第088話:境界線の鉄条網を越えてくる亡者たち
風に乗って漂ってきたのは、春の芽吹きの匂いを汚す、むせ返るような悪臭だった。
腐敗した生ゴミの臭気、泥に混ざった血の生臭さ、そして何ヶ月も風呂に入っていない人間たちが放つ強烈な体臭。
原生林の澄み切った清浄な空気が、南から押し寄せてきたその濁流によって、一瞬にして澱んでいくのを肌で感じた。
「シロ、見張り台へ上がろう」
アルトは新しい鹿革のモカシンで大樹の木製ステップを駆け上がった。
足音は驚くほど静かで、ステップを踏みしめるたびに硬質ブナのソールがしっかりと木の表面を捉え、一切のタイムロスなく地上十五メートルの天空デッキへと身体を押し上げてくれる。
シロもまた、羽が生えたかのような身軽さでアルトの背後に滑り込み、手すりの隙間から地上を見下ろした。
アルトは首から提げた手製の反射望遠鏡を手に取り、南の境界線へと筒先を向けた。
竹筒の内部に仕込んだ琥珀色のレンズが光を集め、円形の視界の中に、森の入り口の凄惨な光景を引き寄せる。
「……ひどいな」
望遠鏡を覗いたまま、アルトの口から乾いた呟きが漏れた。
そこにあったのは、かつてアルトが知っていた「人間たちの社会」の成れの果てだった。
境界線を仕切っていた高さ五メートルの巨大な鉄柵。
かつて都市の権威と傲慢を誇示するかのように聳え立ち、アルトを締め出したあの堅牢な閂の門は、今や完全にへし折れ、泥の中に倒れ伏していた。
その倒壊した鉄柵を踏み越えて、百人を超える群衆が、原生林の入り口へと雪崩れ込んできていたのだ。
群衆の姿は、あまりにも異様だった。
かつてオルディス防壁都市で華美な生活を誇っていたはずの人々。
金糸の刺繍が施されていたであろう高価な法衣や絹のドレスは、引き裂かれて泥と煤にまみれ、ただの汚れた布切れへと成り果てている。
革靴は擦り切れ、裸足にボロ布を巻きつけた足からは血が滲み、雪解けの黒土に赤い足跡を残していた。
誰もが骨と皮ばかりに痩せ細り、頬は落ち窪み、目の下には黒々とした隈が張り付いている。
その瞳に宿っているのは、知性でも理性でもない。
ただ、今日生き延びるための何かを貪り食いたいという、野生の獣以下の飢餓の狂気だけだった。
冬の間、雪に閉ざされた都市の瓦礫の中で、彼らが何を経験してきたのか。
望遠鏡越しに見るだけでも、その地獄絵図が手にとるように理解できた。
魔力炉が爆発し、暖房も光も失われた極寒の暗闇。
食糧の配給は途絶え、貴族も平民も関係なく、生き残るために互いの喉笛を噛み千切り合い、死体の肉すら奪い合ったのだろう。
冬の終わりまでに、かつて数万人を誇ったオルディス都市の住民の大半は死に絶えたはずだ。
そして雪が解け、立ち込める煙と生命の気配を頼りに、この境界の森へと這いずり出してきたのが、この百数十名の「亡者たち」だった。
「ぎゃあぁぁぁっ! 足が、足が抜けねえッ!」
先頭を走っていた男が、悲鳴を上げて前のめりに倒れ込んだ。
アルトが冬の間に仕掛けておいた、第一防衛線――「逆茂木と泥炭地の誘導トラップ」に引っかかったのだ。
雪解け水で底なしの泥濘と化した黒土に足を取られ、一度踏み込めば膝まで泥に呑み込まれて身動きが取れなくなる。
さらに、泥炭地の両脇には、鋭いトゲを持つノイバラとタラの木の枯れ枝を幾重にも編み込んだ逆茂木がバリケードのように張り巡らされていた。
焦って抜け出そうともがくほど、トゲが襤褸の衣服を破り、皮膚に深く突き刺さる。
「どけ! 邪魔だ、貴様!」
「押すな! 私が先だ! 私は元・上級魔導士だぞ!」
泥に足を取られた者を、後続の人間たちが情け容赦なく踏み台にして進もうとする。
誰一人として仲間を助けようとする者はおらず、互いを突き飛ばし、足首を掴んで引きずり倒しながら、泥の中で醜い共食いのような争いを繰り広げていた。
都市の文明を誇り、魔力を持たない者を「野蛮な出来損ない」と蔑んでいた大人たちの本性が、極限状態の中で余すところなく剥き出しになっていた。
アルトは表情一つ変えず、静かに望遠鏡のピントを合わせた。
胸の奥に、かつて自分を虐げた者たちへの嘲笑や、ざまあみろという感情は微塵も湧いてこなかった。
かといって、泥の中で泣き叫ぶ女や子供に対する同情も、欠片ほども存在しなかった。
そこにあるのは――ただ、害虫の群れが畑に近づいてくるのを観測する農夫のような、冷徹で客観的な防衛意識だけだった。
(……このまま進んでも、基地には辿り着けない)
アルトの計算通りだった。
泥炭地と逆茂木の配置は、侵入者を殺傷するためではなく、「自然と大樹から遠ざかる方向へ迂回させる」ように幾何学的に設計されている。
もがき苦しむ難民たちは、トゲの痛みに耐えかねて、自然と足場の良い西側の枯れ谷――大樹の基地とは全く逆の方向へと誘導されていく。
そのまま森の外周を回って、いずれは境界線の外へと押し戻されるはずだった。
だが――
その群衆の中に、一人の男がいた。
「おい! 見ろ、あそこだ!」
泥まみれの杖を振り回し、他の難民の頭を踏みつけながら、濁った声を張り上げる男。
男の指先が、原生林の木立の隙間――大樹の梢から立ち上る、一本の澄んだ白い煙を正確に指差していた。
「煙が上がってるぞ! 人が住んでるんだ! 火がある! 食い物があるに決まってる!」
「え……? 本当か!?」
「あそこの巨木の周りだけ、雪が完全に解けてるぞ! 緑の葉が生い茂ってる!」
男の叫び声に、泥に塗れていた難民たちが一斉に顔を跳ね上げた。
虚ろだった百対の瞳に、ギラリとした強欲の光が灯る。
生きるための希望を見出した亡者たちが、痛みを忘れたように、大樹の方向へと這い進み始めた。
アルトは望遠鏡のレンズを、最初に煙を指差した男の顔へと絞り込んだ。
煤で汚れ、無精髭が伸び放題になった顔面。
かつては脂ぎって丸々と太っていたであろう頬は醜くたるみ、血走った小さな目が、異様な執念で大樹の梢を睨みつけている。
泥で汚れた外套の胸元には、へし折れた真鍮の校章――オルディス魔導学校の教官の証が、辛うじてぶら下がっていた。
「……バルトロ教官」
アルトの口から、その忌まわしい名前が静かに零れ落ちた。
忘れるはずがなかった。
魔導学校で、魔力を持たないアルトを毎日のように「寄生虫」「ゴミクズ」「血統の汚点」と嘲笑い、課題が終わらないと難癖をつけては地下の冷たい石畳に正座させ、重い樫の木刀で背中を容赦なく打ち据え続けた男。
アルトが冬の森で凍えながら必死で採集してきた貴重な薬草標本を、生徒たちの前で暖炉の炎へ投げ込み、「出来損ないが集めた雑草など、暖を取る薪の役にも立たん」と哄笑していた男。
そして追放の日の朝、都市の冷たい鉄門の前で、膝をつく少年の額にねっとりとした唾を吐きかけ、「二度とその薄汚い顔を見せるな、野垂れ死ね」と門扉を閉ざした張本人。
あの時、豪奢な毛皮の襟巻きをつけ、銀の懐中時計を弄びながらアルトを見下ろしていた肥満体の権力者は、今や見る影もない。
泥水をすすり、他人の肩を肘で押し退け、血走った眼球を剥き出しにして、獣のように四つん這いで這いずり回っている。
手にした樫の杖は先端が欠け落ち、かつて誇らしげに掲げていた三級魔導士の水晶玉は、どこかの瓦礫にぶつけて粉々に砕け散っていた。
ただの不格好な木の棒と化したそれを振り回し、男は泥に足をとられた女の背中を踏みつけながら、必死に大樹の根元を目指している。
「あそこだ! あそこへ行けば暖炉がある! パンがある! 肉があるはずだ!」
「教官、待ってください! 私を置いていかないで!」
「知るか、離せ! この穀潰しどもが! 私は貴族院にも顔が利く上位魔導士バルトロ様だぞ! 生き残るのはこの私一人で十分だ!」
自分を慕っていた教え子の腕を蹴り飛ばし、バルトロは泥炭のぬかるみを強引に這い進んでくる。
その背後では、力尽きた老人や子供たちが泥の中に沈み、すすり泣きながら草の根を掘り返して口に運んでいた。
極限の飢餓は、都市が何百年もかけて築き上げた「文明」という名の薄皮を、こうも無惨に剥ぎ取ってしまうのか。
だが、その地獄のような光景を前にしても、アルトの心は一切揺らがなかった。
同情も、憐憫も、復讐心すら湧いてこない。
かつて自分を寒風の中に放り出し、死を宣告した者たちが、自らの招いた破滅によって自壊しているだけだ。
アルトが手にしたこの温もり、この清潔な寝床、この豊かな食糧は、すべて自分が自らの手で血を流し、知恵を絞り、シロと共に冬を越えて築き上げたものだ。
彼ら都市の人間が、傲慢にも踏みにじり、見捨てた「無力なゴミ」が作り上げた聖域なのだ。
それを今さら、飢えたからといって土足で踏み荒らさせ、奪い取らせる筋合いなど、天地が引っくり返っても存在しない。
(……第一の泥炭地を抜けても、次は石組み水路だ)
アルトは大樹の根元を囲む環状の防衛線を冷静に見下ろした。
冬の間、雪を溶かすために掘り抜いた水路には、今や轟音を立てて冷たい雪解け水が満ち満ちている。
水深は二メートル、幅は四メートル。
護岸には平らな石が垂直に積み上げられ、泥まみれの人間が這い上がれるような足場はどこにもない。
唯一の通路であった頑丈な木製の跳ね橋は、すでに大樹の滑車ワイヤーによって天空デッキへと完全に引き上げられていた。
シロがアルトの足元で、低く、大地を震わせるような威嚇の唸り声を漏らした。
背中の銀毛が針のように逆立ち、金色の双眸が氷刃のような光を放っている。
かつてアルトの腕に抱かれて震えていた小さな仔狼は、今や体長二メートルを超える森の主の如き巨躯へと成長していた。
その牙と爪は、大樹を侵そうとするあらゆる害敵を瞬時に引き裂く準備を整えている。
アルトはシロの分厚い首筋にそっと手を置き、指先を銀の毛並みに沈めながら、静かに撫でた。
「大丈夫だよ、シロ。まだ動かなくていい」
アルトの声は、春のそよ風のようにどこまでも穏やかで、静謐だった。
だが、その瞳の奥底には、永久凍土の氷床よりも冷たく、揺るぎない絶対の拒絶が宿っていた。
「ここは僕たちの家だ。僕たちが生き延びるために作った、たった一つの場所だ。……あの男にも、誰にも、一歩たりとも踏み込ませない」
バルトロ率いる亡者たちの群れが、泥炭地を這いずり抜け、大樹の根元を取り囲む激流の石組み水路の直前まで、這うようにして迫りつつあった。
その濁った視線が、大樹の根元に広がる青々とした新芽と、温かい土の気配を捉え、狂気じみた歓喜の叫びを上げている――




