第093話:遠く響く鉄の轍、汽笛の怪叫
夕闇が原生林を群青色に染め上げる頃、南の境界線から響いてくる音は、森のすべての呼吸を塗り潰していた。
シュゴォォォォッ……ガシャン、ガシャン、ガシャン――!
ピストンの重厚な往復運動が吐き出す、高圧蒸気の濁った咆哮。
何百トンもの鋼鉄車輪がレールを軋ませる、耳を削るような金属摩擦音。
風に乗って大樹の梢まで届いてくるのは、春の若葉の清々しい香りではなく、粗悪な石炭が不完全燃焼を起こした刺激臭と、過熱した機械油の焦げた匂いだった。
樹上十五メートルの天空デッキ。
アルトは身を伏せ、手すりの隙間から反射望遠鏡を構えていた。
隣には、白銀の巨躯を低く沈め、気配を完全に殺したシロがいる。
二人の視線の先、南の境界線の鉄柵が完全に粉砕された地点に、異形の「鋼鉄の怪物」がその全貌を現しつつあった。
ガレリア帝国第7機甲軍団・先遣支隊。
その中核を成すのは、四両編成の重装甲軍用列車――「鉄騎号」だった。
先頭車両は、鋭利な楔形に尖った超重装甲の排雪器を備えた巨大蒸気機関車。
黒鉄のリベットがびっしりと打ち込まれた装甲板の厚さは、優に十センチを超えている。
機関車の巨大な煙突からは、夜空を焦がすような火の粉とともに黒煙が吹き上がり、車体両脇のシリンダーからは数秒おきに白い蒸気が爆風となって大地に叩きつけられていた。
動輪は直径一・八メートル、巨大な連接棒が唸りを上げて油まみれの軌条を踏みしめ、車輪のフランジがレールと激しく擦れ合うたびに、青白い火花が暗闇に散っている。
運転台の狭いスリットの奥では、火夫たちがスコップで石炭を炉腔へと投げ入れ、真っ赤に燃え盛る火炎が夜の森の木立を不気味に照らし出していた。
二両目と三両目は、頑丈な天蓋で覆われた武装車両だ。
装甲ハッチの奥には、旋回式の魔導連装カノン砲が二門、そして両側面には無数の銃眼が設けられ、銃身の長い連発式魔導小銃が突き出している。
そのカノン砲の基部には、オルディス都市の魔力炉と同型の結晶ジェネレーターが据え付けられ、砲身の冷却ジャケットからチリチリと青い放電が漏れ出ていた。
最後尾の四両目は、資材と重機を積載した工作車両だった。
巨大な蒸気クレーンが唸りを上げて旋回し、車輪の直前へと、分厚い樫の枕木と重鉄レールを次々と敷き詰めていく。
レールを敷き、自らその上を走り、また次のレールを敷く――
道路すらない未開の原生林を、鋼鉄の力づくで「帝国の領土」へと塗り替えながら進軍してくる、自走式の移動要塞だった。
「……信じられないな。森の中に直接線路を敷いてくるなんて」
アルトは望遠鏡の倍率を上げ、作業を進める兵士たちの姿を凝視した。
装甲列車の周囲には、黒鉄の蒸気甲冑に身を包んだ兵士たちが、規則正しい隊列を組んで警戒にあたっていた。
背中に小型の高圧ボイラーを背負い、真鍮の蒸気パイプが四肢の関節へと伸びている。
ガシャリ、ガシャリ、と足を踏み出すたびにバルブから微かな蒸気が漏れ、生身の人間では持ち上げられないような重装甲と大口径魔導小銃を、軽々と保持していた。
兵士たちの胸当てには、猛禽が歯車を掴んだガレリア帝国の国章が刻まれている。
その歩行補助装置――「蒸気駆動型外骨格」は、都市の魔導学校の教科書で読んだことがあった。
かつて教師たちは、『帝国の蒸気機甲歩兵は一個小隊で城壁をも粉砕する無敵の軍隊だ』と誇らしげに語っていたものだ。
だが、今のアルトの目は、教科書の盲信とは全く異なる工学者の冷徹な視線でその構造を見抜いていた。
(……関節のシリンダーは外気に剥き出しだ。背中のボイラーも、排気弁が泥で詰まれば内部圧力が限界を超えて暴走する。重装甲と引き換えに、機動性は著しく制限されている)
兵力はおよそ五十名。歩兵中隊三十名に、工兵隊二十名。
そしてその兵士たちを操る指揮官の声が、夜の闇を裂いて届いてきた。
アルトは大樹の枝に結びつけた「集音ラッパ」に耳を当てた。
大樹の梢の風鳴り竹筒と連動させた、手製の音響増幅器だ。
風に乗って、装甲列車の屋根の上で軍用マントを翻す指揮官の、傲慢な怒号が拾い上げられてきた。
「作業を急げ、工兵ども! 夜明けまでに大樹の外周五百メートル地点までレールを延伸させるのだ!」
少佐の階級章をつけた痩躯の男だった。
片眼鏡を光らせ、腰に吊るした軍刀の柄を叩きながら、部下たちを扇動している。
「オルディス防壁都市の魔力炉が自壊し、無能な貴族どもが全滅した今、この境界の森は帝国にとって無主の宝庫となった! 大樹の地下に眠る旧時代のエネルギー鉱脈――これさえ手に入れば、第7機甲軍団の補給は半永久的に保証される! 先遣隊の栄誉は我らのものだ!」
「報告! 境界線の手前で、オルディス都市の難民と思われる集団が多数、西の谷へ敗走していくのを確認しました! 森の奥には何者かが潜んでいる模様です!」
部下の報告に、少佐は鼻でせせら笑った。
「野垂れ死に寸前の乞食どもの戯言など気にするな! 森に潜む野盗か原住民の生き残りだろう! 我が帝国の装甲列車の前には、木切れも土民も関係ない! 大樹を丸ごと伐採し、更地にして鉄路を通せ! 立ち塞がるものは車輪の下でミンチに変えてやれ!」
少佐の冷酷な言葉が、夜の森に響き渡る。
アルトの双眸が、氷のような静謐さを帯びて細められた。
かつて都市の権力者たちがアルトを追放し、そして自壊したように――今度は都市の外から、より巨大で無慈悲な国家の暴力が、このささやかな聖域を奪い尽くそうと迫っている。
彼らにとって、この森の豊かな生態系も、アルトが血を流して築き上げた秘密基地も、ただの「更地にすべき障害物」に過ぎないのだ。
大地を焼き払い、木々を切り倒し、すべてを軍事力という名の単一の支配下に屈服させる。
その傲慢さは、かつてアルトを見捨てた都市の大人たちと、根底において何一つ変わっていなかった。
(……力づくで奪うことしか頭にないんだ、あの人たちも)
アルトは静かに集音ラッパから耳を離した。
怒りはなかった。
ただ、絶対に対話の通じない外敵が、自分たちの生存圏を脅かしているという客観的な事実があるだけだ。
ならば、やるべきことは一つしかなかった。
「シロ、敵の戦力と配置を整理しよう」
アルトは作業台に広げた羊皮紙の防衛地図に、木炭で素早く印をつけ始めた。
「敵の装甲列車は強力だ。真正面から撃ち合えば、列車の魔導カノン砲でこの大樹の枝ごと吹き飛ばされる。……でも、あの列車には致命的な弱点がある」
アルトの指が、地図の上に描かれたレールと、その先にある地形を指し示した。
「あの鋼鉄の怪物は、レールの上しか走れない。そして、レールを敷くためには、地盤が強固で平坦でなければならないんだ」
装甲列車の総重量は、推定で四百トン以上。
レールを敷く工兵たちは、森の入り口から大樹に向かって最短距離である「南側の平坦地」を通ろうとしている。
だが、その平坦地こそが――アルトが冬の間に罠を張り巡らせておいた、最も危険なエリアだった。
「南側の平原には、雪解け水を意図的に堰き止めて作った『偽装泥炭沼』がある。表面には枯れ草と薄い乾いた土を被せてあるけれど、下は水深三メートルの底なし沼だ」
数百キロの蒸気甲冑を着た歩兵や、何百トンもの装甲列車がその上に乗り上げればどうなるか。
重みで地盤が崩壊し、レールごと泥の中に沈み込んで身動きが取れなくなる。
さらに、泥水が甲冑や機関車のボイラーの排気孔に流れ込めば、過熱したボイラーは水蒸気爆発を起こすか、急速に冷却されて圧力を失い、完全に沈黙する。
「そして、地盤沈下で列車が立ち往生した瞬間……僕たちの重力バリスタの射程内に入る」
アルトは南側テラスに据え付けられた、完成したばかりの大型多段滑車バリスタを見つめた。
すでに二トンの張力で引き絞られ、極太の重鉄徹甲矢が装填されている。
狙うのは兵士たちの命ではない。
装甲列車の蒸気ピストン、動力伝達クランク、そして魔導砲の旋回ギア。
動力を奪い、兵器を無力化すれば、どれほど頑丈な鋼鉄の要塞であっても、ただの動かない鉄屑に成り下がる。
「シロの役目は、敵の工兵と斥候の分断だ。風の迷路に誘い込んで、視界を奪ったところを闇の中から威嚇する。……できるかい?」
シロがアルトの顔を見上げ、力強く顎を引いて「ウォン」と応えた。
その金色の瞳には、森の主たる誇りと、絶対の信頼が宿っている。
キィィィィィン――!
突如、森の暗闇を切り裂いて、強烈な青白い閃光が走った。
装甲列車の先頭車両の屋根に設置された、巨大な軍用探照灯(アーク灯)が点灯したのだ。
数万カンデラを誇る暴力的な光条が、夜の原生林を真っ白に照らし出し、大樹の根元の石組み水路と、青々とした木々の輪郭を冷酷に浮き彫りにした。
「全小銃隊、前進! 工兵の作業ルートを確保せよ!」
号令とともに、装甲列車の両脇から、蒸気甲冑を着た十名の斥候兵が前進を開始した。
手にした魔導小銃の銃口が、青白い魔力の光を帯びて明滅している。
ガシャリ、ガシャリ、と大地を踏みしめながら、彼らはアルトが仕掛けた「不可視の境界線」――風の迷路と泥炭地の境目へと、確実に足を踏み入れようとしていた。
夜の冷気が、二人の頬を撫でる。
アルトは鹿革のエプロンの紐を結び直し、静かに重力バリスタの照準器に右目を当てた。
誰にも頼らず、誰にも奪わせない。
自らの知恵と、技術と、相棒の絆だけで生き延びてきたこの秘密基地を守るための――初めての本格的な迎撃戦が、いま静かに幕を開けようとしていた。




