第092話:重力滑車バリスタの据え付け
大樹の天空デッキに、鉄と油、そして削り立ての生木の匂いが満ちていた。
作業台の上には、ノギス、手回しドリル、鉄工ヤスリ、そして炉火で赤めて鍛造した無骨な鋼鉄の金具が所狭しと並んでいる。
アルトは麻布で油まみれの手を拭い、目の前に組み上がりつつある巨大な木と鉄の構造物を見上げた。
樹上十五メートルの南側テラス。大樹の最も太い主枝が張り出した頑丈な基盤の上に据え付けられたのは――全長三メートル、全幅二・五メートルに及ぶ大型防衛兵器。
アルトが設計した「重力巻き上げ式多段滑車バリスタ」だった。
(……装甲列車に搭載されている魔導砲は、最低でも射程一キロ以上はあるはずだ)
南の地平線を見据えながら、アルトは冷徹に状況を分析していた。
風の迷路によって、生身の歩兵や難民が森に足を踏み入れるのを防ぐことはできる。
だが、数千トンの鉄塊である装甲列車が木々をなぎ倒しながら前進してきた場合、霧や突風など何の意味もなさない。
敵の装甲を遠距離から撃ち抜き、動力パイプやレール敷設クレーンを正確に破壊できるだけの「物理的な迎撃手段」がどうしても必要だった。
しかし、アルトは魔力を持たない十四歳の少年だ。
兵士たちのように魔力で矢を加速させることもできなければ、大人の屈強な戦士のように数百キロの張力を持つ強弓を引き絞る腕力もない。
だからこそ、アルトは「工学の力」でその絶望的な体格差を埋める道を選んだ。
兵器の心臓部となる弓幹は、複合素材による積層構造だ。
芯材には、原生林で最も粘り強い樹齢百年のイヌエンジュの赤身を使用。
その外側には、以前奪い取った兵士たちの甲冑から切り出したスプリング鋼の帯板を何層にも重ね、さらにその隙間へ、大イノシシの強靭な背腱を膠で煮詰めた天然の弾性樹脂を隙間なく圧着してある。
木材の復元力、鋼鉄の剛性、そして動物腱の粘り。
三つの異なる特性が融合した弓幹は、極限まで引き絞られた時に、実に二トンを超える凄まじい弾性エネルギーを蓄積できる計算だった。
その弓幹の両端を結ぶ弦は、極細の炭素鋼線を三十本撚り合わせて作った特製の鋼線ワイヤーロープ。
当然、人間の腕力で引けるような代物ではない。
そのバリスタを支える架台(マウント部)にも、アルトの緻密な工学計算が凝縮されていた。
二トンの張力が一瞬で解放される際の反動は凄まじい。普通の木組みの台座であれば、一射ごとに接合部が歪み、数発で分解してしまう。
そこでアルトは、大樹の主枝に直接ボルトで固定した厚さ十センチの樫の集成材の上に、二重の「旋回リング」を構築した。
下部リングと上部リングの間には、川原で拾い集めた硬質な石英質の丸石を研磨して作った「石製ボールベアリング」が三十個、等間隔に配置されている。
さらに、左右の水平旋回をミリ単位で微調整できるよう、真鍮のウォームギアと目盛り盤を組み合わせた手回しハンドルを側面に設けた。
これにより、少年の指先の力だけで、数百キロの重量を持つバリスタ全体を軽やかに三百六十度旋回させ、任意の方向へピタリと固定できるのだ。
上下の仰角調整も同様だ。
砲身の後部に設けられた扇形の真鍮歯車を、ネジ棒を回すことで無段階に昇降させることができる。
最大仰角三十五度から俯角十五度まで。大樹の直下に迫った敵から、一キロ先の平原に陣取る敵まで、死角なく射線に収めることが可能だった。
「シロ、カウンターウェイトを降ろすよ」
アルトの指示に、シロが前足でデッキの床板に据えられた木製レバーを押し下げた。
ガコン、という重い噛み合い音とともに、大樹の幹の背後に隠された滑車機構が作動する。
アルトが導入した巻き上げ機構は、「重力アシスト式遊星滑車システム」だ。
大樹の北側の幹に沿って、頑丈な麻ロープで吊り下げられた巨大な石籠――中には約五百キロの玄武岩が詰め込まれている。
少年がクランクハンドルを回す際、ウォームギアと多段遊星滑車が連動し、ギア比を五十倍に減速させる。
同時に、落下しようとする五百キロの石籠の重力がテコの原理で巻き上げ軸を後押しする。
この重力アシスト機構のおかげで、アルトの細い腕力であっても、指先一つでハンドルをくるくると回すだけで、二トンの張力を持つ極太の鋼線ワイヤーをミリ単位の精度で後方へと引き絞ることができるのだ。
カチ、カチ、カチ、カチ――
焼き入れを施した硬質鋼のラチェット爪が、規則正しい金属音を立てて逆回転を防止していく。
弦が後退するにつれて、巨大な複合弓幹が軋み声を上げ、鋼鉄の帯板が極限の緊張を孕んで弓なりにしなる。
信じがたいほどの破壊エネルギーが、狭いフレームの中に圧縮されていく感覚が、握りしめた木製ハンドルの振動から伝わってきた。
「よし……最大引き絞り位置に到達」
アルトはハンドルを固定ピンでロックし、額の汗を拭った。
次は、射出する「矢」の準備だ。
作業台のラックに並べられているのは、一般的な弓矢とは全く異なる異形の弾丸――「重鉄徹甲矢」。
全長一・二メートル、太さはアルトの手首ほどもある。
矢柄は、乾燥させて狂いを取った硬質シラ樫の芯材。
そして先端の鏃は、冬の間に回収した兵士の槍先と鉄板を炉火で赤め、炭素を浸炭させてから雪解け水で一気に焼きを入れた、無骨な四角錐の鋼鉄塊だ。
ただ焼きを入れるだけでは、鉄は硬くなる一方で脆くなり、厚い装甲板に当たった瞬間にガラスのように砕けてしまう。
そこでアルトは、先端の切っ先部分だけを水冷で超硬質化させ、後方のソケット部分は藁灰の中でゆっくりと冷ます「部分焼き戻し」を施していた。
先端はダイヤモンドのように硬く、根元は粘り強く衝撃を吸収する。
硬度と靭性の完全な両立。
さらに、四角錐の各面には溝が彫り込まれ、装甲に激突した瞬間に応力を集中させて装甲板を外側へと押し広げる構造になっている。
矢の後端には、空力安定用の銅板の風切羽が螺旋状に三枚取り付けられている。
薄い銅板は、打ち捨てられていた真鍮製薬莢を叩き延ばして成形したものだ。
射出されると同時に矢自体が毎秒数十回転という超高速でスピン(ライフリング効果)し、横風の影響を最小限に抑えてレーザーのような直線弾道を維持する仕掛けだ。
照準器にも抜かりはなかった。
真鍮の筒の内部に、磨き上げた二枚の凸レンズを仕込み、その焦点面に、森で採取した「オニグモの極細の牽引糸」を十字に張ってある。
人毛よりも遥かに細く、湿気で伸び縮みしない蜘蛛の糸で作られたレティクル。
さらに筒の外部には、距離ごとの弾道降下量を計算した目盛り板が刻み込まれていた。
百メートル、二百メートル、三百メートル、五百メートル。
目標の距離に合わせてダイヤルを回せば、矢が重力によって落下する軌道を自動的に補正して狙いを定めることができる。
アルトは重鉄徹甲矢を抱え、バリスタの青銅製ガイドレールの上に慎重に装填した。
カチリ、とトリガー爪が矢の尾部を捉える。
「シロ、試射を行うよ。耳を塞いで」
シロが心得たように両耳を後ろに倒し、アルトの足元に低く伏せた。
目標は、南側三百メートル地点に聳え立つ、落雷で枯れ果てた巨大なナラの古木。
幹の太さは直径六十センチ。生木よりも硬く引き締まった頑丈な立ち木だ。
アルトはバリスタの後方に据え付けた照準眼鏡――真鍮の筒に十字の細線を張った照準器を覗き込んだ。
風の迷路が吹き荒れているが、上空の気流は南風が一定の速度で流れている。
照準器の目盛りを三目盛り右にずらし、仰角をわずかに下げる。
照準線が、三百メートル先の枯れ木の幹の中央を完全に捉えた。
アルトの指が、木製のトリガーレバーに掛けられる。
深く息を吸い、肺の空気を半分吐き出した瞬間――レバーを一気に引き絞った。
――バチィィィィィンッッ!!!!
鼓膜を劈くような、凄まじい衝撃音が天空デッキに炸裂した。
二トンの張力を解放された鋼線ワイヤーが音速を超えて空気を切り裂き、白い衝撃波の輪がテラスの周囲に広がった。
ガイドレールから撃ち出された重鉄徹甲矢は、人間の目では軌道を追うことすらできない超高速の黒い一閃となって空間を飛翔した。
ヒュルルルルルッという鋭い回転音を残し、放物線を描くことすらなく、完全に水平な弾道を描いて突進していく。
そして――次の瞬間。
ドゴォォォォォォォンッッ!!!
三百メートル先の森から、大砲が着弾したかのような凄まじい破砕音が轟き渡った。
照準望遠鏡越しに、信じがたい光景がアルトの視界に飛び込んでくる。
直径六十センチの硬質な枯れナラの巨木。
その中央部が、巨大な鑿で抉り取られたかのように激しく弾け飛び、大量の木片が四方八方に吹き飛んでいた。
徹甲矢は巨木の幹を完全に貫通していた。
それだけではない。幹を突き抜けた矢は、その背後にあった巨大な石灰岩の岩盤に激突し、岩肌を粉々に砕き割りながら、鏃を半分以上も岩の中に深々と突き刺して静止していたのだ。
「……貫通力、想定以上だ」
アルトは望遠鏡から目を離し、喉の奥をごくりと鳴らした。
この威力ならば、帝国の蒸気甲冑の前面装甲はおろか、装甲列車の側面装甲板すら容易に貫通できる。
射程五百メートル以内であれば、狙った標的を確実に粉砕できる絶対的な迎撃火力が完成したのだ。
シロが頭を上げ、岩盤から立ち上る白い煙を見つめながら、誇らしげに小さく「ウォン」と吠えた。
アルトは相棒の首を叩いて笑いかけた。
「これで、遠距離からの砲撃にも対抗できる。僕たちの家は、僕たちの手で守れるんだ」
アルトは素早くクランクハンドルに手をかけ、二本目の徹甲矢を装填するための巻き上げ作業を開始した。
カチ、カチ、カチ、と規則正しいラチェット音が再びデッキに響き渡る。
だが、その安堵の時間は長くは続かなかった。
キィィィィィィィ……ガガガガガッ!
境界線の彼方から、激しい金属の軋み音と、何本もの樹木が重機によってなぎ倒される破壊音が響き始めた。
アルトが反射望遠鏡を覗き込むと、装甲列車の側面ハッチが一斉に跳ね上がっていた。
車内から姿を現したのは、黒鉄の蒸気甲冑に身を包んだ帝国軍の重装歩兵中隊――三十名。
背中の小型ボイラーから白い蒸気を噴き出しながら、手には無骨な連発式魔導小銃を構え、チェーンソーのような大型伐採機を持った工兵たちが、森の境界線の樹木を強引に切り倒しながら仮設レールの敷設を開始していた。
そして、その隊列の先頭で、金色の肩章をつけた帝国軍の指揮官が、軍用双眼鏡を原生林の奥――アルトの秘密基地に向けて掲げていた。




