↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/115

第009話:名もなき野草と、黄金のスープ

お湯が沸かせるようになった。

 それは、この原生林の中でただ生き延びるだけでなく、「人間として温かい食事を口にする」ことができるようになったという、決定的な進歩だった。

 だが、煮えたぎる熱湯をただ飲むだけでは、胃袋を満たすことはできない。

 アルトにとっても、奇跡的に息を吹き返したばかりのシロにとっても、今最も必要なのは、血肉となり、熱を生み出す本物の栄養だった。


「よし、シロ。具材を探しに行こう」


 アルトは再生した鉄鍋に川の水を半分ほど残し、火種を灰で覆って熾火を保つと、シロを連れて再び外へと歩き出した。

 雨上がりの原生林は、春の暖かな陽光を浴びて、むせ返るような命の匂いに満ちていた。

 木々の枝先には瑞々しい新緑が芽吹き、黒い腐葉土の地面からは、無数の名もなき草木が我先にと青い芽を伸ばしている。

 だが、その美しい緑の絨毯は、一歩間違えれば即座に死を招く猛毒の罠でもあった。


 川沿いの湿った日陰に、太くみずみずしい茎を伸ばし、ハート型の鮮やかな葉を広げた草の群生が目に入った。

 見るからに柔らかそうで、水気をたっぷり含んで美味そうに見える。

 アルトが腰をかがめ、その葉に手を伸ばそうとした――その瞬間だった。


「ウウゥゥゥッ……! キャンッ! キャンッ!」


 足元で、シロがこれまでに聞いたこともない激しい威嚇の声を上げた。

 純白の背中の毛を逆立て、小さな牙を剥き出しにして、アルトのズボンの裾を後ろへ力いっぱい引っ張る。

「わっ……!? どうしたの、シロ?」

 アルトが驚いて足を止めると、シロはその植物に向かって前足で激しく土を蹴り、絶対に近づくなとばかりにアルトの前に立ちはだかった。

 アルトはしゃがみ込み、その植物の根元を慎重に観察した。

 茎の根元に、禍々しい赤紫色の斑点がびっしりと浮き出ており、葉を軽く爪先で傷つけると、鼻をつく異臭とともに白く粘つく乳液が滲み出してきた。

 ――有毒植物だ。

 都市の図書室で見た古い博物誌の挿絵。心臓を麻痺させる猛毒草「ドクウツギ」か「バイケイソウ」の幼苗に酷似していた。もしこれを口に含んでいれば、激しい嘔吐と痙攣を起こし、今度こそ命を落としていたところだった。


「……シロ、君、これが毒草だって分かったの……?」


 アルトが呆然と呟くと、シロはフンッと誇らしげに鼻を鳴らし、くるりと踵を返した。

 そして、川岸のせせらぎが当たる岩場へと、小さな足取りでトコトコと駆けていく。

 シロが立ち止まり、前足でチョンチョンと触れたのは、清流の浅瀬に自生する、丸い小さな葉を連ねた深緑の野草だった。

 水しぶきを浴びて青々と繁るその姿は、都市で高値で取引されていた高級野菜「クレソン」や「オオバタネツケバナ」にそっくりだった。

 アルトが葉を一枚摘み取ると、シロは尻尾をパタパタと振り、甘えるように鼻先を擦り寄せてくる。

 指先で葉を揉むと、ワサビに似た爽やかな辛味と、清涼感のある甘い芳香がふわりと広がった。

 恐る恐る舌先で舐めてみる。

 ――ピリッとした心地よい刺激の奥に、澄んだ水のような甘みがある。毒の痺れやエグみは一切ない。


「すごい……! これ、食べられる野草だ!」


 シロの嗅覚と本能は、人間など足元にも及ばないほど正確に、植物の毒性と安全性を嗅ぎ分けていたのだ。

 アルトはシロの頭を撫で回し、夢中でその野草を両手いっぱいに収穫した。

 さらにシロは、林床の柔らかな腐葉土を前足で掘り返し、親指ほどの太さの白い地下茎を掘り当ててみせた。ヤマノイモのムカゴや野生のノビルのような、滋養強壮に優れた根菜だ。泥を川の水で洗い落とすと、真っ白な肌が現れ、齧ると瑞々しい梨のような歯ごたえと甘みがあった。


 だが、葉物と根菜だけでは、どうしても「油分」と「濃厚なタンパク質」が足りない。

 身体を温め、活動するための持続的な熱量を確保するには、植物性の脂質が不可欠だった。

 何かないか、と川岸を見渡していたアルトの視線が、対岸の砂利地に転がっている無数の「黒い丸い塊」に留まった。


「あれは……クルミ!?」


 浅瀬をジャブジャブと渡り、対岸の砂利を掘り起こす。

 昨年の秋に大樹から落ち、冬の雪の下で泥に埋もれていた「オニグルミ」の実だった。外側の果肉はすっかり腐り落ちていたが、中の硬い木質の殻は、鉄のように頑丈に中身を守り抜いていた。

 アルトは泥の中から、ずっしりと重みのある無傷のクルミを二十個ほど拾い集めた。


「よし……これで最高のご馳走が作れるぞ!」


 大樹の洞へ戻ると、カマドの上の鉄鍋は再び激しい蒸気を上げていた。

 アルトは調理の段取りを素早く組み立てた。

 まずはクルミの殻割りだ。

 平らな硬い大石の上にクルミを縦に置き、上から別の丸石を力任せに打ち下ろす。

 コンッ、パリンッ!

 心地よい音とともに頑丈な殻が二つに割れ、中から象牙色をした、油分をたっぷり含んだ濃厚な果肉が現れた。

 アルトは小刀の切っ先を器用に使って、複雑に入り組んだ殻の隙間から白い実を丁寧にかき出していく。

 指先に付着したクルミの油分が、ヌラリと光る。

 その実を、平らな石の上で丸石を使ってゴリゴリと丹念にすり潰した。

 潰せば潰すほど、濃厚なナッツの芳香が立ち込め、ペースト状になった実から乳白色の脂質が滲み出してくる。


 次に、収穫してきた野草と根菜の処理だ。

 白い根菜は火が通りやすいよう、小刀で極薄の輪切りにした。

 水生の野草は、手で一口大にちぎって苦味を程よく引き出す。


「いくぞ、シロ」


 アルトはまず、沸き立つ鉄鍋の中に、薄切りの根菜を投入した。

 シュウウッ……と湯気が上がり、甘い根菜の匂いが洞の中に漂う。

 根菜が透き通るまで数分間煮込んだ後、すり潰したオニグルミのペーストをたっぷりと鍋の中に落とし入れた。


 ――ジュワアアッ……!


 その瞬間、劇的な変化が起きた。

 透明だったお湯が、クルミの濃厚な植物油脂とタンパク質によって瞬く間に乳化し、ポタージュのように滑らかな、美しい乳白色へと染まり上がったのだ。

 さらにそこへ、ちぎった深緑の野草を一気に投入する。

 白濁したスープの海に、鮮やかな緑が美しく散り、鍋の縁から黄金色の油の輪が幾重にも広がっていく。

 仕上げに、都市から着の身着のままで逃げ出した際、作業着の小さなポケットに奇跡的に残っていた油紙包み――外壁補修用の塩水作りに使っていた、ひとつまみの「粗塩」をパラパラと落とした。


 立ち上る湯気は、もはや野草のそれだけではなかった。

 香ばしく炒ったナッツのような芳醇なコクと、大地の滋味、そして青葉の清涼感が完璧に調和した、圧倒的なご馳走の匂い。


「クゥゥゥンッ! キャンッキャンッ!」


 匂いにたまらなくなったシロが、枯れ葉の寝床から飛び出し、短い足をフル回転させて駆け寄ってきた。

 前足をアルトの膝にかけ、鼻先を限界まで伸ばしてクンクンと湯気を吸い込み、尻尾をプロペラのように激しく旋回させている。


「あはは、待って待って! 熱いからね、絶対に触っちゃダメだよ」


 アルトは鍋を火から下ろし、昨日作った「フキの葉の小鉢」に、出来立てのスープをそっと掬い分けた。

 シロ用の小鉢には、具材の根菜と野草をスプーン代わりに小刀の背で細かくすり潰し、クルミの濃厚なスープと混ぜ合わせて、人肌に冷ましたトロトロのペースト状にしてやった。


「よし、シロ。食べていいよ!」


 合図を出した瞬間、シロは小鉢に顔を突っ込む勢いで食らいついた。

 ペチャッ、ペチャッ、ハフッ、ハフッ!

 小さな舌を猛烈なスピードで動かし、黄金のスープとペーストを夢中で平らげていく。

 喉がゴクンと鳴るたびに、小さな身体が満足そうに震えた。

 一滴も残さず綺麗に舐め尽くすと、シロは口の周りを白く染めたままアルトを見上げ、「ワンッ!」と満足そうに短く一声鳴いた。その瞳は、生きる力と幸福感で爛々と輝いていた。


「よかった……気に入ってくれたんだね」


 アルトは破顔し、自分用の小鉢を両手で包み込んだ。

 まだ木のスプーンはない。

 葉の縁に唇を当て、フゥ、フゥと息を吹きかけて冷ましながら、恐る恐る一口すすった。


 ――ズズッ……


 その瞬間、アルトの全身の毛穴がカッと開いた。

 言葉が出なかった。

 口いっぱいに広がる、オニグルミの濃厚でクリーミーなコク。

 そこに、野生のクレソンのピリッとした爽やかな苦味と、じっくり煮込まれた根菜の優しい甘みが重なり合い、ほんの少しの塩気がそれらすべての旨味を完璧に引き締めていた。

 温かい液体が喉を滑り落ち、胃袋へと到達した瞬間――ドクン、と心臓が跳ね上がった。

 冷え切って活動を停止しかけていた内臓が、歓喜の悲鳴を上げながら熱を吸収していくのが分かった。

 手足の先まで、一気に温かい血液がドッと流れ出していく。


「う……うまい……っ!」


 二口目からは、もう止まらなかった。

 葉の小鉢を傾け、夢中でスープを胃袋へと流し込んだ。柔らかく煮えた根菜のシャキシャキとした食感、野草の香り、香ばしいナッツの粒。

 最後の一滴まで飲み干し、鍋に残っていたお代わりもすべて平らげた。

 都市の冷たい配給所で、蔑まれながら流し込んでいた泥水のような薄い粥とは、天と地ほどの差があった。

 自分の足で森を歩き、相棒と共に見つけ出し、自分の手で直した鍋で煮込んだ、世界で最初の食事。

 生きている。

 自分は今、確かにこの世界で、自分の力で生きているのだ。

 アルトの目尻から、じわりと温かい涙が零れ落ちた。


 満腹になったシロは、アルトの膝の上に丸まり、スースーと穏やかな寝息を立て始めた。

 アルトもまた、大樹の洞の壁に背中を預け、生まれて初めての深い幸福感と安心感に身を委ねていた。

 だが――その平穏は、夕暮れとともに破られた。


 陽が西の山並みに沈み、森が急速に紫色の薄闇に呑み込まれていく。

 夜の帳が下りると同時に、昼間は静まり返っていた原生林が、まったく別の「捕食者の世界」へと姿を変え始めたのだ。


 ――ガササッ……!


 大樹の洞のすぐ外、茂みを掻き分ける重い足音が響いた。

 シロが跳ね起き、耳をピンと立てて洞の入り口を睨みつける。

 アルトは息を殺し、火打石と小刀を強く握りしめた。

 洞の入り口の薄闇を、二つの爛々と光る赤い眼球が横切っていった。

 大人の背丈ほどもある、巨大な黒毛の野獣の影。

 野獣は洞の入り口で足を止め、焚き火の煙の匂いを警戒するように鼻を鳴らすと、やがて獲物を探して森の奥へと去っていった。

 さらに、地面からは冷たい夜の湿気がジワジワと這い上がり、枯れ葉のベッドの隙間からは、指先ほどの大きさの毒ムカデやヤスデが這い出してくる。


「……地面の上は、危ない」


 アルトはシロを抱き寄せながら、青ざめた顔で確信した。

 この大樹の洞は、雨露をしのぎ、火を起こすための最初の避難所としては完璧だった。

 けれど、地面と地続きである以上、夜になれば肉食獣がすぐ目の前を通り、毒虫が寝床に侵入してくる。

 火が消えれば、いつでも命を奪われる危険と隣り合わせなのだ。


 アルトは洞の天井を見上げ、そして外へと視線を巡らせた。

 見上げる古代の巨木は、地上四メートル、五メートルの高さに、大人が十人乗ってもびくともしないような、太く平らな巨大な枝を幾重にも広げていた。

 あの高さなら、地表を徘徊する野獣の牙は届かない。

 地面の冷たい湿気も、這い寄る毒虫も遮断できる。


「あそこだ……」


 アルトの瞳に、新たな決意の光が宿った。

「シロ。あの枝の上に、僕たちの本当の『家』を作ろう。誰にも邪魔されない、空の上の安全な秘密基地を!」


 シロはアルトの顔を見上げ、その決意に応えるように、「ワンッ!」と力強く鳴いた。

 生き延びるための段階は終わった。

 これからは、森を開拓し、真の安らぎの城を築き上げる――ツリーハウス建設の幕開けだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。