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第080話:二人だけの夜想曲

夜の帳が降りると、ドームの外の世界は猛烈な暴風雨に見舞われていた。


 紫褐色の重苦しい毒雲が低空を這い回るように覆い尽くし、酸の雨を含んだ突風が荒野の岩肌を激しく打ち据えている。

 遠くの空では紫電が走り、耳をつんざく雷鳴が轟くたびに、滅びゆく森の外郭の黒く炭化した枯れ木が、亡霊の骨のように一瞬だけ白く浮かび上がっていた。風に乗って運ばれてくるのは、焼け焦げた木炭と腐敗した泥、そしてオルディス防壁都市の魔力炉が垂れ流す強烈な硫黄の悪臭だった。

 だが――

 不可視の空間歪曲ドームに守られたこの聖域の中には、風の一筋、雨の一滴、悪臭の一片すら侵入することはできなかった。

 外の世界の地獄の咆哮は、大気の屈折率を変えた力場の境界で完全に反射され、ここには深い湖の底のような、神聖な静寂だけが横たわっていた。


 その静寂を優しく包み込むように、上層デッキの天井から、微かで美しい「音」が流れ始めた。


 ――フォォォォ……ホロホロホロ……

 ――ピィィ……ファァァ……ン……


 それは、夜風が楽器を奏でているような、澄み切ったパイプオルガンの和音だった。

 人が息を吹き込んで演奏しているのではない。

 アルトが上層デッキと空中温室の換気塔に組み込んだ、「気流共鳴パイプ」が自律的に奏でている自然の調べだった。


 アルトはこの共鳴装置を作るため、数週間の試行錯誤を重ねていた。

 厳選した太い孟宗竹の丸太をじっくりと油抜きし、内側の節を赤熱した鉄棒で焼き抜いてから、ヤスリで内壁を鏡面のように滑らかに研磨した。長さと太さをミリ単位で変えた七本の竹製気鳴管。

 その管の吹き口には、炉の火で赤熱させてから急冷・焼き戻しを施し、厚さわずかコンマ二ミリまで金鎚で叩き延ばした青銅のリード板を仕込んである。リードの先端には微小な蜜蝋の玉を乗せて質量をコンマ一グラム単位で調整し、不協和音の原因となる「うなり」を完全に消し去った。

 温室の地熱パイプと自噴泉の温水によって温められた空気が、自然対流によって床下から吸い上げられ、上空の排気スリットへと抜けていく際の上昇気流が、この青銅リードを微細に振動させるのだ。

 大樹の青い樹液が脈打つ基本周波数――星の鼓動に完全に同期した完全五度と完全八度の純正律。

 不協和音を決して生まないその多層的な倍音は、空間を満たすだけで耳の奥から脳の芯を震わせ、日中の緊張と疲労をすうっと溶かし去るような深い鎮静効果をもたらしていた。


 大樹の根元を巡る水路からは、水車唐臼の規則正しいコットン……という遠いリズムと、自噴泉の岩肌を滴る水琴窟(すいきんくつ)のような澄んだ水滴の音が重なり合う。

 基地全体が、ひとつの壮大な有機的楽器となって、少年と相棒のためだけに夜想曲(ノクターン)を紡ぎ出していた。


「いい音だな……」

 居住棟の暖炉の前。

 アルトは手作りのロッキングチェアに深く腰掛け、手元に置いた陶器のカップから立ち上る湯気を吸い込んだ。

 手斧(ちょうな)で波状のハツリ目を残して削り上げたヒノキの床板は、裸足で触れると足裏に吸い付くような柔らかな凹凸が心地よい。カシの丸太から切り出した重厚なローテーブルの角は、シロがいつも頭を乗せて甘えるせいで、木肌が滑らかな琥珀色にすり減り、自然のオイルフィニッシュのように艶を放っていた。


 カップの中には、空中温室の花壇で収穫し、陰干ししておいた野生のカモミールとアップルミントを、大樹の自噴泉の超純水でじっくりと煮出したハーブティーが満たされていた。

 石英ガラスの急須から注がれたお茶は、透き通った琥珀色の輝きを放っている。

 アルトはそこに、先週自噴泉の木陰で見つけた野生のミツバチの巣から採蜜した、黄金色の「百花蜜」を木製スプーンでひと匙落とした。

 スプーンで静かにかき混ぜると、蜜が溶け出し、森の花々の濃厚で華やかな芳香が湯気とともにふわりと立ち上る。

 一口含むと、カモミールの完熟リンゴに似た甘やかな芳香と、ミントの爽快な清涼感、そして百花蜜のコクのある優しい甘みが口蓋いっぱいに広がり、喉を通って胃の腑へと温かく落ちていく。

 昼間の麦の収穫と製粉、石臼を回し続けた腕の心地よい筋肉の張りが、ハーブと蜂蜜の滋味によってじんわりと解きほぐされていった。


 パチッ……パチパチ……

 暖炉の中では、よく乾燥させたナラの薪が穏やかな橙色の炎を上げ、青い発光樹液のガラス球とともに、部屋を柔らかく照らし出している。薪が燃える乾いた音と、微かに漂う木灰の香ばしさが、夜の部屋を懐かしい温もりで満たしていた。


 足元では、シロが大きな身体を横たえていた。

 アルトはカップをサイドテーブルに置き、手元にあった鹿角製のブラシを取り上げた。

 大鹿の頑丈な落ち角を削り出し、先端を丸く磨き上げた特製ブラシ。

 アルトは床に座り直し、シロの背中にブラシを当ててゆっくりと梳き始めた。


 ――サッ、サッ、サッ……

 銀白色の美しい被毛が、ブラシの歯を通るたびに滑らかな光沢を取り戻していく。

 春を迎えて換毛期に入ったシロのアンダーコート(下毛)から、綿雪のように柔らかい純白の綿毛がブラシに絡みついてくる。アルトはその毛を丁寧に集めて木箱に収めた。この極上の綿毛を紡ぎ車で糸に撚り合わせれば、どんな高級絹織物よりも軽くて暖かい極上の毛布が織れるはずだ。

 大樹のパルスと共鳴したシロの毛先からは、微細な青い光の粒子がパラパラと零れ落ち、床板の上に散っては静かに消えていく。

 シロは心地よさそうに目を細め、アルトの膝の上に大きな頭をコテンと乗せた。

 喉の奥から、グルルル……と心地よさそうな低い振動音が響いてくる。

 アルトは首筋の柔らかい毛に指を沈め、耳の裏側を親指の腹で優しく揉みほぐした。

 シロの肌からは、森の木々と自噴泉の清らかな甘い香りが漂い、野獣特有の臭みは微塵もない。

 シロは至福のため息をフゥゥ……と鼻から吐き出し、完全に脱力して全身の重みをアルトに預けていた。


 体長二メートルを超える巨躯の神獣が、無防備に甘える温もり。

 アルトは相棒の温かい体温を感じながら、空いた手で作業机の上の木製バインダーを引き寄せた。


 バインダーの中には、この三年間でアルトが描き溜めてきた無数の設計図が綴じられていた。

 最初のページを開く。

 そこにあったのは、十一歳の頃、追放されたばかりの震える手で描いた、雨露をしのぐだけの掘立小屋の稚拙なスケッチだった。

 寸法も歪で、線の引き方もおぼつかず、雨漏りに濡れた墨が滲んでいた。あの夜、粗悪な石のタガネがへし折れて、あまりの悔しさに一人で泣きそうになった記憶が鮮やかに蘇る。

 だが、ページをめくるごとに、図面は驚くべき進化を遂げていた。

 十二歳の冬、寒波を耐え抜くために組んだ二重壁の暖炉。

 十三歳の春、自噴泉の水流を制した水車唐臼と六角形の空中温室の幾何学構造。

 そして十四歳、大地の群発地震を完全に受け流した免震ダンパーと、星の神経系を繋いだ古代ケーブルの回路図。

 線の太さは均一になり、寸法線には狂いがなく、陰影をつけた立面図は本物の建築図面そのもだった。


「……僕たち、ここまで来たんだな」

 アルトが呟くと、シロが片目をうっすらと開け、アルトの頬を手鏡のように見つめ返した。


 かつて都市で誰からも顧みられず、孤独と寒さに怯えていた少年は、もうどこにもいない。

 ここには、愛する相棒と、自らの知恵と手先で作り上げた完璧な城がある。

 誰からも命令されず、誰の機嫌も伺わず、ただ大地の呼吸と星の理に従って生きる、究極の自由と静寂。

 金貨も、貴族の身分も、魔導学者の名誉も、この夜の暖炉の温もりとハーブティーの一杯には遠く及ばない。

 世界がどれほど狂気に塗れ、滅びへと突き進もうとも、この二人だけの聖域は、何ものにも侵されない永遠の聖地だった。


 パイプの和音が、静かに夜の闇へと溶けていく。

 シロが規則正しい寝息を立て始め、アルトもまた、相棒の背中の毛並みに顔を埋めて瞼を閉じた。


 だが――

 その完璧な夜想曲を断ち切るように。


 ――ピキィィィィィン……ッ!


 突然、窓の外の夜空が、血のような真紅の光で染め抜かれた。

 大気を切り裂くような高周波の閃光。

 アルトが目を見開き、デッキの手摺りへと駆け寄ると、遥か地平線の彼方――オルディス防壁都市の上空で、天を衝く巨大な紅蓮の光柱が立ち昇っていた。

 雲を焼き焦がすその禍々しい赤い光は、都市の魔導学者たちが制御を完全に喪失したことを物語っていた。魔力炉の炉心が臨界突破を起こし、地脈から吸い上げた星の血が暴走して空へと噴き上がっているのだ。

 そして、数秒の遅れを伴って、地を這うような不吉な大警報サイレンの音が、夜風に乗って微かに届いた。

 ――ウゥゥゥゥ……ン、ウゥゥゥゥ……ッ。

 それは、過去の傲慢な文明が死の間際に上げる、最後の断末魔の叫びだった。


 都市の魔力炉が、ついに最終崩壊への秒読みを始めたのだ。

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