第007話:指先を舐めた、小さな熱
大樹の洞の奥深く、石組みの間にくべた薪が、パチ……と爆ぜて静かな火の粉を散らした。
外の豪雨はいつしか止み、黒い夜空の裂け目から、青白い暁の気配が森の梢を薄く照らし始めている。夜通し吹き荒れた嵐が去り、森全体が深く湿った沈黙に包まれていた。
アルトは息を詰めたまま、膝の上の枯れ葉の山を見つめ続けていた。
昨夜、泥水の中から抱き上げた小さな白い命。自分のシャツを脱いで泥を拭い、肌と肌を密着させて体温を分け与え、人差し指の腹で微小な胸骨を押し続けてから――どれほどの時間が過ぎただろう。
指先はすでに冷えと極度の緊張で感覚を失いかけ、肩は強張り、呼吸するたびに胸の筋肉がきしむように痛んでいた。
――トクン。
錯覚ではなかった。
アルトの人差し指の腹に、確かに伝わった。
小鳥の羽ばたきよりもかすかで、けれど世界中のどんな轟音よりも強く重い、命の鼓動。
トクン……トクン……
規則正しい拍動が、指の皮膚を通してアルトの心臓へと直接響いてくる。
続いて、固く閉じられていた小さな口元から、ふう、と白く細い息が零れた。冷え切っていた呼気が、かすかに温もりを帯びている。
アルトは喉の奥から小さな呻きを漏らし、瞬きさえ忘れてその顔を見つめた。
濡れて束になっていた純白の毛並みが、焚き火の遠赤外線の熱を受けて乾き始め、綿毛のようにふわりと広がりを見せている。泥に汚れていた耳の先が、ピクッと微かに痙攣するように動いた。
そして――
ぎゅっと固く、苦痛に耐えるように結ばれていた細い瞼が、ふるふると震えながら、ゆっくりと押し上げられた。
現れたのは、言葉を失うほど澄み切った【金色の瞳】だった。
薄暗い樹洞の闇の中で、それ自体が微かな光を放っているかのような、深く、透き通った黄金の虹彩。都市のどの宝飾店に並ぶ金塊よりも純粋で、朝露を含んだ花弁のように瑞々しい光。
その双眸が、すぐ目の前で涙と煤にまみれて固まっているアルトの顔を、真っ直ぐに捉えた。
そこには、警戒も、怯えも、敵意もなかった。
死の淵から引き戻され、世界で最初に見た光景を、魂の奥底に焼き付けるかのような――絶対の信頼を湛えた、無垢な輝きだった。
「キュ……ゥ……」
小鳥のさえずりのような、細く透き通った鳴き声が、小さな喉の奥から零れ落ちた。
小さな白い鼻先が、アルトのあかぎれだらけの人差し指へと、頼りなげに擦り寄ってくる。
そして。
ペロリ。
温かく、わずかにヤスリのようにざらりとした小さな舌が、アルトの傷ついた指先を、慈しむようにそっと撫で上げた。
温かい。
泥水の中で鉛のように冷たかった命の中に、確かな熱が、血潮が、命の炎が巡っている。
「っ……あ……う……」
アルトの喉の奥から、押し殺していた声が漏れ出た。
視界が急速に歪み、熱いものが両目からぼろぼろと溢れ出した。
止まらなかった。
オルディスの防壁都市で、魔力測定値ゼロの無能として蔑まれ、家族からも見捨てられ、巨大な境界門の外へ突き飛ばされたときでさえ、アルトは泣かなかった。泣けば、自分を追い出した者たちの前でさらに惨めになる気がして、唇を噛み切るほど強く結んで耐えていたのだ。
昨夜、冷たい雨の中で火打ち石を打ち続け、皮が剥けて血が滲んでも、涙は見せまいと歯を食いしばっていた。
けれど、今。
この手のひらほどの小さな、名もなき命が。
誰からも顧みられず、冷たい泥の中に沈んでいた命が、自分を見つめ、自分の傷だらけの手を温かな舌で舐めてくれた瞬間。
アルトの胸を満たしていた冷たい孤独の氷が、粉々に砕け散った。
「よかった……っ、本当によかった……! 生きてる……生きててくれたんだ……!」
アルトは両手で、壊れ物を包むようにそっとその小さな温もりを抱き寄せ、額をその白い頭に押し当てて泣きじゃくった。
子供のような、しゃくり上げるような嗚咽が洞の中に響いた。
子犬は嫌がる素振りも見せず、アルトの涙で濡れた頬に小さな鼻先をピトッとくっつけ、安心したように喉をごろごろと鳴らした。
都市の大人たちは、アルトを「役立たず」「生きている価値のないゴミ」と呼んだ。魔力のない者は、この世界で誰一人として救うことはできないのだと、骨の髄まで叩き込まれてきた。
だが、違った。
魔法なんてなくても、立派な肩書きなんてなくても。
泥だらけになって手を差し伸べ、諦めずに温め続ければ、命は繋がるのだ。
自分は、この小さな命を救うことができたのだ。
その事実が、凍りついていたアルトの魂を、底からじんわりと救い上げていくようだった。
しばらくの間、アルトは涙が涸れるまで泣き続けた。
やがて、鼻をぐずぐずとすすりながら顔を上げると、ぼろ布の袖で乱暴に目元を拭った。
焚き火の温もりの中で、子犬はすっかり毛並みを乾かし、フワフワとした柔らかな毛玉のようになっていた。
雪のように純白の被毛。首の周りだけが少し長く、まるで銀の首巻きをしているかのように気品がある。ピンと立った小さな三角の耳と、トパーズのように澄んだ黄金の瞳。
「白いね……本当に、雪みたいに真っ白だ」
アルトが呟きながら、人差し指でそっと眉間を撫でてやると、子犬は目を細めて気持ちよさそうに身を委ねてきた。
「……名前、つけなきゃね。僕の名前はアルト。君は……『シロ』だ。シロ、どうかな?」
「ワンッ!」
高く澄んだ、鈴を振るような可愛らしい声が返ってきた。
まるでずっと前からその名前を持っていたかのように、自然に、誇らしげに胸を張ってみせる。
その仕草がおかしくて、アルトは思わず吹き出してしまった。顔の筋肉が緩み、生まれて初めて、心の底からの笑顔がこぼれた。
「よろしくね、シロ。僕たち、今日からここで一緒に暮らすんだ。……世界でたった二人の、秘密基地だ」
シロは嬉しそうにアルトの手首にすり寄ると、ふさふさとした短い尻尾をパタパタと枯れ葉の上で振った。
だが、微笑ましい時間の直後、厳しい現実が二人を現実へと引き戻した。
――キュルルル……
シロの小さなお腹から、情けないような微かな音が響いた。
見れば、子犬の腰のあたりは痛々しいほど細くくびれており、あばら骨の形が浮き出ている。
泥の中にどれほど放置されていたのかは分からないが、深刻な脱水症状と飢餓に陥っているのは明らかだった。舌の色も、先ほどアルトを舐めたときは赤みを帯びていたが、今は少し白っぽく乾いている。
「水だ……! まずは水を飲ませないと」
脱水状態の身体に、急に硬い食べ物を与えるのは危険だ。何よりもまず、清潔で安全な水分が必要だった。
アルトは立ち上がろうとして、自分の足腰がガタガタと震えていることに気づいた。
――グゥゥゥゥッ……!
雷鳴のような重い音が、今度はアルト自身の胃袋から響き渡った。
腹を抱え、アルトは洞の壁に手をついた。
追放される前日、冷たい牢のような部屋で硬い黒パンの切れ端をかじって以来、アルトもまた丸二日以上、水以外は口にしていなかった。胃壁が直接擦れ合っているかのような、焼けつくような飢燥感。手足に力が入らないのは、体温の低下だけでなく、完全なエネルギー切れの証拠だった。
だが、倒れている暇などない。
自分ひとりの命なら投げ出したくなったかもしれないが、今は膝元に、自分を信じて見上げている小さな黄金の瞳があるのだ。
「待っててね、シロ。すぐに綺麗な水を持ってくるから」
アルトは大樹の洞の入り口へと這い出し、外の様子を窺った。
雨は完全に止んでいた。雲間から差し込む朝の陽光が、雨露に濡れた無数の木の葉を宝石のようにきらめかせている。冷たく澄み切った大気が、飢えと疲労で淀んだアルトの肺を満たし、頭をシャキッと覚醒させた。
水を探さなければならない。
だが、地面の泥水をそのまま飲ませるわけにはいかない。昨夜の濁流には泥や腐敗物が混ざっており、抵抗力の落ちた子犬に飲ませれば命取りになる。
アルトは周囲を見回した。
大樹の根元から十数歩ほど離れた斜面に、苔むした巨大な黒い岩肌が見えた。その岩の裂け目から、チョロチョロと途切れることなく、水晶のように透き通った水が滴り落ちているのが見えた。
――岩盤の湧き水だ。
雨水が地層深くで自然に濾過され、圧力を受けて湧き出している天然の清水。あれなら安全だ。
だが、容器がない。
都市を追放されたアルトの手元にあるのは、古びた作業用小刀一本と、身につけているボロボロの作業着、そしてポケットの中の火打石だけだ。水を汲んで運ぶための水筒も、器も、何一つ持っていなかった。
アルトは額に手を当てて考えた。
「器……何か、水を溜められるもの……」
周囲の植生に目を走らせる。
岩肌のすぐ足元に、人の顔の二倍以上もある巨大な扇形の葉を広げた、瑞々しいフキに似た野草の群生が目に入った。葉の表面には微細な毛が密生しており、雨粒を銀色の玉のように弾いている。強い撥水性を持つ天然の防水布だ。
「あれならいける……!」
アルトは斜面を駆け下り、一番大きく肉厚な葉を三枚、小刀の刃先で根元から丁寧に刈り取った。
さらに、水辺に生えていたしなやかな細いスゲの草を数本引き抜く。
大樹の洞へ戻る足取りで、アルトは頭の中で器の構造を組み立てた。
巨大な葉の中央を優しく窪ませ、四方の端を折り上げて舟のような形にする。折り目が戻らないよう、スゲの草を硬く結んで外側から縛り上げた。
手のひらに収まる、小さな「天然の葉の小鉢」の完成だ。
葉の表面の微細な起毛構造が水を完璧に弾き、縫い目もないため水漏れする心配もない。
アルトは再び湧き水の岩肌へと走り、滴り落ちる岩の割れ目に葉の小鉢を差し入れた。
トピトピ……と涼やかな音を立てて、透き通った清水が小鉢に満ちていく。
アルトはまず、自分自身の乾ききった喉を潤すために、両手で直接湧き水を掬って飲んだ。
――冷たい。そして、甘い。
都市の石造りの水道から流れる、澱んだカルキ臭い水とはまるで違っていた。大地のミネラルをたっぷり吸い込んだ冷水が、乾いた喉を滑り落ち、胃袋へと染み渡っていく。それだけで、全身の細胞が歓喜の声を上げるようだった。
「よし……こぼさないように……」
水を満たした葉の小鉢を両手で慎重に支え、アルトは大樹の洞へと戻った。
洞の中では、シロが前足を揃えてちょこんと座り、洞の入り口をじっと見つめて待っていた。アルトの姿を認めた瞬間、嬉しそうにパタパタと尻尾を振る。
「シロ、お水だよ。綺麗な湧き水だ」
アルトはシロの目の前にしゃがみ込み、葉の小鉢をそっと床に置いた。
シロは首を傾げ、小さな黒い鼻先を水面に近づけてクンクンと匂いを嗅いだ。
次の瞬間、金色の瞳を輝かせ、小さな舌をペチャペチャと激しく動かして水を飲み始めた。
ペチャ、ペチャ、ペチャ……
小さな喉仏が、ゴクン、ゴクンと音を立てて波打つ。
みるみるうちに葉の中の水が減っていく。一杯の水をあっという間に飲み干すと、シロは名残惜しそうに葉の底をペロリと舐め、アルトを見上げて「クゥン」と甘えた声を上げた。
「まだ飲めるかい? ちょっと待ってね」
急激に大量の水を飲ませると胃を痛めるため、アルトは少し間を置いてから、もう一杯の水を汲んできて与えた。
二杯目の水を飲み終える頃には、シロの瞳には確かな力強さが戻り、毛並みにも艶が蘇っていた。
水分が行き渡ったことで、身体の循環機能が急速に回復したのだ。
シロは満足したように口の周りを舌でペロリと拭うと、アルトの膝によじ登り、前足でアルトのズボンをカリカリと引っ掻いた。
「よかった……水はこれで大丈夫だね」
シロの頭を撫でながら、アルトは深く息を吐いた。
だが、問題の半分が解決したに過ぎない。
水分を補給したことで、胃腸が活発に動き出し、今度はさらに激しい飢餓感が二人を襲うはずだった。
シロの細い身体を維持するためには、栄養価の高い食べ物が必要だ。
そしてアルト自身も、今日中に何か固形物を胃に入れなければ、明日には薪拾いや水汲みをする体力さえ尽きてしまうだろう。
「食べ物……森の中で、僕たちが食べられるもの……」
アルトは洞の入り口から、外に広がる見果てぬ原生林を見つめた。
春の森は生命に満ち溢れている。木々は若葉を芽吹き、地面には無数の野草が顔を出している。
けれど、森の植物の多くには毒がある。都市の図書室でかじった薄い知識では、どれが安全で、どれが猛毒のトリカブトやテンナンショウなのか、完全に見分けることは難しい。
さらに、たとえ野草や木の実を見つけたとしても、生のまま食べるのは消化に悪く、寄生虫のリスクもある。
加熱調理が不可欠だ。
だが――加熱するための「鍋」がない。
小刀で肉を焼くような獲物はまだ捕まえられない。野草や根菜を煮込んで、消化の良い温かいスープにするための、火にかけられる金属や陶器の容器がどうしても必要だった。
「煮炊きできる道具……それに、安全な食糧……」
アルトの呟きを聞いたかのように、シロが膝の上で立ち上がり、鼻をピクピクと動かして外の風の匂いを嗅ぎ始めた。
黄金の瞳が、朝靄の立ち込める森の川下の方角をじっと見つめている。
まるで、そこに何かがあることを知っているかのように。
「シロ……? あっちに、何かあるの?」
シロは振り返り、アルトの指先をもう一度小さく甘噛みすると、洞の出口に向かって軽やかに駆け出した。
小さな足跡を泥土に残しながら、何度も振り返り、アルトを呼ぶように「ワンッ!」と澄んだ声で鳴く。
「待って、シロ! 一人で行っちゃ危ないよ!」
アルトは腰の小刀を確かめると、大樹の洞の火種に大きな薪を一本足して長持ちさせ、シロの白い影を追って朝の原生林へと駆け出した。
飢えと不安を抱えながらも、その胸には不思議な高揚感が満ちていた。
一人きりの孤独なサバイバルではない。
自分を信じてくれる相棒と共に、生きるための最初の一歩を踏み出す冒険が、今、静かに幕を開けたのだ。




