第081話:赤く染まる空、街の最終警報
夜空が、血を流していた。
深夜、オルディス防壁都市の上空を切り裂いた紅蓮の光柱は、大気の上層で炸裂し、やがて巨大な毒々しい傘のように広がって天蓋全体を赤黒い不吉な炎の色で塗り潰していった。
雲は赤熱した溶岩のように重苦しく蠢き、その裂け目から無数の紫電が音もなく迸る。
地平線の彼方から、大気を震わせて届くのは、耳をつんざくような最終大警報のサイレンだった。
――ウゥゥゥゥ……ン! ウゥゥゥゥ……ッ!
低音と高音が不協和音を奏でながら波状に押し寄せるその金属的な咆哮は、都市の防衛機構が、魔力炉の臨界暴走を制御不能と判断した時にのみ鳴り響く、文明の死亡宣告だった。
風に乗って運ばれてくる空気は、焦げたオゾンの刺激臭と、高熱で蒸発した金属粉末の微粒子を含み、舌の上にピリピリとした鉄錆の苦味を残していた。
「……始まったな」
アルトは上層デッキの端に据え付けた、自作の大型ニュートン式反射望遠鏡の前に立った。
厚さ五センチの耐熱石英ガラスを自らの手で凹面に研磨し、裏面に純銀を薄膜メッキして仕上げた直径三十センチの主鏡。
アルトは青銅製の微動ハンドルに指をかけ、ウォームギアを滑らかに回して対物鏡の焦点を遥か西の地平線――オルディス防壁都市の中央区へと精密に合わせた。接眼レンズを覗き込むと、ピント調整リングの真鍮の冷たさが指先に伝わってきた。
接眼レンズの丸い視野の奥に浮かび上がったのは、狂気と地獄の極彩色だった。
都市の中央にそびえ立つ、かつて文明の繁栄の象徴であった「魔導大聖塔」。
全高百メートルを超えるその白亜の巨塔の頂部が、内側からの超高圧によって粉々に破裂していた。
都市の魔導学者たちが地脈から無理やり吸い上げ続けた「星の原液(原始エーテル)」は、粗悪な青銅導管の許容量を遥かに超えて臨界連鎖反応を引き起こしていたのだ。
塔の周囲を展開していた青白い魔導障壁が、バリバリと強烈な火花を散らしてショートし、ガラスの破片のように夜空へと霧散していく。
そして、障壁を失った炉心から、溶岩のように粘り気のある赤黒いエーテル・プラズマがドロドロと噴き出し、白亜の外壁を飴細工のように溶かしながら街区へと流れ落ちていた。
プラズマが接触した石造りの大聖堂、豪奢な貴族の屋敷、そして下町の木造長屋が、爆発的な蒸気爆発を起こして一瞬で吹き飛ぶ。火災の猛煙が竜巻となって巻き上がり、紅蓮の夜空を黒い煤で覆い尽くしていた。
望遠鏡の倍率を上げると、逃げ惑う人間たちの表情までもが、残酷なまでの解像度で瞳に飛び込んできた。
かつてアルトの生家を取り壊し、家財を差し押さえて私服を肥やした太った悪徳商人。彼は召使いたちに命じて金貨を詰めた重い鉄の金庫を運ばせようとしていたが、従者たちに裏切られて頭を殴り倒され、火の粉の中に置き去りにされていた。
中央研究所の壇上でアルトを「魔力を持たぬ落ちこぼれ」と糾弾した老魔導学者たち。彼らは絹の法衣を泥で汚しながら、制御不能となった計器の周りを狂ったように右往左往し、噴き出した高熱のエーテル蒸気に呑まれて崩れ落ちていく。
さらに視界を下へと向けると、そこには人間の剥き出しの醜悪さと絶望が渦巻いていた。
都市の正門――難攻不落を誇った三重の鉄張りの巨門は、逃げ惑う数万の群衆の圧力で内側から押し破られ、蝶番をへし折られて倒壊していた。
金銀財宝や豪奢な美術品を山積みにした貴族たちの大型馬車が、我先にと門を抜けようとして狭い通路で激突し、車輪を折って横転している。
馬車からこぼれ落ちた無数の金貨、銀の食器、輝く宝石の山。
だが、逃げ惑う市民たちは誰一人としてその金に目もくれず、ただ転覆した馬車を足がかりにして貴族たちを踏み躙りながら、門の外へと雪崩れ込んでいた。
法も、秩序も、身分も、すべてが崩壊していた。
かつてアルトを「無能」と蔑み、石畳の上に引きずり出した都市警備兵たちは、任務を完全に放棄して略奪に走り、商店の金庫を叩き割っていた。路地ではわずかな水樽や食料袋を奪い合い、市民同士が狂ったように刃物を突き立て合っていた。
「富も、身分も、魔力炉の技術も……何ひとつ、自分たちを救えなかったんだ」
アルトは静かに呟いた。
その声には、怒りも、復讐の快感も含まれていなかった。
あるのはただ、自然の法則を無視して暴走を続け、自滅へと突き進んだ文明に対する、工匠としての冷徹な観察眼だけだった。
彼らは星の声を聴こうとしなかった。
大地から一方的にエネルギーを搾取し、自らの贅沢と虚栄のために使い潰し、限界を告げる大地の悲鳴を「魔力炉の出力向上」と偽って誤魔化し続けた。
その歪んだ欲望のツケが、今、紅蓮の炎となってすべてを焼き尽くしているのだ。
その時だった。
――ビシィィィィッ……!!
大気中を、目に見えない強烈な衝撃波が駆け抜けた。
臨界を迎えた魔力炉から放出された、超高出力の「エーテル電磁パルス(EMP)」だった。
パルスが通過した瞬間、空気中の分子が一斉にイオン化し、青白いコロナ放電が紫電となって大気を引き裂いた。アルトの髪の毛が、強烈な静電気を帯びてフワリと逆立つ。
望遠鏡の視野の隅、都市の外郭に点在していた魔導照明塔が一斉に火花を散らして爆発し、黒煙を吹き上げて沈黙した。都市の通信網も、自動防衛砲も、すべてが一瞬で焼き切れたのだ。
パルスは音速を超えて境界の森へと到達し、大樹の樹冠を襲った。
だが――
――フォォォォォン……
不可視の空間歪曲ドームにパルスが接触した瞬間、力場の境界面がサファイアブルーの光を帯びて微かに波打ち、破壊的な電磁エネルギーを滑らかに分散させた。
大樹の樹皮を走る青い導管が、天然の生体光ファイバー(光導波路)として機能し、破壊的な衝撃波を無害な光信号へと変換して葉先から静かに大気中へと放散していく。
それだけではない。
地上動力室に据え付けられた青銅歯車と水銀ライデン瓶コンデンサが、大気を伝わってきた過剰なエネルギーを瞬時に捕獲したのだ。
大樹の巨大な主根が、星の深層へと伸びる巨大な「生体アース(接地極)」として機能し、過電圧を瞬時に地中深くの岩盤へと逃がしていく。
――シュルルルル……バチバチッ!
コンデンサの中の水銀が青白く発光しながら激しく渦を巻き、余剰電荷を整流して蓄電素子へと一気にチャージしていった。
青銅歯車に取り付けられた銅板ディスクが、磁気誘導による渦電流ブレーキを作動させ、回転数を一定の安全領域に抑え込む。
衝撃波のエネルギーすらも、自らの城の動力へと変換して吸収する完全無欠の防御システム。
都市の全機械を焼き尽くした破滅のパルスは、この大樹の砦においては、蓄電メーターの針を心地よく跳ね上げただけに過ぎなかった。
「クゥン……」
シロが足元に歩み寄り、アルトの太ももに温かい身体を寄せた。
その金色の双眸は、遠くの紅蓮の夜空を見つめながらも、何一つ動じていなかった。額の奥に微かに浮かび上がった青い幾何学紋様が、大樹のパルスと穏やかに同期している。
アルトはシロの逞しい首筋に手を乗せ、その毛並みを優しく撫でた。
「大丈夫だよ、シロ。ここには、あいつらの火も、毒も、何一つ届かない」
アルトが囁くと、シロは短く喉を鳴らし、アルトの手のひらを温かい舌で一度だけ舐めた。
望遠鏡の視界を再び都市の街道へと戻すと、炎上する門から吐き出された人々の群れが、蜘蛛の子を散らすように四方八方の荒野へと逃げ延びていくのが見えた。
その一部――数十人の影が、死の灰が降り注ぐ荒れ果てた街道を辿り、境界の森の方角へと必死に足を向けていた。
重い革袋を抱え、泥に足を取られながらよろめき進む者たち。
彼らは森の外郭がすでに死に絶えていることも知らず、かつて自分たちが「呪われた魔境」と呼んで忌み嫌い、アルトを追放したその森に、最後の生き残りの望みを託して這い寄ってこようとしているのだ。
アルトは望遠鏡の鏡筒を静かに伏せ、接眼レンズに真鍮の保護キャップを嵌めた。
夜風が、アルトの新調した革の作業服の裾を静かに揺らす。
アルトは居住棟の扉へと歩みを進め、背後のシロに静かに言った。
「シロ、明日……彼らが森の境界まで辿り着くかもしれない。でも、僕たちのやることは何も変わらないよ。この聖域を守り、自分たちの暮らしを全うするだけだ。誰にもこの楽園を侵させはしない」
シロは低く一度だけ喉を鳴らし、主人の意志に寄り添うように力強く頷いた。
かつて自分を追放した街の最後の日。
少年は、燃え盛る地平線に背を向け、暖炉の待つ我が家へと足を踏み入れた。
過去の文明への憐憫も感傷も、少年の胸には欠片も残っていなかった。
裁きの時は、もう始まっていた。




