第010話:小石の炉と、煙の抜ける隙間
黄金のスープで飢えを癒やした翌朝、アルトとシロを襲ったのは、激しい「煙の洗礼」だった。
「ゴホッ……! ゲホッ、ゲホッ……!」
大樹の洞の中に白い煙がもうもうと立ち込め、アルトは涙をボロボロと流しながら咳き込んだ。
朝の冷え込みを和らげようとカマドに小枝をくべたのだが、昨夜の湿気を吸った薪が不完全燃焼を起こし、大量の刺激臭を放つ白煙を噴き出したのだ。
煙は洞の天井にぶつかり、逃げ場を失って渦を巻き、洞の内部全体を真っ白な霧のように包み込んでいた。
目を開けていられないほどの激痛が走り、喉の粘膜が焼けるように痛む。
足元では、シロが前足で両目を激しくこすりながら、「クシュン! クシュン!」と小さなくしゃみを何度も連発していた。金色の瞳をしょぼしょぼと瞬かせ、助けを求めるようにアルトの足首にしがみついてくる。
「シロ、外へ出よう……! 早く!」
アルトはシロを抱き上げ、転がるようにして洞の外へと飛び出した。
朝の清冽な空気を吸い込み、肩で息をしながら、アルトは煤で真っ黒になった顔を乱暴に拭った。
洞の中を覗き込むと、今もなお入り口からモクモクと濃い煙が吐き出されている。
(……これじゃダメだ。このままじゃ、野獣に襲われる前に煙で窒息してしまう)
都市の外壁係だった頃、詰め所の暖炉を管理していた古参の職人が言っていた言葉が、頭の奥で蘇った。
『火を制する者は、空気を制する者だ。煙が逆流するのは、火が息をしていないからだ。熱い空気は上へ昇りたがる。その通り道を一寸でも塞げば、炎は怒って煙を吐き散らすんだよ』
自然の気流の力学――ドラフト効果。
現在の洞の焚き火は、ただ地面に平らな石を並べただけの無秩序なもだった。
そのため、外から吹き込む冷たい風が洞の奥へと空気を押し込み、行き場を失った煙が洞の奥で旋回して充満してしまっていたのだ。
煙を完全に外へと排出するためには、外気の流れを利用して煙を煙突効果で吸い上げる、専用の「炉」を一から設計し直さなければならない。
「よし、シロ。カマドを大改造するぞ。もう君に煙を吸わせたりしないからね」
シロが「ワンッ!」と澄んだ声で応え、短く切った尾を勢いよく振った。
アルトはまず、素材となる石材の調達から着手した。
適当な川原の石を拾ってくればいいというわけではない。水気をたっぷり含んだ川底の丸石や、結晶の粗い花崗岩は、急激な高熱に晒されると内部の水蒸気が爆発し、破片が弾け飛ぶ危険がある。
選ぶべきは、川岸の乾いた高台に堆積した、熱に強い「泥岩」や「安山岩」の平らな割れ石だった。
アルトは小川の段丘へと向かい、厚さ三センチから五センチほど、手のひら二つ分ほどの大きさの平らな石を選別していった。
「よいしょ……っ、重いな……!」
平らな石を両手に抱え、大樹の根元まで運ぶ。
五往復、十往復。
まだ十分な筋力がついていない少年の身体にとって、数十個の石を運ぶ作業は過酷を極めた。太ももがパンパンに張り、腰がきしむ。
だが、そんなアルトの横を、シロが小さな口で鶏卵ほどの小石をくわえ、一生懸命に短い足を動かして運んできた。
アルトの足元にコロンと小石を置くと、誇らしげに胸を張り、「キュウ!」と鳴く。
「あはは……! ありがとう、シロ。助かるよ」
シロの健気な姿に、疲労など吹き飛んでしまった。
一人ではなく、二人で作っているのだ。その実感が、少年の身体に無限の活力を与えてくれた。
石が集まると、次は土台の造成だ。
カマドを設置する場所は、洞の入り口のすぐ脇、外の風がかすかに横切る「風下側の縁」を選んだ。ここなら、外の風が洞の開口部を通り抜ける際の吸引圧によって、自然と煙が外へと引きずり出される。
アルトは地面の落ち葉と腐葉土を小刀と木のヘラで円形に掘り下げ、深さ十センチほどの基礎穴を掘った。
底には、川底からすくい集めてきたきめ細かな砂利を敷き詰め、木の棒でドンドンと突き固める。地中の湿気が直接カマドの底に上がってくるのを防ぐための「防湿層」だ。
そして、石積みの工程に入った。
目地材として使ったのは以前に鉄鍋の補修に使ったのと同じ配合の泥ペーストだ。
川岸のカオリン粘土に、川砂と木炭の灰を混ぜ、湧き水で練り上げた耐火泥。
アルトは基礎の砂利の上に耐火泥を分厚く塗り広げ、運んできた平らな泥岩を、円弧を描くようにして垂直に立て並べていった。
石と石の噛み合わせには、都市の外壁補修で培った職人的な直感が冴え渡った。
天然の石にはひとつとして同じ形はない。凸凹をじっと見つめ、重心を測り、パズルのピースを嵌め込むように隙間なく組んでいく。隙間には耐火泥を指の腹で力いっぱい押し込み、空気が漏れないよう平滑に撫で均した。
構造は、三つの決定的な工夫を凝らした。
第一に、正面下部に設けた「吸気スリット」。
薪をくべる開口部の真下に、親指二本分の細い隙間をあえて空けた。ここから冷たい新鮮な外気が床を這って勢いよく吸い込まれ、薪の根元に酸素を供給する。
第二に、内部の「すり鉢状の燃焼室」。
内壁を垂直ではなく、奥に向かってわずかに窄まるすり鉢状に傾斜させた。熱が一点に集中し、燃焼温度が一気に跳ね上がる仕組みだ。
そして第三にして最大の工夫が、カマド背面の「傾斜排気煙道」だった。
大樹の幹に直接熱が伝わらないよう、背面に平らな石を二重に立てて空気層を作り、その隙間を煙の抜け道としたのだ。煙道の上部には、剥がした厚いスギの樹皮を円筒形に丸めて泥で固めた、高さ五十センチほどの「即席の煙突」を立ち上げた。
「よし……これで、形は完成だ」
半日かけて組み上げたカマドは、無骨でありながら、古代の祭壇のような力強い美しさを放っていた。
アルトはカマドの上部に、鉄鍋がすっぽりと安定して乗るよう、三つの頑丈な「五徳石」を突き出させて固定した。
泥が半乾きになるのを待ってから、燃焼室の奥に細い枯れ枝と枯れ葉を入れ、火種を移した。
フゥッ……と息を吹き込む。
小さな火種が、枯れ葉を赤く焦がした。
その瞬間だった。
――ボッ……! ゴオオオオオオッ……!!
耳を疑うような、低く力強い吸気音がカマドの奥から響き渡った。
下部の吸気スリットから猛烈な勢いで空気が吸い込まれ、枯れ葉の炎が一瞬にしてオレンジ色の激しい奔流となって渦を巻いたのだ。
火はみるみるうちに太い薪へと燃え移り、完全燃焼に近い凄まじい熱気を放ち始めた。
そして――煙は。
「すごい……! 見て、シロ!」
アルトは歓声を上げた。
洞の中には、一筋の煙も漏れ出していなかった。
発生した煙はすべて、すり鉢状の壁に導かれて背面の煙道へと吸い込まれ、樹皮の煙突から、一本の真っ直ぐな青白い狼煙となって、洞の外の風の中へと綺麗に吸い出されていたのだ。
洞の中の空気は、澄み切ったままだった。
煙の臭いも、目を刺す刺激も一切ない。
ただ、石組みのカマドから放射される、柔らかく芯まで温まる赤外線の熱気だけが、洞の空間を春の陽だまりのように満たしていた。
「ワンッ! ワンッ!」
シロが嬉しそうに飛び跳ね、カマドのすぐ前の温かい地面にゴロンと寝転がった。
カマドの泥岩が熱を蓄え、まるで天然の岩盤浴のように地面ごと温まっているのだ。
シロは前足を投げ出し、目を細めて気持ちよさそうに喉をゴロゴロと鳴らしている。
これなら、夜の冷え込みも怖くない。火が落ちた後も、蓄熱された石が数時間は熱を放ち続けてくれるはずだった。
「ふふ、あったかいね、シロ」
アルトはシロの柔らかいお腹を撫でながら、ふと視線を上げた。
煙突から抜けた煙が、大樹の高く広がる枝の間を縫って、遥かな青空へと吸い込まれていく。
その先にあるもの。
地上四メートル、五メートルの高さに水平に広がる、巨大な太枝の群れ。
カマドの改良によって、洞の中の生活環境は劇的に改善された。
だが――昨日夕暮れに目撃した、あの巨大な野獣の赤い眼光が、アルトの脳裏から離れなかった。
どんなに快適なカマドを作っても、ここは地面の上なのだ。
頑丈な扉があるわけでもない樹洞は、大型の肉食獣が本気で踏み込んできたら、一瞬で逃げ場のない袋小路になる。
シロと二人、本当に安心して眠るためには、地表から完全に隔離された空間が必要だった。
「……あそこだ」
アルトは大樹の地上四メートルの大枝を指差した。
「あの枝の上に、僕たちの家を作るんだ。地上の獣の手が絶対に届かない、空の上の秘密基地を」
見上げる樹皮は、垂直にそそり立つ巨石の城壁のように険しい。
梯子も、命綱もない少年が、どうやってあの高さまで登り、どうやって資材を運び上げるのか。
常識で考えれば無謀極まりない挑戦だった。
けれど、アルトの瞳には、一切の迷いはなかった。
火を起こし、鍋を直し、煙を制した。
一つずつ、自然の理を解き明かしながら道具を作ってきた少年の心には、未知の挑戦に対する熱い冒険心が、確かに燃え上がっていた。
「シロ、まずは木に登るためのロープを作ろう。森のツルを編んで、世界で一番強い縄を作るんだ!」
シロが「キュウッ!」と高く澄んだ声で鳴き、アルトの決意に寄り添うように立ち上がった。
地表から空へ。
少年の開拓は、次なる高みへと翼を広げようとしていた。




