第006話:泥の中の白い塊
大樹の洞から一歩外へ踏み出した瞬間、猛烈な暴風雨がアルトの全身を叩きつけた。
右手には、焚き火から引き抜いた太いスギの松明。
吹き荒れる烈風に煽られ、炎はヒューヒューと悲鳴を上げながら激しく横倒しになり、パチパチと無数の赤い火の粉を暗闇へと散らしていた。
雨飛沫が松明の先端に当たってジュウジュウと音を立てるたび、アルトは左手の平を風上に掲げ、必死に火種を雨から庇いながら目を凝らした。
大樹の根元は、千年の天蓋から滝のように流れ落ちてくる雨水によって、深い泥濘の濁流と化していた。
足元では茶色い水が激しい渦を巻き、千切れた小枝や腐葉土の塊を押し流していく。
足を踏み出すたびに、冷たい泥水が膝の上まで跳ね上がり、体温を容赦なく奪い去ろうとする。手にしたトネリコの杖がなければ、最初の一歩で激流に足を取られて転倒していただろう。
けれど、少年の耳には、あの消え入りそうな命の悲鳴が、はっきりと刻み込まれていた。
――クゥン……キャン……!
近い。大樹の東側、太い三本の根が複雑に絡み合って深い窪地を作っている、あのあたりだ。
アルトはトネリコの杖を泥深くに突き刺し、岩盤に先端を噛ませながら慎重に斜面を滑り降りた。
松明を前方へと突き出す。
揺らめくオレンジ色の光が、白濁した雨煙を切り裂き、泥水の水面を照らし出した。
「どこだ……どこにいるんだ……!?」
水煙が視界を遮る。
その時、松明の光の端、流木の折れ枝が何本も引っかかって自然の水門のようになっている泥だまりの底で、何かがわずかに蠢いた。
茶色い泥にまみれ、激しい濁流に呑まれかけている、小さな小さな塊。
流木の隙間に身体を挟まれ、自力では身動きが取れなくなっていた。水かさは刻一刻と増しており、あと数分発見が遅れていれば、完全に泥水の下へと水没して窒息していただろう。
「いた……っ!」
アルトは躊躇うことなく、膝上まで泥水に浸かりながら窪地へと飛び込んだ。
冷たい激流が足首をすくい、身体がぐらりと傾く。アルトはトネリコの杖を根の隙間に力任せに打ち込み、必死に踏ん張った。
松明を濡らさないよう、大樹の根の高い窪みへと素早く突き刺す。
そして、自由になった両手を、冷たい泥水の中へと深く差し入れた。
――触れた。
流木のトゲに絡まり、首まで泥に浸かっていたその塊を、指先が捉えた。
アルトは小刀を抜く暇もなく、指先の力だけで絡みついていた小枝をへし折り、泥を掻き分けた。
そっと両手で抱き上げる。
掌の上に乗ったのは、羽のように軽く、けれど氷のように冷え切った、小さな生き物の肉体だった。
掌の上で、その塊はぐったりと力なく垂れ下がっていた。
四肢は硬直しかけ、全身が重い泥土に分厚く覆われている。
ピクリとも動かない。
アルトは泥まみれの小さな顔を自分の胸元へ引き寄せ、耳を澄ました。
雨音の向こうで、途切れ途切れに――トクン……トクン……と、今にも潰えてしまいそうな、針の先ほどのか細い心拍が、微かに、本当に微かに指の腹に響いた。
「生きてる……まだ、生きてる……!」
アルトの全身に、熱い衝撃が駆け抜けた。
死なせてたまるか。
こんな冷たい泥の中で、誰にも気づかれず、一人きりで溺れて死なせてたまるものか。
数時間前、オルディス都市の巨大な黒鉄の門から突き飛ばされ、冷たい泥水に顔を突っ伏して泣いていた自分自身の姿が、この小さな命の重みと完全に重なり合っていた。
あの時、自分には誰も手を差し伸べてくれなかった。大人たちは嘲笑い、唾を吐きかけて通り過ぎていった。
けれど今、この手の中にある命を救えるのは、僕しかいないのだ。
アルトは根の窪みから松明を引き抜いた。
小さな身体を片腕で胸元にしっかりと抱きかかえ、トネリコの杖を支えにして、濁流の斜面を必死によじ登った。
滑りやすい大樹の樹皮を足裏で蹴り、洞の開口部へと転がり込むようにして滑り込む。
――フッ……
再び訪れた、雨の遮られた静寂。
パチパチと燃え盛る焚き火の温かな光が、少年の胸に抱かれた泥まみれの塊を優しく照らし出した。
アルトは松明を焚き火に戻すと、すぐに敷き詰めた枯れ葉の寝床の上へと腰を下ろした。
一刻の猶予もなかった。手のひらの上の小さな生き物は、泥の重みで呼吸すら満足にできていない状態だった。鼻と口の周りにも、粘土質の泥がへばりついている。
アルトは小指の先を使い、まずその小さな口の中と鼻孔の泥を、優しく、傷つけないように慎重に掻き出した。
鼻先が通ると、小さな鼻腔から、ヒュー……と消え入りそうな細い息が漏れ出た。
続いて、洞の隅に集めておいた乾いた枯れ葉と柔らかい草を両手で揉み、その繊維を使って、全身を覆う泥を丁寧に拭き清めていく。
茶色い泥が落ちるたびに、その下から現れた毛並みに、アルトは思わず息を呑んだ。
「……白……?」
泥の下から現れたのは、見たこともないほど白く、滑らかな毛皮だった。
丸い頭、短く垂れた愛らしい耳、ぎゅっと閉じられた細いまぶた、そして薄桜色の小さな肉球。
形は生まれたての子犬のようだった。
けれど、ただの犬ではなかった。
泥を拭い去ったその毛並みは、濡れているにもかかわらず絹糸のように細く密集し、焚き火の光を浴びて、かすかに銀色の金属光沢を帯びて瞬いていた。
そして――何より異様だったのは、その白い背中の中心だった。
後頭部から尾の付け根にかけて、背骨のラインに沿うようにして、まるで筆で一筋引いたかのような、澄み切ったサファイアブルーの蒼い筋が、一本すうっと伸びていたのだ。
「きみ……どこから来たの……?」
アルトが呼びかけても、子犬は目を閉じたまま動かない。
全身の震えすら止まっていた。重度の低体温症によるショック状態。
皮膚に触れると、まるで氷河の底から削り出した氷塊に触れているかのように冷たかった。
焚き火のそばに置くだけでは足りない。外側から熱を当てるだけでは、冷え切った内臓の温度は戻らないのだ。人間であっても、凍傷寸前の者を救うには、他者の体温で芯から包み込むのが唯一の方法だと、都市の古い薬師が言っていたのをアルトは思い出した。
アルトは迷うことなく、火のそばで完全に乾いていた自分の厚手の麻シャツを手に取った。
温もりの残る麻布で、子犬の小さな身体をくるりと優しく包み込む。
そして――自らの素肌の胸元へと、その包みを直接引き寄せた。
ヒヤリッ……!
氷を直接押し当てられたような強烈な冷たさに、アルトの背筋が激しく粟立った。息が止まりそうになるほどの寒気が、胸の皮膚を通してアルト自身の心臓を刺す。
だが、アルトは決して腕を緩めなかった。
両腕で子犬を強く胸に抱きしめ、枯れ葉の毛布をその上から何重にも被せた。
自分の心臓の熱のすべてを、この小さな冷たい魂へと注ぎ込むように。
「死なないで……頼むから、死なないでくれ……!」
アルトは子犬の頭に自らの額を寄せ、祈るように叫び続けた。
「僕と同じなんだろ……? 一人きりで、居場所がなくて、泥の中で凍えてたんだろ……? もう大丈夫だよ。僕がここにいる。僕がずっと一緒にいるから……目を覚ましてくれ……!」
ボロボロと、大粒の涙がアルトの瞳からこぼれ落ちた。
かつて都市で母を病で亡くした日の記憶。冷たくなっていく母の手を握りしめながら、何もできずに泣いていたあの日の無力感。
けれど、いま目の前にいるこの命は、まだ生きている。心臓が動いている。
熱い涙のひと雫が、子犬の濡れた白い額の上へと、ポタリと落ちた。
アルトは片手を布の隙間に入れ、子犬の背中を、一定のリズムで優しく擦り続けた。
焚き火の温もりが、二人を包む。
パチパチと爆ぜる木の音。
外の嵐の遠い轟音。
少年の心臓の鼓動(トクン、トクン、トクン……)が、素肌と麻布を通して、子犬の小さな胸へと直接伝わっていく。
どれだけの時間が過ぎただろうか。
十分か、三十分か、あるいは一時間か。
ふと――
アルトの胸の皮膚に触れていた子犬の体温が、変わった。
氷の冷たさが消えていた。
冷え切っていた皮膚が、じんわりと温もりを取り戻し、少年の体温を吸い込んで、自ら微かな熱を発し始めていたのだ。
――トクン……トクン……
――トクン……トクン……
子犬の小さな胸が、アルトの心拍に呼応するかのように、力強いリズムで拍動を刻み始めた。
それと同時に、子犬の背中を貫くあの蒼い筋が、アルトの脈動に合わせて、かすかに、本当に目に見えないほど淡いエメラルドグリーンの燐光を、トクン……と一度だけ明滅させた。
そして。
――フシュゥゥ……
小さな、小さな鼻の穴から、温かい吐息が漏れ出た。
アルトの胸の素肌を、確かに温かい息が撫でていった。
「あ……!」
アルトが息を呑んだ、その瞬間だった。
子犬の短いまぶたが、ピクピクと小さく震えた。
長い濡れたまつ毛が震え、ゆっくりと、本当にゆっくりと――その瞳が開かれたのだ。
――息を呑むような、輝きだった。
そこに現れたのは、ただの泥まみれの犬の瞳ではなかった。
まるで、深い夜空に瞬く星の光をそのまま閉じ込めたかのような、透き通るような純金の色。
黄金の虹彩。
その瞳の奥には、濁りも、怯えもなく、澄み切った神聖な知性と気品が宿っていた。
金色の瞳が、アルトの涙に濡れた顔を、まっすぐに、じっと見つめていた。
「……よかった……」
アルトの口から、掠れた声がこぼれ落ちた。
「本当によかった……生きてくれたんだね……!」
子犬は、アルトの顔を見つめたまま、小さく「クゥ……」と甘えるように喉を鳴らした。
そして――冷たかった自分の小さな黒い鼻先を、アルトの濡れた頬へと、ペタリとそっと押し当ててきたのだ。
ざらついた小さな温かい舌が、少年の頬を流れる涙の跡を、ペロリと一筋、優しく舐め取った。
その瞬間、アルトの胸の奥で、何かが決定的にほどけた。
門の外へ突き飛ばされてからずっと、少年の心を縛り続けていた孤独と恐怖の呪縛が、温かい光となって溶けて消え去っていった。
世界に拒絶された二つの命。
泥の中で出会った、少年と白い獣。
二人のあいだに、言葉を超えた、何物にも引き裂くことのできない絶対の絆が、いま確かに結ばれたのだ。
洞の外では、いつしか激しい豪雨の音が遠ざかり、夜明けを告げる静寂が原生林を包み始めていた。
焚き火の柔らかな橙色の光の中で、少年は白い命をしっかりと抱きしめ、初めて心からの穏やかな笑みを浮かべていた。




