第091話:風の迷路、不可視の境界線
南の空を切り裂いた汽笛の怪叫は、春の原生林に不吉な波紋を広げていた。
木立の梢で囀っていた小鳥たちは一斉に声を潜めて飛び去り、茂みの奥で冬眠から覚めたばかりの野兎や小鹿たちも、耳を伏せて北の深林へと身を隠していく。
森の生き物たちすべてが、南から近づきつつある「異形の鉄と油の気配」に怯えていた。
見張り台の上で、アルトは反射望遠鏡を構えたまま、南の地平線を凝視していた。
距離にして約七キロ。
かつてオルディス防壁都市を取り囲んでいた外郭の緩衝地帯に、細い黒煙の柱が幾本も立ち上っているのが見えた。
それは難民たちが起こす焚き火の煙ではない。石炭を不完全燃焼させた時に生じる、重たく、空を黒々と汚す鉱物性の煤煙だった。
(……オルディスが完全に機能を停止したから、帝国軍が本格的に動き出したんだ)
アルトは望遠鏡を下ろし、冷たい風に吹かれながら思考を巡らせた。
ガレリア帝国。
かつて都市の大人たちが恐れ、そして媚び諂っていた大陸東方の軍事大国。
彼らがこの境界の森を狙う理由は明確だった。
冬の天変地異によってオルディスが自壊した今、この広大な原生林に眠る手つかずの木材資源、そして何より大樹の地下に眠る「旧時代の無尽蔵エネルギー鉱脈」――古代の配線ケーブルが引き込まれているこの聖域を、力づくで接収しようとしているのだ。
「シロ、時間はあまり残されていないよ」
足元で身構えるシロに声をかけ、アルトは天空デッキから階段を駆け下りた。
帝国軍の先遣隊がこの大樹の根元に到達するまで、おそらく二日から三日。
そしてその前に、先ほど逃げ散ったバルトロたち難民の残党が、飢えに耐えかねて再び侵入を試みる可能性も高かった。
一度パンの匂いと温もりの存在を知った人間は、恐怖が薄れれば、より狡猾に、夜陰に乗じてでも忍び込もうとする。
だが、侵入者を一人一人監視し、その都度シロの咆哮で追い払うのでは、こちらの労力と神経がすり減るだけだ。
何より、帝国軍のような武装組織に対しては、獣の威嚇だけでは通用しない。
必要なのは――侵入者が自らの足で歩きながら、大樹に一歩も近づくことなく、自然と森の外へと押し戻される「不可視の防御結界」だった。
「魔力がない僕たちには、目に見える魔法の防護壁は作れない。……でも、大気と地形の力を使えば、同じことができるはずだ」
アルトが着手したのは、気流工学と局所気候の制御による「風の迷路」の構築だった。
原生林の春は、北の霊峰から吹き降ろす冷たい「山背」と、南の平原から湿り気を帯びて吹き込む温かい南風が激しく衝突する季節だ。
通常、この二つの気流は大樹の広大な枝葉によって緩和され、森の内部は穏やかな微風に保たれている。
アルトはこの自然の気流の通り道を、意図的に改変することにした。
まず行ったのは、大樹の南側から南西にかけて広がる外周樹林の「選択的枝打ち」だ。
アルトは麻縄と滑車を使い、大樹の周囲を取り囲むトチノキやブナの高枝へと次々に登っていった。
ノコギリを振るい、下向きに生えた太い枝を切り落とし、上層の梢だけを密集させる。
一方で、大樹から放射状に伸びる特定の小径の樹木は、地上三メートルの高さまでの枝を完全に払って「風のトンネル」を作り出した。
流体力学における「ベンチュリ効果」。
広い空間から狭い流路へと空気が流れ込む際、流速が増大し、周囲の気圧が低下する現象だ。
アルトが設計した幾何学的な枝打ちによって、大樹の南側から吹き込む風は、大樹の根元に向かうのではなく、左右の斜面――西の枯れ谷と東の岩場へと向かって急激に加速し、渦を巻く「局所的乱気流」へと変換される。
さらに、アルトは地上での大掛かりな工作に取り掛かった。
作業小屋から運び出したのは、冬の間に伐採しておいた大量のホオノキの丸太と、分厚い竹の筒だ。
丸太を地面に深く打ち込み、角度を四十五度に傾けた「風除けの反射土手」を、大樹の外周百メートル地点に弧を描くように築き上げていく。
土手の隙間には、掘り起こした雪解けの粘土を塗り固め、風を上方へと跳ね上げるスロープを作った。
これにより、地表を這うように進んできた侵入者の足元に、下から吹き上げる突風が直撃する構造になる。
そして、この迷路の最も致命的な仕掛けが、「温湿度勾配による人工濃霧」の発生装置だった。
アルトは大樹の地下深くから汲み上げている温泉の配管――冬の間、温室と床暖房を温めていた湯の排水路へと向かった。
これまで石組み水路へと直接流していた四十五度の温水を、木製の樋を使って分岐させ、南側の泥炭地の底へと張り巡らせたのだ。
泥炭地の下に埋設された多孔質の竹管から、温かい蒸気が絶え間なく地表へと染み出す。
地表から立ち上る温かく湿った蒸気。
そこに、北の山から吹き下ろす氷点下近い冷風が、アルトの作った「風のトンネル」を通って高速で吹き付けられた。
ヒュオオオオオッ――!
冷気と温気が交錯した瞬間、水蒸気が一気に凝結し、乳白色の濃密な霧が爆発的に発生した。
沸き立つ熱湯のように泡立ち、大樹の外周一帯を、視界わずか二メートルの深い白銀の霧が呑み込んでいく。
大樹の本体がある中央部は、温泉熱の上昇気流によって霧が押し上げられて晴れ渡っているのに対し、外周の侵入路だけが、完全な視覚の遮断空間へと変貌したのだ。
「これだけじゃないよ。最後にもう一つ」
アルトは細工ナイフを手に取り、長さ一メートルほどの太い孟宗竹の側面に、異なる深さと幅の細長いスリットを幾重にも刻み込んだ。
「エオリアン・フルート」――風の力だけで特定の周波数を共鳴させる、音響工学の笛である。
スリットの角度を微調整することで、風が吹き抜けるたびに、人間の耳には聞き取りにくいが本能的な不安を煽る「極低周波の唸り音」と、耳を刺すような甲高い金属質の摩擦音を同時に発生させるように設計してある。
この風鳴り竹筒を、外周の樹木の梢に三十本以上、風向きに合わせて設置した。
夕暮れ時。
南風が強まり、森全体がざわめき始めた。
その瞬間、アルトの仕掛けた「風の迷路」が、真の姿を現した。
ゴオオオオオォォォ……ヒュルルルルルルッ……
外周の樹林から、無数の怨霊の啜り泣きと怪物の牙の軋みを思わせる、おどろおどろしい不協和音が四方八方から鳴り響き始めた。
風の乱気流によって音の発生源が刻一刻と移動するため、どこから音が聞こえてくるのか、耳を澄ますほど方向感覚が狂わされる。
さらに、足元からは濃密な白霧が膝上まで立ち込め、吹きすさぶ突風が衣服を激しく煽り立てる。
アルトはシロと共に、安全な大樹の基部からその光景を観察した。
実験として、森の小動物が迷い込まないよう見守っていると、先ほど逃げ散った難民の残党と思われる数名の男たちが、恐る恐る霧の境界線へと足を踏み入れるのが見えた。
夜を前にして、どうしても食糧を諦めきれず、こっそりと戻ってきたのだろう。
だが、男たちが霧の中に一歩足を踏み入れた瞬間――
「うわっ!? な、なんだこの風は!?」
「前が見えない! おい、どこにいる!?」
「ヒィッ! な、何か鳴いてるぞ! 頭が割れそうに痛い! 化け物の声だ!」
男たちは完全にパニックに陥っていた。
大樹を目指して真っ直ぐ歩いているつもりなのに、斜めに配置された風除け土手と乱気流に足元を掬われ、無意識のうちに身体の向きを変えられている。
濃霧で目印になる巨木の姿も見えず、耳元を劈く怪音に耐えかねて、男たちは悲鳴を上げながら右へ左へとふらつき始めた。
そしてわずか五分後。
彼らが転がり出た場所は――大樹とは真逆の方向、西側の急峻な枯れ谷の底だった。
「ひぃぃっ! 呪われた森だ! あそこには悪魔が棲んでる!」
「二度と近づくもんか! 逃げろぉぉっ!」
男たちは尻尾を巻いて、境界線の外へと転がるように逃げ去っていった。
怪我人を一人も出すことなく、心理と物理の力だけで、侵入者を完全に排除することに成功したのだ。
「……うまくいったね」
アルトが微笑むと、シロは得意そうに短く一声鳴いて、アルトの肩に顎を乗せた。
これで、飢えた難民たちの散発的な侵入を警戒する必要はなくなった。
境界の森の大樹は、外界から完全に切り離された「不可侵の孤島」となったのだ。
だが――安堵の息を吐いたのも束の間だった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴッ……ガタン、ゴトン……!
霧の向こう、南の地平線から届いた地響きは、もはや遠雷の音ではなかった。
地表の黒土を揺るがし、水路の水面に細かな波紋を広げるほどの、凄まじい質量。
アルトは素早く見張り台へと駆け戻り、望遠鏡を構えた。
南の境界線。
かつて都市を囲んでいた頑丈な鉄柵の残骸を、枯れ枝のようにバリバリと容易くへし折りながら、森の入り口へと姿を現したもの。
それは――黒鉄の装甲板で全身を覆い、何条もの高圧蒸気を噴き上げながら、自らレールを敷設して進軍してくる、超巨大な鋼鉄の怪物。
ガレリア帝国第7機甲軍団の先遣隊――「軍用装甲列車」の禍々しい先頭車両だった。
巨大な煙突から吐き出される黒煙が、夕焼けの空を不吉な暗黒へと塗り潰していく。
そして、その装甲列車の屋根には、旋回式の巨大な魔導砲の砲身が、ゆっくりと原生林の深部――アルトの秘密基地の方向を向いて旋回を始めていた。




