第079話:自給の完成、黄金の麦の穂
上層デッキの扉を開けると、そこには眩いばかりの「黄金の海」が広がっていた。
六角形の空中温室。
天井の透明結晶パネルから降り注ぐ春の陽光と、大樹の地脈から供給される緑の生体パルスを浴びて、秋に蒔いた古代小麦が驚異的な豊作を迎えていたのだ。
腰の高さまで伸びた無数の茎の先で、ずっしりと重みを蓄えた麦穂が首を垂れ、温室の自動換気スリットから吹き込む微風に揺れてサラサラと心地よい擦れ合いの音を立てている。一粒一粒の麦粒が琥珀色に硬く締まり、太陽の光を浴びて蜜のような輝きを放っていた。
ドームの外側――ガラス一枚を隔てた地上の荒野では、酸性の黒雨と水不足によって草一本生えず、餓死したカラスの死骸が転がっていた。オルディス防壁都市の内部では、一斤のパンの配給を巡って暴動が起き、パン屋の倉庫が略奪され、人々が血を流し合っている。
だが、少年が築いたこの天上の温室の中には、数百人がひと冬を越せるほどの豊かな恵みが満ち溢れていた。
「……シロ、収穫だ。今日はいっぱいパンを焼くぞ」
アルトが呼びかけると、温室の入口に伏せていたシロが耳をピクッと立て、嬉しそうに立ち上がった。
アルトは新調した作業服の袖を捲り、腰の道具差しから手鍛造の「鋸鎌」を抜いた。
刃の縁にヤスリで微細なギザギザの鋸刃を刻み込んだ自作の鎌。
アルトは小麦の茎の束を左手で抱え込み、根元に鎌を当てて手前へと引いた。
――ザクッ、ザクッ、ザクッ……!
小気味よい乾いた切断音とともに、ずっしりと重い麦束がアルトの腕の中に収まっていく。
刈り取るたびに、乾燥した藁と穀物特有の香ばしい芳香が立ち上り、温室の空気を満たしていく。
シロが背中に背負った二つの大きな竹籠に、アルトは手際よく刈り取った麦束を詰め込んでいった。シロは籠が満杯になると、ゆっくりとした足取りで作業スペースへと運び、荷降ろしを手伝った。
収穫した麦束は、即座に脱穀と選別の工程へと回された。
アルトはこの日のために、数々の手製農機具を製作していた。
まず使用したのは、鉄の丸棒を櫛の歯のように等間隔で硬いカシの板に打ち込んだ「千歯扱き(せんばこき)」だ。
麦束の穂先を鉄の歯の間に挟み、力強く手前に引き抜く。
――ジャッ、ジャッ、ジャッ……!
麦の茎から、熟した麦粒がパラパラと心地よい音を立てて木箱の中へとこぼれ落ちていく。
脱穀された麦粒には、細かい籾殻や藁屑が混ざっている。これを手作業で選別するのは膨大な時間がかかるため、アルトは木製の「唐箕」を作動させた。
ホオノキの板で箱型に組み、内部に四枚の板羽根を取り付けた遠心送風機。側面の真鍮ハンドルを回すと、内部の羽根車がカラカラと軽快な音を立てて回転し、均一で強い気流を吹き出す。
上部の漏斗から麦粒を少しずつ落とし込むと、比重の重い充実した小麦粒は風に逆らって真っ直ぐ下の木桶へと落ち、軽い籾殻やゴミだけが風に乗って側面の排気口からサーッと吹き飛ばされていく。
木桶の中には、不純物の一切混ざっていない、黄金色に輝く純粋な古代小麦の粒だけが山となって溜まっていった。
「よし、次は製粉だ」
アルトは木桶を担ぎ、水車唐臼の部屋へと向かった。
水車の主軸には、唐臼の杵だけでなく、硬質な安山岩を円盤状に削り出して「八分画の目立て溝」をタガネで丹念に彫り込んだ「回転石臼」がクラッチで連結できるよう細工してあった。
レバーを倒すと、自噴泉の水流を受けた水車が回り、巨大な石臼がゴリゴリ……ゴリゴリ……と重厚な音を立てて回転を始めた。
石臼の上部の穴から、黄金の麦粒を柄杓で少しずつ流し込む。
上下の石の溝が麦粒を絶妙な圧力ですり潰し、石臼の縁から、生まれたての淡いクリーム色の挽きたて全粒粉が、まるで新雪のようにサラサラと木鉢の中へと零れ落ちていった。
胚芽とふすまを丸ごと含んだ粉からは、熱を帯びた大地の甘い香りが立ち上り、指ですくい取るとシルクのようにきめ細やかだった。
「最高の粉ができたな……」
アルトは深く息を吸い込み、温室の調理台へと戻った。
ここからが、料理人としての腕の見せ所だった。
アルトは大きな木鉢に挽きたての全粒粉を山盛りに開け、中央にくぼみを作った。
そこへ、数日前から仕込んでおいた「特製天然酵母液」を注ぎ込む。温室で実った野生のヤマブドウの皮と、大樹の樹液の澄み水を瓶に詰めて発酵させ、プツプツと芳醇な炭酸ガスを放っていた生きた酵母だ。
さらに自噴泉の温水と、岩塩の微粉末を少々加える。
アルトは腕まくりをし、両手で粉と水分を混ぜ合わせ、力強く捏ね始めた。
最初はボロボロとしていた生地が、体重をかけて掌の付け根で押し込み、折り畳む作業を繰り返すうちに、タンパク質が結合して強いグルテンの網目構造を作り出していく。
――ペタッ、ペタッ、グッ、グッ……
十分間捏ね続けた生地は、表面が吸い付くように滑らかになり、赤ん坊の頬のように柔らかく、指で押すと即座に押し返してくる極上の生地へと仕上がった。
木鉢に濡れ布巾をかけ、温室の地熱パイプの脇に置いて一次発酵させる。
一時間後、布巾をめくると、生地は二倍以上の大きさにふっくらと膨らみ、フルーティで甘酸っぱい極上の発酵香を放っていた。
アルトは生地を拳で軽く押してガスを抜き、六等分に丸めて二次発酵させた後、表面に小刀で十字のクープ(切れ目)を入れた。
焼き上げに使うのは、温室の壁際に据え付けた「耐火石窯」だ。
玄武岩と耐火粘土をドーム型に築き上げた本格的な石窯。
乾燥したナラの薪を燃やして炉内を十分に熱し、熾火を奥へ寄せて炉床の灰を濡れモップで素早く拭き取る。
アルトは木製の細長い板の上に成形したパン生地を乗せ、熱気あふれる石窯の奥へと滑り込ませた。
石の蓋を閉め、焼き上がりを待つ。
――ジュウゥ……パチパチ……
炉の中から、微かな水蒸気の爆ぜる音が聞こえてくる。
数分も経たないうちに、石窯の隙間から、これまで嗅いだこともないほど香ばしい、濃厚な焼き立てパンの匂いがモクモクと立ち上り始めた。
小麦の甘み、薪の薫香、酵母の芳醇なアロマが一体となったその香りに、足元で待っていたシロがクゥンと喉を鳴らし、尻尾を床に打ち付けてソワソワと身を乗り出した。
「もうすぐだぞ、シロ。……よし、焼けた!」
アルトは耐熱手袋をはめ、石の蓋を開けて木製ピールを差し入れた。
窯の奥から現れたのは、息を呑むほど美しい黄金褐色の丸パンだった。
十文字に入れたクープがパックリと力強く開き、表面にはこんがりと香ばしい焼き色がつき、微細な気泡がパチパチと歌うように音を立てている。
取り出したパンの底を指で叩くと、コンコンと乾いた澄んだ音が響いた。完璧な焼き上がりの証だった。
「熱いから気をつけてな」
アルトは手削りの木皿の上に焼き立てのパンを並べ、薄切りにして炙った秋鹿の燻製肉と、温室の花壇から摘んだばかりの野生ハーブを添えた。
アルトがひとつのパンを両手で割ると、――パキッという軽快なクラスト(表皮)の割れる音とともに、真っ白な湯気が立ち上った。
内側のクラム(中身)は、驚くほどモチモチとして気泡をたっぷりと含み、柔らかな光を放っている。
シロがフーフーと鼻息を吹きかけながら、アルトが千切った熱々のパンをパクリと咥えた。
サクッ……モグモグ……
シロの金色の瞳がパッと見開かれ、咀嚼するたびに至福の唸り声が漏れた。
噛み締めるほどに溢れ出す古代小麦の素朴で濃厚な甘みと、薪窯特有の香ばしさ。シロは夢中で皿の上のパンを食べ進め、最後の一粒のパン屑まで丁寧に舐め取った。
アルトもまた、炙った燻製肉をパンに挟んで大きく口に運んだ。
――サクゥッ!
口いっぱいに広がる香ばしい歯触り。続いて、噛むごとにジュワリと染み出す鹿肉の芳醇な脂と、小麦の力強い旨味が舌の上で完璧に溶け合った。
涙が出そうになるほど、美味かった。
アルトは焼き上がったパンをいくつか籠に入れ、地上へと降りていった。
地上シェルターで身を寄せ合っていた動物たち――避難してきた小鹿や仔狼たちにも、小さく千切ったパンを分けてやる。
生まれて初めてパンの匂いを嗅いだ動物たちは、最初は目を丸くしていたが、一口食べると夢中になってアルトの手からパンを食んだ。小鹿が満足そうに目を細め、仔狼が尻尾を振ってアルトの足元にじゃれつく。
この聖域に生きるすべての命が、同じ温かい糧を分かち合っていた。
かつて都市で飢えに怯え、硬くカビた黒パンの耳を巡って殴り合っていた過去が、まるで遠い夢のように思えた。
自分たちの手で土を耕し、水を守り、太陽と星のエネルギーを紡いで焼き上げたこの一片のパンは、神の慈悲よりも尊く、絶対的な生命の証だった。
外の世界がどれほど崩壊しようとも、この秘密基地は、もう二度と飢えることはない。
完全なる自給の環が、今ここに、黄金の麦の穂とともに完成したのだ。




