第089話:水車駆動の自動製粉機と、白煙のパン
雪解けの激流を呑み込んだ渓流は、冬の間の静けさが嘘のように、激しい水煙を上げながら轟音を響かせていた。
大樹の根元を穿つように巡らせた石組み水路。その北側の放水路に設置された巨大な下掛け式木製水車が、奔流の運動エネルギーを受け止め、力強く、どこまでも規則的に回転を続けている。
水飛沫が朝の光を浴びて無数の小さな虹を描き、ひんやりとした霧が大樹のテラスを満たしていた。
水車の中央から伸びる回転軸は、直径三十センチ、樹齢百年の硬質樫の丸太から削り出したものだ。
その軸木が、大樹の根元に新設した半地下の作業小屋へと真っ直ぐに貫通している。
小屋の内部には、心地よい木の摩擦音と、規則正しい打撃音が響き渡っていた。
カコン、コトコト、カコン、コトコト――
アルトがこの数日間、鹿革のエプロンを締め、鑿と鉋を振るって組み上げた「水車駆動式自動製粉機」が、完璧な調和を保ちながら作動していた。
動力伝達の心臓部は、二つの木製歯車だ。
水車の水平回転軸の先端に取り付けられたのは、円盤の側面に頑丈なホオノキの角材を等間隔に打ち込んだ「クラウンギア(王冠歯車)」。
それに直角に噛み合っているのが、垂直軸を支える籠のような形状の「ランタンピニオン(格子歯車)」である。
水平方向の回転を、一切の無理なく垂直方向の回転へと九十度方向転換させる機構。
木と木が激しく擦れ合う歯面の接触部には、冬の間に仕留めた大イノシシの背脂から精製した純度の高い獣脂をたっぷりと塗り込んである。
独特の油の匂いとともに、摩擦熱は最小限に抑えられ、歯車の噛み合わせは滑らかな油膜の上を滑るように静かだった。
垂直軸の直上には、二枚の巨大な玄武岩の平石が据えられている。
上臼と下臼からなる回転石臼だ。
直径五十センチ、厚さ十五センチ。川原から運び上げた硬質な石材を、鉄の鏨で何日もかけて叩き削り、同心円状の細かな溝――「目立て」を放射状に刻み込んだ代物である。
上の石臼の中央には、逆円錐形に削り出した白樺の木製ホッパー(漏斗)が取り付けられていた。
アルトは麻袋を抱え、ホッパーの上へと立った。
袋の中に手を差し入れると、さらさらとした乾いた粒の感触が指先をくすぐる。
秋の終わりに収穫し、灰汁を抜いてじっくりと天日乾燥させておいたマテバシイの実。そして、岩棚の自生地から刈り取って脱穀しておいた野生のエミール麦だ。
冬の間、氷点下の貯蔵庫で低温熟成された実は、余分な水分が抜け、凝縮されたデンプンと甘みを内に秘めている。
「よし、投入するよ」
傍らで好奇心深そうに鼻先を寄せていたシロに声をかけ、アルトは麻袋を傾けた。
黄金色の麦粒と、琥珀色のドングリの実が、ざらざらと小気味よい音を立てて木製漏斗へと吸い込まれていく。
ホッパーの底から落ちた粒は、上臼の中央の穴へと滑り込み、回転する二枚の玄武岩の狭間に挟み込まれた。
ゴリ、ゴリゴリ、ゴリゴリゴリ――
重厚な石の擦れ合う重低音が小屋の床板を心地よく震わせる。
手挽きの石臼であれば、一杯の粉を得るために何時間も汗を流し、腕の筋肉を酷使しなければならなかった重労働。
それが今、自然の雪解け水の力によって、アルトが指一本触れることもなく、無尽蔵の力で淡々と、正確無比にこなされていく。
回転する石臼の縁から、白樺の樹皮で編んだ受け皿へと、ふわりとした白い粉が雪のように溢れ出してきた。
アルトは受け皿に手を伸ばし、親指と人差し指でその粉をつまんで擦り合わせた。
「……すごく細かい。手で挽いた時の何倍も滑らかだ」
指先に吸い付くような、絹のようなきめ細やかさ。
石の溝が摩擦熱を持たないよう、水車の回転速度を水門の板で微調整したおかげで、粉が熱で焦げることもない。
鼻を近づけると、新緑の芽吹きにも似た、甘く香ばしい純粋な麦の香りと、ナッツのような豊かな油脂の香りが鼻腔をくすぐった。
わずか十五分ほどの間に、深底の木桶一杯に、真っ白な粉が山のように溜まっていく。
これだけの量があれば、一週間分の主食を優に賄うことができる。
「シロ、火を起こそう。今日は焼きたてのパンを食べるんだ」
シロが嬉しそうに喉を鳴らし、短く「ウォン」と応えた。
作業小屋の外、大樹の東側に設えた野外調理場へと移動する。
ここには、冬の間に耐火レンガと粘土で築き上げたドーム状の石窯(薪オーブン)が据えられていた。
窯の内部に、しっかりと乾燥させた白樺の細薪を井桁に組み、火打ち石と火口の消し炭を使って小さな種火を落とす。
ふっと息を吹きかけると、オレンジ色の炎がパチパチと心地よい音を立てて広がり、甘い白樺の木煙が煙突から立ち上った。
石窯の内部が真っ白に焼けるまで、しっかりと熱を蓄えさせる。
その間に、パン生地の仕込みに入った。
平らなトチノキの捏ね鉢に、挽きたての極上粉をたっぷりとあける。
そこに加えるのは、大樹の幹の洞で冬の間も大切に継ぎ足し発酵させてきた「野生の果実酵母」だ。
秋に採集した野リンゴの皮と蜂蜜、そして清水を瓶の中で発酵させたもので、蓋を開けると、林檎酒のようなフルーティーで甘酸っぱい芳香が一気に立ち込めた。
さらに、岩塩の結晶をすり鉢で細かく砕いたものをひとつまみ。
ぬるま湯で溶いた酵母液を粉の真ん中に注ぎ入れ、指先で手早く混ぜ合わせていく。
最初はぽろぽろとした塊だった粉が、水分を吸うにつれて一つにまとまり、艶やかな塊へと変化していく。
アルトは体重を乗せ、手のひらの付け根を使って力強く生地を捏ねた。
押しては折り、回しては押し込む。
手首を動かすたびに、生地の中に空気が抱き込まれ、グルテンの網目構造が形成されていくのが手触りで伝わってくる。
都市の魔導学校の食堂で出されていたパンは、魔力で無理やり水分を抜いたパサパサの黒パンで、石のように硬く、酸っぱくて喉を通すのも一苦労だった。
だが、今アルトの手の中にある生地は、赤ん坊の頬のように柔らかく、吸い付くような弾力を帯びていた。
捏ね上がった生地を丸め、清潔な麻布を被せて石窯の脇の温かい場所に置く。
春の柔らかな温もりを受けて、生地はみるみるうちに二倍の大きさに膨らみ、表面には細かな気泡がぷつぷつと浮き上がった。
発酵は完璧だった。
「よし、窯の温度もちょうどいい」
石窯の薪を奥へと押しやり、熾火の熱が均一に回っているのを確認する。
アルトは発酵した生地を手のひらサイズにちぎり、木のへらの上で平たい丸型に成形した。
表面にナイフで十文字の飾り包丁を入れ、熱い炉床の平石の上へと手早く滑り込ませる。
ジュウッ、と微かな水蒸気の爆ぜる音が響き、すぐに重い鉄の蓋で窯の口を塞いだ。
閉じ込められた熱気の中で、生地が一気に膨張していく気配が伝わってくる。
石の輻射熱がパンの底面を焼き、天井から降り注ぐ熱風が表面を香ばしく焦がしていく。
煙突から漂い出る煙の匂いが、薪の煙から、次第に香ばしいパンの匂いへと変化していった。
焦げた小麦の甘み、ナッツのような油分、そして酵母が熱によって生み出す芳醇なアロマ。
その暴力的なまでに美味そうな匂いに、足元で座っていたシロの鼻先がひくひくと小刻みに動き、口元から透明な涎が一筋垂れ下がった。
「もうすぐだよ、シロ。あと少しだけ我慢して」
アルトが微笑みながら頭を撫でると、シロは前足をふみふみと動かしながら、待ちきれない様子で身悶えした。
十分後。
アルトは厚手の革手袋をはめ、石窯の蓋を取り外した。
その瞬間、純白の熱い蒸気が奔流となって吹き出し、辺り一面を極上の幸福な香りで包み込んだ。
炉床の上で、パンは見事な黄金色に焼き上がっていた。
表面にはカリリとした薄い皮が張り、十字に入れた切れ目からは真っ白な生地が花びらのように弾け、ぷっくりと盛り上がっている。
木のへらで取り出すと、持っているだけで指が火傷しそうなほど熱々だった。
底を指先で軽く叩くと、コンコンと乾いた小気味よい音が響く。芯まで完璧に火が通っている証拠だった。
アルトは木皿の上に焼き立てのパンを並べ、その横に冬を越した秘蔵のガラス瓶を置いた。
大樹の天辺近くの古木から採取した、純度百パーセントの「野生蜜」だ。
黄金色のとろりとした蜂蜜を木のスプーンですくい、熱々のパンの裂け目へと惜しみなく垂らし込む。
ジュワッ、と熱で蜂蜜が溶け、パンの気泡の奥深くへと染み込んでいった。
さらに、雪の下で凍結保存しておいた野イチゴとヤマブドウのコンポートをひとさじ添える。
「いただきます」
アルトは熱いパンを両手で二つに割った。
パリッ、という心地よい破裂音とともに、中から真っ白な湯気が立ち上る。
内側の生地は雪のように白く、無数の気泡を抱き込んで、羽毛のようにふわふわと柔らかい。
そのまま、大きく口を開けてかぶりついた。
「……っ、熱い! ……でも、すごく美味しい!」
表面の皮は香ばしくサクサクと砕け、中の生地は驚くほどもっちりと舌の上でほどけていく。
噛みしめるたびに、エミール麦の力強い甘みと、マテバシイの上品なコクが口いっぱいに広がった。
そこに絡み合う、濃厚な野性蜜の芳醇な甘みと、野イチゴのキュッとした爽やかな酸味。
余分な保存料も調味料も何一つ使っていない、大自然の恵みと自分の工学技術だけで作り上げた、完璧な命の糧。
一口飲み込むごとに、温かな活力が胃袋から全身の指先へと染み渡っていくのを感じた。
シロの前には、熱を冷ました大きなパンが三つ置かれていた。
蜂蜜の甘い香りに我慢の限界を迎えていた白銀の巨狼は、アルトの合図とともに一口でパンにかぶりつき、ハフハフと熱気を吐き出しながら、至福の表情で喉を鳴らして咀嚼した。
骨を噛み砕く鋭い牙が、柔らかいパンを愛おしそうに味わっている。
あっという間に三つを平らげると、シロはアルトの膝に大きな頭を擦り付け、もっと欲しいと甘えるように尻尾を大きく振った。
「はい、もう一つ。よく噛んで食べるんだよ」
アルトがもう一つパンを差し出すと、シロは大切そうに口にくわえ、目を細めて味わった。
春の柔らかな日差しの中、大樹のテラスには、穏やかで満ち足りた二人の時間が流れていた。
だが――
その幸福な空気を運ぶ春風は、同時に残酷な使者でもあった。
大樹の梢から立ち上る、石窯の白樺の煙。
そして、何十メートル四方にまで濃厚に漂い広がる、焼き立てのパンの香ばしく甘い湯気。
その匂いが、そよ風に乗ってふわりと運ばれ、大樹の根元――激流の石組み水路の対岸へと漂い降りていったのだ。
水路の向こう岸の泥炭地には、泥にまみれ、飢えと寒さで震えながら立ち往生していた百数十名の難民たちがいた。
その鼻先を、抗いようのない「天上のご馳走の匂い」が撫でていく。
「な……なんだ、この匂いは……!?」
「パン……!? 焼きたての……麦のパンの匂いだ……!」
「あ、温かい……甘い匂いがする……! あの大樹の上だ! あいつら、あんな美味そうなものを食ってるんだ!」
泥をすすり、木の皮を齧っていた亡者たちの喉が、一斉に生唾を飲み込んでゴクリと鳴った。
飢餓によって狂気寸前にまで研ぎ澄まされた嗅覚が、彼らの理性を完全に粉砕する。
そして、泥まみれの服を掴み、杖を振り回しながら群衆の前に飛び出してきたのは、かつてアルトを追放した男――バルトロ教官だった。
男の血走った目が、大樹の上の人影と、立ち上る白煙を捉え、異様な執念にギラギラと燃え上がっていた。




