。
先頭の歩兵が、境界線の倒壊した鉄柵を完全に踏み越え、アルトの仕掛けた「風の迷路」の外縁へと足を踏み入れた。
その瞬間、森の木立の梢から、ヒュルルルルル……という不気味な風鳴り笛の音が、微かに鳴り始めた。
南風を捕らえた三十本の竹筒が、侵入者の耳を狂わせる極低周波のうなりを上げ、地表からは温泉排熱で温められた白い人工霧が、音もなく立ち昇り始める。
アルトは重力滑車バリスタの照準器から目を離し、作業台の上に整然と並べられた麻紐の信管へと手を伸ばした。
手元にある五本のロープは、大樹の幹を伝って地上各所に張り巡らされた「誘導トラップ群」のリリース機構へと直結している。
一本引けば逆茂木が落ち、二本引けば水門が開き、三本引けば偽装泥炭沼の堰が崩れる。
この天空デッキこそが、森全体の運動エネルギーを少年の指先一つで掌握する「防衛管制室」だった。
「いらっしゃい、侵略者たち。……僕たちの森の手触りを、たっぷりと味わわせてあげるよ」
少年の静かな呟きとともに、朝の光が木漏れ日となって大樹の梢を照らし出した。
鋼鉄の暴力に挑む、樹上の少年と巨狼による、孤独で圧倒的な迎撃戦が、今静かに火蓋を切った。




