第008話:錆びた鉄鍋の再生、川砂の研磨音
生きるためには、食べなければならない。
それはアルトにとっても、奇跡的に息を吹き返したばかりの小さな相棒シロにとっても、一分一秒を争う切実な現実だった。
シロはまだ手のひらに乗るほどの幼子だ。乳歯が生え始めたばかりの小さな顎では、硬い木の根や木の実を噛み砕くことなど到底できない。
極度の低体温と飢餓から蘇生したばかりの胃腸に負担をかけず、しっかりと栄養を吸収させるためには、柔らかく煮込まれた、温かい消化の良いスープが必要だった。
そしてアルト自身も、都市を追放されてから丸二日、胃袋の中は空っぽのままだ。手足の先端がピリピリと痺れ、立っているだけで重心がふらつくのは、エネルギーが完全に枯渇している証拠だった。
だが、森の恵みを煮込むためには、火にかけることのできる「金属や陶器の器」がどうしても必要になる。
「待っててね、シロ。絶対に何か見つけるから」
アルトは先ほどシロが駆け出した方向――大樹の根元を抜け、緩やかな下り坂となっている斜面へと足を踏み入れた。
前方を走るシロは、先ほど湧き水を飲んだおかげでずいぶんと足取りが軽やかになっていた。雪のように白い小さな身体をピョンピョンと弾ませ、時折立ち止まっては、濡れた黒い鼻先を地面に向けて「フンフン」と熱心に匂いを嗅いでいる。
坂を下ること百歩ほど。木々の合間から、サラサラと耳に心地よいせせらぎの音が聞こえてきた。
原生林の懐を縫うようにして流れる、幅二間(約三・六メートル)ほどの小川だった。
その透明度は、アルトがこれまでの人生で目にしたどの水よりも高かった。川底に敷き詰められた色とりどりの丸石や、水草の間を縫って泳ぐ小魚の影が、まるで何もない空間に浮いているかのようにくっきりと見通せる。水面には朝の木漏れ日が差し込み、無数の銀貨を散りばめたようにキラキラと輝いていた。
「綺麗だな……」
思わず見とれるアルトの足元で、シロが「ワンッ!」と短く鋭い声を上げた。
見れば、川岸に張り出した巨木の太い根元、水流によって土が削り取られた窪みの奥を、シロが前足でしきりにカリカリと引っ掻いている。
アルトはしゃがみ込み、シロの鼻先の先を覗き込んだ。
黒い泥と濡れ落ち葉の奥に、不自然な半球形の影が埋もれていた。
「これは……?」
泥を素手で掻き分け、両手で力を込めて引っ張り上げる。
ズチュッ……と重い泥の音がして引き抜かれたのは、両手で抱えるほどの大きさを持った、分厚い「鉄の小鍋」だった。
本来あったはずの取っ手は朽ち果てて失われていたが、丸みを帯びた本体のフォルムはしっかりと保たれている。
おそらく、かつてこの境界の森を調査に訪れた都市の警備兵か、あるいは古い時代の旅人が落とし、長い年月の水流に流されてこの根元に引っかかったのだろう。
だが――その状態は凄惨を極めていた。
長年の水気と泥に晒され続けた鍋は、内側も外側も、まるで厚い樹皮のようにボロボロとした赤茶色の錆の層に覆われていた。指で触れただけで、ジャリッとした錆の粉が赤く指先を染め、鼻をつく酸っぱい鉄錆の異臭が立ち上る。
普通なら、誰もが見向きもせずにゴミとして投げ捨てるような残骸だった。
けれど、アルトの目は違っていた。
オルディスの防壁都市で、魔力を持たないアルトに与えられていた唯一の仕事は、外壁の亀裂の泥落としや、兵士たちが使い潰した鉄製ツルハシやスコップの錆落としだったのだ。
鋼鉄と錆の性質を、アルトの身体は誰よりもよく知っていた。
「大丈夫だ……表面の錆は酷いけど、鋳鉄自体の肉厚はまだ五ミリ以上残ってる。芯まで腐食しきって崩れてるわけじゃない。磨けば、絶対に甦る!」
都市では「無能」の証拠として押し付けられていた過酷な雑用の記憶が、今、この森で生き抜くための最強の武器となって少年の胸に蘇っていた。
アルトは川原の平らな大石の上に腰を下ろし、袖をまくり上げた。
シロは安心したようにアルトの脱いだ上着の端に丸まり、丸い瞳でアルトの手元をじっと見つめている。
「よし、やるぞ」
アルトはまず、第一段階の【粗研ぎ】を開始した。
川原から、手のひらに収まるサイズの、角が尖った硬いチャート質の石を拾い上げた。
鍋の内側に川の水を少量注ぎ、石の角を使って、表面に浮き上がっている分厚い赤錆の層をガリガリと力任せに掻き落としていく。
ガリッ、ジャリッ、ガリリッ……!
激しい摩擦音とともに、剥がれた錆が茶色い泥となって水に溶け出していく。
一度川の水ですすぐと、まるで魚の鱗のように浮いていた脆い錆が剥がれ落ち、その下からやや硬い黒褐色の層が現れた。
次は、第二段階の【中研ぎ】だ。
アルトは川底に手を差し入れ、底からきめ細かな「白い川砂」を両手いっぱいにすくい上げた。
石英の微粒子を多く含んだこの川砂は、極めて均一で鋭利な天然の研磨剤となる。
鍋の中にたっぷりの川砂を投入し、水を少し加え、今度は握り拳ほどの丸みを帯びた川原の丸石を手に取った。
丸石で砂を鍋肌に押し付け、均一な力で、円を描くようにして内壁を激しく擦り始める。
――ジャリッ、ジャリッ、ジャリッ、ジャリッ……!
静かな森の朝に、規則正しい研磨の音がリズミカルに響き渡った。
砂の粒子が数千、数万の微小な刃となって、頑固な錆の凹凸を削り平らげていく。
みるみるうちに、鍋の中の水がどろどろとした赤黒い研ぎ汁へと変わる。
川の水でざっと流し、新しい砂を投入し、再び擦る。
内側が終われば、外側だ。鍋をひっくり返し、底面と側面を同じように丸石と砂で磨き上げる。
ジャリッ、ジャリッ、ジャリッ……
次第に、アルトの肩と腕の筋肉が熱を持ち、鉛のように重くなってきた。手のひらにはマメが潰れかけた鈍い痛みが走り、額からは大粒の汗がポタポタと川砂の上に落ちる。
息が上がり、膝が震えた。
空腹の胃袋が激しく痙攣し、意識が遠のきそうになる。
だが、アルトは手を止めなかった。
休めば、二度と腕が上がらなくなることを知っていたからだ。
擦り続けるごとに、赤茶色に濁っていた鉄肌の奥から、鈍く、青みがかった鋼鉄本来の地肌が、少しずつ、けれど確実にその姿を現してくる。
それはまるで、泥にまみれて打ち捨てられていた命が、自らの光を取り戻していく過程を見ているかのようだった。
「くっ……負けるもんか……! 僕だって……この鍋だって、まだ終わってなんかないんだ……!」
都市で見捨てられた自分自身の姿が、この錆びた鉄鍋と重なっていた。
魔力がないからと、役立たずと決めつけられ、路傍のゴミのように捨てられた自分。
だが、磨けば光るのだ。
手をかけ、心を込めれば、どんなガラクタだって生き返るのだ。
アルトは歯を食いしばり、最後の力を振り絞って丸石を走らせた。
――そして、三時間後。
川の水で洗い流した瞬間、アルトは思わず息を呑んだ。
そこに現れたのは、もはや赤錆だらけのゴミの塊ではなかった。
均一な微小な研磨痕を帯び、鈍く青い光を放つ、見事な鋳鉄の小鍋だった。内側を指の腹で撫でると、陶器のように滑らかな感触が返ってくる。
アルトは仕上げとして、焚き火の灰と木炭の細かな粉末を手のひらに取り、鍋の内側を丹念に擦り上げた。灰のアルカリ分と微細炭素が鉄の微細な隙間に入り込み、油分を完全に落とすと同時に、滑らかな防錆の保護層を形成する。
「できた……! 見て、シロ、こんなに綺麗になったよ!」
アルトが声をかけると、上着の上でまどろんでいたシロが飛び起き、トコトコと駆け寄ってきた。
ピカピカに磨き上がった鍋の縁に前足をかけ、不思議そうに自分の顔が映る鉄肌を覗き込む。そして「ワンッ!」と嬉しそうに尻尾を振った。
アルトは鍋に清冽な川の水をたっぷりと汲み、大樹の洞へと戻った。
洞の中の焚き火は、太い薪をくべておいたおかげで、力強い熾火となって赤々と燃え盛っていた。
アルトは火の周りに二つの平らな川原石を据え、その上に再生した鉄鍋をどっしりと据え置いた。
オレンジ色の炎が、黒い鍋底を舐めるように包み込む。
シュウウ……と、水が熱を帯びる微かな音が立ち始めた。
「これでお湯が沸くぞ。あとは野草を探して……」
アルトが微笑んだ、その時だった。
――ジュッ……ジジジジッ……!
鍋の底から、鋭く耳障りな蒸発音が上がった。
アルトは凍りついた。
カマドの炎の隙間から、白い煙がプツリ、プツリと吹き出している。
慌てて火の脇から鍋底を覗き込むと――鍋の底の中央、長年の腐食で最も鉄肌が薄くなっていた部分から、水滴が雫となってポタポタと炎の中へ滴り落ちていた。
錆を削り落としすぎたのではない。最初から赤錆が鉄の奥深くまで侵食し、針の先ほどの微小な穴――【ピンホール】を貫通させていたのだ。
水圧と熱が加わったことで、その微細な隙間から水が漏れ出していた。
「そんな……嘘だろ……!?」
血の気が引いた。
このままでは、せっかく沸かそうとした水が全部抜け落ちてしまう。それどころか、漏れ出た水が焚き火を濡らし、大切な火種まで消してしまいかねない。
アルトは急いで乾いた木の棒を差し入れ、熱くなった鍋を火から下ろした。
土の上に置かれた鍋の底から、じわりと水が滲み出し、小さな泥の染みを作っていく。
三時間もの間、腕が千切れるほど磨き続けた努力が、一瞬で水泡に帰したような絶望感がアルトを襲った。
「穴が……空いてたなんて……」
肩が落ち、両手がだらりと垂れる。
ここには金属を溶かす鞴も、穴を塞ぐハンダも、溶接の魔導具もない。
やっぱり、僕には何もできないのか。
森で生きていくなんて、最初から思い上がりだったんじゃないのか――
暗い思考が頭を支配しかけた時、足元に温かい感触があった。
シロだった。
シロがアルトの泥で汚れた膝に前足をかけ、金色の瞳でじっとアルトの顔を見上げていた。そして、小さく「クゥン」と鳴き、アルトの項垂れた手の甲を、温かい舌でペロリと舐めたのだ。
――大丈夫だよ、アルト。
そう語りかけているかのように。
「……シロ」
アルトは深呼吸をした。冷たい空気が胸を満たし、急速に冷静さが戻ってくる。
諦めちゃ駄目だ。
道具がないなら、知恵を絞るんだ。
都市の外壁係だった頃、石造りの水道橋の継ぎ目や、貧民街の古い土窯のヒビ割れを、職人たちはどうやって塞いでいただろうか?
金属の溶接ができない時代、人間は何を使って火と水の隙間を埋めていたのか?
(……耐火粘土だ。耐火粘土と、砂鉄の焼き締め……!)
電撃のように記憶が繋がった。
超高温の炎に耐え、水漏れを防ぐ天然のセメント。
川岸の地層に、その材料がすべて揃っていたはずだ。
「シロ、もう一回川へ行こう!」
アルトはシロを連れて川岸へと駆け戻った。
川の浸食によって露出していた斜面の地層から、青みがかった灰色のねばつく粘土層を探し出した。砂気のない、きめ細かな耐火性の高いカオリン粘土だ。これを両手いっぱいに掘り出す。
次に、水流が澱む川底の淀みから、磁力を帯びたように重く黒い「砂鉄」をすくい集めた。
さらに、洞へ戻る途中で、広葉樹の白い木炭の灰をひとつかみ集める。
大樹の洞に戻ったアルトは、平らな石の上で調合を始めた。
微細な粘土六割、砂鉄三割、木炭の灰一割。
そこに湧き水を数滴ずつ垂らし、指先で全体重をかけて丹念に練り込んでいく。
粘土が骨材としての砂鉄を抱き込み、灰の微細成分が隙間を埋める。十分間練り続けると、まるで黒い金属粘土のような、艶やかな硬いペーストが完成した。
アルトは小刀の先端を使い、鍋底のピンホールの周囲の錆をさらに微細に削り落として、すり鉢状の小さな凹みを作った。パテが食い込むための「アンカー効果」を作るためだ。
そして、練り上げた黒い粘土ペーストを、小刀の切っ先でピンホールの内側と外側の両面から、力いっぱい圧入した。
ギチッ、と手応えがあるまで押し込み、指の腹で表面を平滑に均す。
「よし……次は、焼き締めだ」
いきなり強火に当てれば、粘土の中の水分が急激に沸騰してパテが破裂してしまう。
アルトはカマドの火を熾火の状態に落ち着かせ、鍋を炎から三十センチほど離した高い位置に置き、遠火の温風でじっくりと水分を蒸発させていった。
一時間。
ペーストから水分が完全に抜け、灰色に乾き上がったのを確認すると、アルトはカマドに乾燥した小枝を一気に投入し、激しい炎を立ち上げた。
今度は、鍋底の補修箇所を、オレンジ色の炎の最も高温な先端に直接晒す。
ゴオオッ……と炎が鍋底を包む。
粘土に含まれたケイ酸分と砂鉄の鉄分が、熱によってガラス化し、分子レベルで互いに融着・収縮していく。
パテはカチカチの鉱物へと変貌し、鍋の鋳鉄の肌と完全に一体化して黒光りした。天然のセラミック溶接だ。
十分に冷めるのを待ってから、アルトは祈るような気持ちで、鍋に川の水を並々と注いだ。
持ち上げて、裏返した底面を凝視する。
……滲みはない。
一滴の水分も、外側へ漏れ出してこない。
「よし……火にかけるぞ」
カマドの五徳石の上に、水を張った鍋を据え直した。
パチパチと燃え盛る薪の炎。
五分、十分。
やがて――シュウウウウウッ! という快音とともに、鍋の縁から真っ白な湯気が勢いよく噴き上がった。
ボコボコボコボコッ!
澄み切った水が、力強く、大きな気泡を上げて沸騰し始めたのだ。
水漏れは、完全に止まっていた。一滴の蒸発音も、底からは聞こえてこない。
「やった……! やったぞ、シロ! お湯が沸いた!!」
アルトは思わず両手を突き上げて叫んだ。
シロがアルトの足元を「ワンワンッ!」と嬉しそうに駆け回り、二人の歓声が古代の樹洞に響き渡った。
捨てられたガラクタでも、知識と工夫、そして諦めない心があれば、再び命を宿すことができる。
この森で生きていくための、最初の確固たる自信が、少年の胸にしっかりと根を下ろした瞬間だった。
沸き立つ熱湯の向こう、湯気にかすむ森の緑を見つめながら、アルトはぎゅっと拳を握りしめた。
「さあ、道具は揃った。次は……僕たちの命を繋ぐ、最初の食事を探しに行こう!」




