第082話:落とされた金貨、踏み砕く足
都市が炎上した翌朝、境界の森の外郭には死の灰と酸性の白い霧が重く立ち込めていた。
大樹の根元の芝生。
不可視の空間歪曲ドームの境界線に、黒いヘドロを引きずるような不気味な物音が近づいてきた。
――ズリッ……ズリズリ……ッ。
それは、オルディス防壁都市の炎上から辛うじて逃げ延びてきた、数人の人間の影だった。
アルトは昇降機で地上へと降り、境界線の手前数歩の場所で足を止めた。
傍らには、銀白色の毛並みを朝露に濡らしたシロが、静かに腰を下ろして境界の外を見据えている。
霧の向こうから這い出してきたのは、五人の男女だった。
金糸の刺繍が施されていたはずの豪奢なベルベットの外套は酸の雨でボロボロに焼け爛れ、泥と煤で黒く汚れていた。
衣服の隙間から覗く皮膚は酸性の毒気によって赤黒くただれ、化膿した水ぶくれが潰れて黄色い膿が滲んでいる。
唇は極度の脱水症状で白くひび割れて血が固まり、呼吸をするたびにゼーゼーと掠れた喉鳴りが漏れていた。
彼らは全員、腕の腱が切れそうなほど重い革のトランクや麻袋を必死に抱え、泥に膝を擦りむきながら這い進んでいた。
「ひ、水だ……! おい、見ろ、水が湧いているぞ……!」
先頭を這っていた太った男が、狂ったような声を上げた。
男の濁った瞳が、透明な境界壁の向こう側――アルトの足元を滾々と流れる自噴泉の清流と、青々と茂る芝生、そして地上十数メートルの大樹にそびえる壮麗な木造の空中城塞を捉えていた。
外の世界が死の灰の荒野と化している中で、そこだけが神話の絵画のように美しい色彩と生命の温もりに満ち溢れていたのだ。
「おい、そこのガキ! 早くその水を寄越せ!」
男は四つん這いのまま、血走った目でアルトを怒鳴りつけた。
「私は都市商業連合の最高評議員、ゴルドーだぞ! そっちの門を開けて我々を入れろ! パンだ、温かいパンもすぐに持ってこい!」
極限の飢餓と渇きの中にありながら、男の口から出たのは、染み付いた傲慢な命令だった。
だが、アルトは眉一つ動かさず、冷ややかな瞳で男を見下ろしていた。
新調した鹿革の作業服に身を包み、腰に道具差しとノミを佩いたアルトの姿。
その精悍に引き締まった顔立ち、氷のように研ぎ澄まされた双眸を凝視した瞬間、男の後ろにいた痩せた老人が、息を呑んで後退った。
「お、お前は……まさか、三年前の……アルト……!?」
老人の掠れた声が、恐怖に震えていた。
都市の中央戸籍局で、アルトの追放宣告書に冷酷に印判を押した高級役人、バルカスだった。
「馬鹿な……! 魔力を持たぬ無能の捨て子が、なぜこんな魔境の奥地で生きている……!? いや、この大樹の城は一体何だ……!?」
アルトの脳裏に、三年前のあの日、この老人が吐き捨てた冷酷な言葉が蘇った。
――『お前のような魔力なしの落ちこぼれは、都市の穀潰しだ。森の獣の糞にでもなるのがお似合いだな』
あの時、役人たちは冷笑し、アルトの母の形見の指輪を奪い、寒風の森へと放り出したのだ。
だが今、その傲慢だった役人は、泥にまみれ、自らの排泄物を漏らしながら、かつて見下した少年の足元に這いつくばっていた。
彼らの脳裏に、かつて見下し、寒風の森へと放り出した少年の記憶が蘇った。
だが、目の前に立つ青年は、もはや震えて許しを乞うていたあの無力な子供ではなかった。
森の生き物たちを従え、星の脈動とともに呼吸する、圧倒的な「この領域の絶対君主」だった。
「アルト……! アルト殿……!」
商人のゴルドーは、自らの立場が完全に逆転していることを本能で悟った。
男は泥に額を擦り付け、抱えていた重い革トランクの留め金を震える指先で外した。
トランクが開き、中から溢れ出たのは――朝の光を浴びて鈍い山吹色の輝きを放つ、大量の「純金貨」だった。
帝国中央銀行の「獅子と王冠」が刻印された、純度九十九・九パーセントの最高位特級金貨。
何千枚、何万枚という、都市の特権階級だけが握ることを許された莫大な富。
かつてなら、一国の城や領地を買い取ることすらできた幻影の象徴。
かつて都市にいた頃、アルトの生家はこの金貨わずか数十枚の借金のために差し押さえられ、家族は路頭に迷わされたのだ。人生を狂わせたその金属が、今、少年の足元に泥まみれで散乱していた。
「頼む、アルト殿……! この金を全部やる! 私の全財産だ!」
ゴルドーは泥まみれの金貨を両手ですくい上げ、透明な境界壁の前に差し出した。
「水だ、水を一杯だけくれ! パンを一口、恵んでくれ! その温かいドームの中に、私を入れてくれ! 金ならいくらでもある! お前を大富豪にしてやる! 一生遊んで暮らせるだけの富をやるぞ……!」
役人のバルカスも、他の者たちも、泥の上にひれ伏し、涙と鼻水を流しながら金貨を差し出して懇願した。
だが――
アルトの心は、水面一つ波立たなかった。
「……金貨、か」
アルトは静かに口を開いた。
その低く落ち着いた声は、境界の壁を越えて、這いつくばる者たちの耳朶を冷たく打った。
「その黄色い金属の円盤を噛んで、腹が膨れるのか?
その冷たい金属の粒を喉に流し込んで、渇きが癒せるのか?」
「な、何を言っているんだ……! これは金だぞ!? 世界で最も価値のある純金だぞ……!?」
ゴルドーが血走った目で叫ぶ。
「価値があるのは、お前たちの街の狭い壁の中だけだ」
アルトは冷徹に言い放った。
「街が燃え、人が死に、パンを焼く小麦も水を汲む井戸も消え去った今、その金属に何の力がある? それはただの、重くて硬い石ころだ」
ゴルドーの手から滑り落ちた一枚の特級金貨が、泥の斜面を転がり、空間歪曲力場の境界の隙間をすり抜けて、ドームの内側の青い芝生の上へとカラン……と落ちてきた。
都市の紋章が刻まれた、燦然と輝く純金。
アルトはゆっくりと一歩前に進み出た。
そして――
――グシャァッ……!!
新調した特製ブーツの、青銅鋲が打ち込まれた分厚い踵で、その金貨を真上から力強く踏み躙った。
全体重をかけ、踵をギリギリと捻り込む。
金貨は柔らかい純金の表面を無残に歪ませ、青銅鋲の溝にめり込みながら、大樹の根元の深い黒土の中へと、泥の底へと完全に埋没していった。
「ひっ……! 金貨を……特級金貨を……!」
ゴルドーが絶望の悲鳴を上げる。
「僕が作ったこの城は、拾った小枝を削り、土を耕し、命を育てる者たちのための場所だ」
アルトは冷ややかに男たちを見据えた。
「自ら何も作れず、他人の命を吸い上げ、紙切れや金属の数字だけで威張り散らしてきたお前たちを入れる場所など、ここには一寸の隙間もない」
「帰れ」
アルトのその一言は、死刑宣告よりも重く荒野に響いた。
「グォォォォォォ……ッ!!」
シロがゆっくりと立ち上がり、低く地鳴りのような威嚇の咆哮を放った。
その金色の瞳が真紅の光を帯び、背中の毛並みが逆立つ。
大樹の北側の板壁の向こうから、三十頭の銀狼たちが一斉に姿を現し、鋭い牙を剥き出して男たちを睨みつけた。さらには、体長二メートルの巨熊がドスンドスンと地響きを立てて歩み寄り、立ち上がって咆哮を上げた。
「ヒィィィィィッ……!!」
「た、助けてくれぇぇぇぇ……ッ!」
ゴルドーも、バルカスも、失禁しながら悲鳴を上げ、泥だらけの金貨の山を打ち捨てて、這うようにして後方の荒野へと逃げ出していった。
逃げ去る途中で、男たちは互いに残った金貨の袋を奪い合い、酸性の泥の中で殴り合いながら、死の灰が降り注ぐ荒野の霧の向こうへと消えていった。
彼らが縋り付いてきた富も、権力も、この絶対の聖域の前では、一握りの塵芥にすら値しなかった。
静寂が戻った。
アルトは足元を見下ろした。
黒土の中に完全に埋まった金貨の跡。青銅鋲の刻印だけが、冷たい土の表面に残っていた。
かつて自分を縛り、蔑み、傷つけた古い世界の価値観は、今、少年の足の下で完全に消滅したのだ。
手触りのある労働。
自らの手で生み出す命の糧。
そして、魂で結ばれた相棒との絆。
それこそが、この星で唯一にして絶対の「真の富」なのだ。
アルトは踵を返し、昇降機の木製ケージへと乗り込んだ。
シロとともにロープを引き、地上十数メートルの空中デッキへと上がっていく。
温室のテラスから見下ろせば、遠くのオルディス都市の廃墟からは、依然として黒煙が細く立ち上っていた。
だが、その破滅も、逃げ去った男たちの亡霊も、もはやアルトの心を揺らすことは微塵もなかった。
「シロ、温室のトマトの手入れをしよう。芽かきをして、水をやらなきゃな」
アルトが振り返って微笑むと、シロは短くフンと鼻を鳴らし、主人の手元に嬉しそうに鼻先を擦り寄せた。
少年は、過去の幻影を完全に脱ぎ捨て、誰にも侵されない聖域の頂きへと、静かに、そして堂々と歩みを進めていった。




