第090話:土下座する元恩師、かつての傲慢の対価
春の清らかな大気を切り裂いたのは、喉を掻きむしるような醜い絶叫だった。
「アルト! アルトぉぉッ! そこにいるのはアルトだろう! 私だ! お前の教官だったバルトロだ!」
石組み水路の対岸。
雪解け水で底なしの泥濘と化した黒土に、一人の男が両膝を突き、這いつくばっていた。
かつて都市の富を独占し、絹の法衣をまとってふんぞり返っていたオルディス魔導学校の主席教官――バルトロ。
今やその姿は、襤褸切れをまとったただの老いぼれた乞食と何一つ変わらなかった。
泥炭に浸かった膝からは冷気が骨まで染み込んでいるのか、全身を小刻みにガチガチと震わせ、血走った眼球を剥き出しにして、天空デッキのアルトを見上げている。
その額は何度も泥に叩きつけられたらしく、黒い土と血が混ざり合って顔面を汚していた。
地上十五メートルの天空デッキ。
アルトは新調した鹿革のモカシンで木の床をしっかりと踏みしめ、手すりに手を添えて、眼下の光景を冷ややかに見下ろしていた。
その隣には、肩高一メートルを超える巨躯を誇る白銀の狼、シロが静かに座している。
風になびく美しい銀毛、研ぎ澄まされた刃のような金色の双眸。
森の神獣の如き威厳を放つ相棒の存在が、眼下の泥にまみれた亡者たちの醜悪さを、いっそう際立たせていた。
バルトロの鼻腔には、大樹の上から漂い降りてくる「焼きたてのパンの匂い」が容赦なく突き刺さっていた。
麦の甘い香ばしさ、芳醇な天然酵母の香り、そしてとろけるような野生蜜の甘美な匂い。
冬の間、凍りついたネズミの死骸や泥まみれの枯れ草すら奪い合ってきた男にとって、その匂いは脳髄を狂わせる劇薬に等しかった。
口の端からだらだらと汚らしい涎を垂らしながら、バルトロは泥の中に両手を突き、額を地面に擦り付けた。
「頼む……! 頼むから、そのパンを分けてくれ! 一口でいい、ほんの欠片でいいんだ! 腹が減って死にそうなんだよ! 見ろ、この私の惨めな姿を! お前を長年指導してやった恩師が、こうして泥に頭を擦り付けて頼んでいるんだぞ!」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を跳ね上げ、バルトロは必死の形相で叫び立てる。
その背後には、泥炭地で足をもたつかせながら追いついてきた難民たちが、息を潜めて大樹を見上げていた。
百人を超える群衆の視線が、大樹の幹に据えられた頑丈な施設と、青々とした若葉、そして何よりアルトの手元にあるであろう食糧へと注がれている。
バルトロの叫び声に呼応するように、背後の難民たちからも、身勝手な怒号と懇願が湧き上がった。
「そうだ! 子供のくせに、あんな美味そうなものを独り占めするな!」
「私たちはオルディス都市の善良な市民だぞ! 生き残った者を助けるのは人道的な義務だろうが!」
「少し分けてくれたって減るもんじゃない! 早くその橋を下ろせ! 中に通しなさい!」
飢えに狂った人間たちの本性が、濁流となって大樹へと押し寄せてくる。
かつて都市の中で、魔力を持たないアルトを石もて追われ、路地裏の片隅で寒さに震えていた時には、誰一人としてパンの一欠片すら恵んでくれなかった者たち。
それどころか、すれ違いざまに足蹴にし、汚らわしいものを見る目で唾を吐きかけていた「善良な市民たち」が、自らの立場が逆転した途端に、権利と道徳を振りかざして施しを要求しているのだ。
アルトの表情は、一片の揺らぎもなかった。
怒りすら湧いてこない。
ただ、眼下で蠢く生き物たちが、自分と同じ言葉を話す人間であることすら疑わしいほど、遠く、冷徹な世界から彼らを観察していた。
「アルト! 聞いているのか、アルト!」
バルトロは再び額を泥に打ち付け、哀れっぽい声を張り上げた。
「わ、分かっている! お前はあの時のことを怒っているんだろう! 学校からお前を除籍し、森へ追放した時のことを! だが、あれは私の本意ではなかったんだ! すべては貴族院と評議会の決定だった! 私は……私はお前を庇おうとしたんだぞ! 魔力がなくとも、お前には薬草の知識があった! だから私は最後まで反対したんだ!」
息を吐くように紡ぎ出される、見え透いた真っ赤な嘘。
アルトの脳裏に、あの日――追放宣告の朝の記憶が、鮮明な映像となって蘇る。
学校の職員室で、この男は薄笑いを浮かべながら、アルトが集めた薬草標本を暖炉の炎へ放り込んだ。
『出来損ないが集めた雑草など、暖を取る薪の役にも立たん』
そう言って冷酷に嘲笑った顔。
そして都市の冷たい鉄門の前で、雨の中に放り出されたアルトの額に、ねっとりとした唾を吐きかけた感触。
『二度とその薄汚い顔を見せるな、寄生虫。森の獣の餌になって野垂れ死ね』
男の吐き捨てたその声は、耳の奥に今も焼き付いていた。
アルトは静かに口を開いた。
大樹の梢を渡る春風に乗って、少年の澄んだ声が、静かに、だが驚くほど明瞭に水路の対岸へと響き渡る。
「嘘をつかないでください、バルトロ教官」
その平坦な響きに、バルトロの叫び声がピタリと止まった。
泥まみれの顔が、弾かれたようにアルトを見つめる。
「僕を捨てたのは、あなたです。僕に育てる価値がない、生きている価値すらないゴミだと罵ったのも、あなたです」
アルトの声には、激情の震えなど微塵も含まれていなかった。
実験室で淡々と記録を読み上げる魔導技師のような、感情を極限まで削ぎ落とした絶対の静寂。
「あなたが暖炉で燃やした薬草は、僕が吹雪の中で指の感覚を失いながら集めたものでした。あなたが僕の顔に唾を吐きかけた時、あなたは心底楽しそうに笑っていました。……違いますか?」
「そ、それは……! あれは教官として、お前を厳しく鍛えるための……!」
バルトロの喉から、みっともない弁明が上擦って漏れ出る。
「もう結構です」
アルトは男の言葉を、冷たく遮った。
「あなたたちが僕を森に捨てたあの日、僕とあなたたちの関係は完全に終わりました。僕がこの森で凍死しなかったのは、あなたの慈悲のおかげではありません。僕が自分の頭で考え、自分の手で木を切り、火を起こし、シロと共に必死で命を繋ぎ止めてきたからです」
アルトは手すりから身を乗り出し、水路の向こうに群がる百人の亡者たちを一瞥した。
「ここにあるパンも、水も、薪も、すべて僕たちのものです。飢えたからといって、かつて見捨てた相手に泣きつき、奪い取ろうとするあなたたちの言葉には、この森に散らばる落ち葉一枚の価値もありません」
宣告だった。
慈悲の欠片もない、絶対の断絶。
「一欠片のパンも、一滴の水も、あなたたちに渡すものはありません。今すぐこの場所から立ち去ってください。境界線の外へ戻り、自分たちで生き延びる方法を探してください」
その言葉が落ちた瞬間、バルトロの顔から哀れみの仮面が剥ぎ取られた。
ドス黒い憎悪と狂気が、泥に汚れた顔面を歪ませる。
かつて自分が虫けらのように踏み躙っていた「無能の少年」に、見下ろされ、施しを拒絶された屈辱。
それが男の理性を完全に焼き切った。
「が、餓鬼があぁぁッ!! 調子に乗りおってえぇぇッ!!」
バルトロは泥の中から跳ね起き、折れた杖を振り上げながら絶叫した。
「出来損ないの寄生虫の分際で! 上位魔導士であるこの私を見下すか! 誰の施しで今まで生きてこられたと思っている! おい、貴様ら、突っ込め! 水路など飛び越えろ! あの大樹を占拠するんだ! あそこには食い物が山ほどあるぞ! ガキを引きずり下ろして、八つ裂きにして肉を奪えぇぇッ!」
バルトロが煽動の叫びを上げ、自ら泥炭を踏みしめて水路へと突進しようとした。
飢餓に理性を失った難民たちの群れもまた、獣のような唸り声を上げ、濁流のように水路の縁へと押し寄せる。
だが――
アルトは慌てもせず、ただ静かに隣の相棒の頭に触れた。
「シロ、教えてあげて」
短く放たれたその言葉に応え、白銀の巨狼が、天空デッキの縁へと音もなく歩み出た。
シロが大きく肺腑を膨らませる。
次の瞬間――
「――グオォォォォォォォォッッ!!!!」
森の空間そのものを圧壊させるような、超高密度の神話的咆哮が炸裂した。
ただの獣の叫び声ではない。
アルトが大樹の根元で構築した「音響反射板」の共鳴構造と、シロ自身の魔力器官が放つ極超低周波が融合した、不可視の衝撃波。
大気が激しく波打ち、地上十五メートルから地上へと叩きつけられた空気の槌が、石組み水路の激流をバシャァァンと白く跳ね飛ばした。
「ぎゃああああああああっ!?」
先頭を走っていたバルトロは、鼓膜を直接殴りつけられたような激痛に、両手で耳を押さえてのけぞった。
咆哮に含まれる絶対的な捕食者の殺気が、人間の本能の奥底に眠る生存本能を無慈悲に粉砕する。
内臓が震え、心臓が握り潰されたような圧迫感。
男の膝は一瞬で力を失い、そのまま前へつんのめって泥の中へと顔面から叩きつけられた。
「ひっ……ひぃぃぃっ! ば、化け物……! 森の主だ……! 神狼だぁぁっ!」
バルトロの股間から、生暖かい液体が泥炭のぬかるみへと染み出していく。
恐怖のあまり失禁した男は、もはや立ち上がることすらできず、四つん這いになって泥水を跳ね上げながら、後方へと無我夢中で這いずり逃げた。
背後にいた難民たちも同じだった。
咆哮の余波で全員が腰を抜かし、泥の中に転がり落ちていた。
鼻血を流す者、恐怖のあまり失神する者、そして泣き叫びながら元来た道へと這い戻る者。
パンへの強欲など、命の危機の前には一瞬で消し飛んでいた。
「に、逃げろ! 食われるぞ!」
「あんな化け物を従えてるなんて、あいつは人間じゃない!」
「助けてくれぇぇっ!」
百人を超える亡者たちは、蜘蛛の子を散らすように背を向け、泥炭地を這いずりながら、足場の良い西側の枯れ谷――大樹から最も遠ざかる外周ルートへと我先にと逃げ惑っていった。
誰一人として、大樹を振り返る者はいなかった。
嵐のような騒乱が去り、森には再び、激流の水音と小鳥のさえずりが戻ってきた。
水路の対岸に残されたのは、無数に穿たれた泥の足跡と、バルトロが落としていった折れた杖の残骸だけだった。
「……ありがとう、シロ」
アルトが優しく首筋を撫でると、シロは先ほどまでの荒ぶる神の表情を一瞬で消し、嬉しそうに目を細めて「くぅん」と喉を鳴らした。
かつての傲慢な支配者との、完全なる決別。
アルトの心には、一片の後悔も、感傷も残っていなかった。
自らの領域を、自らの力で守り抜いたという、確固たる自負だけが胸を満たしていた。
だが――その時だった。
ズズズズ……ゴゴゴゴゴゴゴゴッ――
逃げ去った難民たちの悲鳴を遥かに凌駕する、不気味で重厚な地響きが、南の地平線の彼方から届いた。
それは、生物の足音ではなかった。
何十トンもの鋼鉄が大地を押し潰しながら進む、規則正しい衝撃。
そして、空を切り裂くように響き渡ったのは――
――ボォォォォォォォォッッ!!!
大地を震わせる、耳障りな蒸気の怪叫。
高圧蒸気機関が吐き出す、獰猛な鉄の汽笛の音だった。
アルトの視線が、一瞬にして険しさを帯びる。
見張り台の反射望遠鏡を掴み、南の境界線の彼方――かつてのオルディス都市の残骸の向こうへと、筒先を向けた。




