第083話:砦の夜、満ちる光
その夜、地平線の彼方で、世界がひとつ終わりを告げようとしていた。
オルディス防壁都市の魔力炉は、ついに最終崩壊の臨界点を超えていた。
西の空全体が、まるで巨大な製鉄所の炉が開いたかのようにドス黒い紅蓮の色に染まり上がり、大気が震え、耳鳴りのような重低音が絶え間なく大地を伝わってきていた。
――ゴォォォォォォォ……ッ。
遠く何十キロも離れた場所で起きている大爆発の余波が、夜空の雲を吹き飛ばし、不吉な紫電を無数に乱舞させている。
かつて大陸最強を誇り、石造りの巨壁で囲まれていた人口十万の文明都市は、今、自らが生み出した欲望の炎に呑まれて灰燼へと帰しつつあった。
だが――
地上十数メートルの大樹の上にそびえる秘密基地の中は、息を呑むほどの神聖な静寂と、柔らかな光に満たされていた。
谷底の古代主幹ケーブルと同期した大樹は、外界のエネルギー嵐を完全に濾過し、純粋な惑星の生体パルスへと変換していた。
居住棟のヒノキの床板、カシの梁、そして六角形の空中温室を支える格子組みの木目という木目から、サファイアブルーと淡い琥珀色の温かな燐光が、まるで呼吸するように静かに滲み出していた。
ランプの油を灯す必要すらなく、部屋の空間全体が、木材自身が放つ優しい間接照明によって満たされていたのだ。
その光は肌を刺すような眩しさはなく、母の胎内にいるかのような絶対的な安心感をもたらしていた。
「シロ、火が熾きたぞ。今夜はごちそうだ」
アルトは居住棟の石組み暖炉の前にしゃがみ込み、乾燥したナラの薪をくべた。
暖炉の上には、以前回収した兵士たちの剣を溶かし、自らの手で鋳造し直した頑丈な特製鋳鉄鍋が据え付けられている。
粘土と石英砂で木型を写し取った鋳型に、赤熱した溶鉄を流し込んで成形し、仕上げに油を焼き付けて黒錆(四酸化三鉄)の皮膜を定着させた厚さ一センチの重厚な鍋。熱を均一に蓄え、食材の芯までじっくりと火を通す極上の調理道具だ。
アルトは今夜の夕食のために、とっておきの食材を用意していた。
地下氷室から取り出してきた、冬の間に熟成させておいた秋鹿の極上ロース肉。
手のひらほどもある分厚い肉塊を、新調した黒曜石の包丁で一口大の角切りにしていく。包丁が吸い込まれるように柔らかく、赤身と脂のバランスが完璧な最高品質の鹿肉だ。
熱した鋳鉄鍋に、鹿の腎臓の周りから取った上質な鹿脂を滑らせると、――ジュウゥゥッ!という心地よい音とともに、香ばしい脂の香りが立ち上った。
そこへ角切りの鹿肉を一気に投入する。
表面を強火で素早く焼き固め、肉汁と旨味を中に完全に閉じ込める。肉の表面にこんがりとした狐色の焦げ目がついたら、一度皿へと取り出した。
続いて、鍋の残った旨味脂の中に、野菜を投入する。
空中温室の花壇から夕方引き抜いてきたばかりの、蜜のように甘い雪下カブの乱切り。
野生の野蒜を刻んだもの、そして温室の天井から吊るした木樽で栽培していた野生の完熟トマトを四つ、手で粗く潰して鍋へと放り込んだ。
さらに、ぬるま湯で戻しておいた肉厚のヤマブシタケとアンズタケを、戻し汁ごと贅沢に注ぎ入れる。
仕上げに、秋に温室のヤマブドウを発酵させて仕込んでおいた、酸味と渋みの効いた特製果実酒をドボドボと回し入れた。
――ジュワァァァァ……コトコトコト……
瞬時に立ち上る、果実酒の芳醇なアロマと、トマトの爽やかな酸味、そしてキノコの濃厚な大地の香り。
アルトは先ほど焼き固めた鹿肉を鍋へと戻し、自噴泉の超純水をひたひたになるまで注いで、重い木蓋を閉めた。
「あとは、弱火でじっくり煮込むだけだな」
アルトが立ち上がると、足元で伏せていたシロがクゥンと喉を鳴らし、鍋の木蓋を鼻先で指すように見つめた。
シロの金色の瞳は、鍋から漏れ出る極上の匂いに釘付けになっていた。尻尾の先が、床板をトントンとリズミカルに叩いている。
その時だった。
――ズズズズズズズズ……ッ!!
空気が割れるような凄まじい地響きが、大地を揺らした。
免震構造によって基地の揺れは最小限に抑えられていたが、窓の外――西の空が、真昼の太陽が突然昇ったかのような強烈な紅蓮の閃光に染まり抜かれた。
魔力炉の最終臨界爆発。
天を衝く巨大な炎のキノコ雲が立ち昇り、都市を包んでいた防壁も、大聖堂も、すべての建造物が紅蓮の業火に呑み込まれて消滅したのだ。
一国の歴史と文明が、永遠に地図から消え去った瞬間だった。
普通なら、誰もが恐怖に震えて窓に張り付き、あるいは滅びゆく敵の姿を嘲笑うためにその光景を見つめるだろう。
だが――
アルトは、窓を振り返ることすらしなかった。
青年の背中は、紅蓮に燃える地平線に完全に背を向けていた。
アルトはただ静かに暖炉の前に腰を下ろし、木製の長柄スプーンを手に取ると、鍋の蓋を開けて表面に浮いた微細な灰汁を丁寧にすくい取っていた。
そして、小皿に一滴スープを取り、味見をした。
岩塩をひとつまみ、乾燥させた野生タイムの葉を指先で揉み潰して散らす。
それだけだった。
「アルト、外を見ないのか?」
もし誰かがそう尋ねたとしても、アルトはただ静かに首を振っただろう。
他人の破滅を眺めて快感を得る必要など、どこにもない。
あそこにあったのは、自分を捨て、奪い、自滅していった過去の世界だ。
僕たちには、僕たちの生きる時間がある。
今、この瞬間、目の前にある鹿肉を最高の柔らかさに煮込み、相棒とともに温かい食事を分かち合うこと――それ以上に大切なことなど、この世界には何ひとつ存在しないのだから。
「よし、シロ。できたぞ」
アルトが木蓋を開けると、黄金色の脂がキラキラと輝く、濃厚な赤褐色のシチューが現れた。
長時間煮込まれた鹿肉は、スプーンの角で軽く触れただけでホロリと崩れるほど柔らかくなっていた。
トマトの酸味とキノコの出汁、そして果実酒が溶け合い、スープは驚くほど深いとろみを帯びている。
アルトはシロのために手削りした大型の木皿に、山盛りの鹿肉とカブ、たっぷりのスープを注ぎ、冷ましやすいように平らに広げてやった。
そして自分の深皿にもシチューを盛り、昨日焼き上げた黄金の古代小麦パンを添えた。
「食べよう」
アルトが合図を出すと、シロは待ちきれないようにフーフーと息を吹きかけ、肉塊をパクリと口に含んだ。
――ハフッ……モグモグ……ッ。
噛み締めた瞬間、シロの瞳が大きく見開かれ、喉の奥からゴロゴロと歓喜の唸り声が漏れ出した。
噛む必要すらないほどトロトロに煮崩れる鹿肉の濃厚な旨味。甘いカブの滋味。シロは夢中で肉を頬張り、パンをスープに浸してサクッと咀嚼し、最後の一滴のスープまで丁寧に舌で巻き取っていった。
アルトもまた、木製スプーンでシチューを口に運んだ。
――ジュワリ……
舌の上に広がる、圧倒的な滋味。
鹿肉の野性味あふれる薫香が果実酒の芳醇さと見事に溶け合い、トマトの優しい酸味が全体の味を引き締めている。温室の土が育てたカブの甘みは、まるで上質な果物のようだった。
熱いシチューが喉を通るたびに、全身の血潮が温かく巡り、胸の奥深くまで満たされていく。
食後、アルトは自噴泉の温水を木桶に汲み、木皿とスプーンをきれいに洗い清めた。
油汚れは木炭の灰を含ませたヘチマたわしで擦ると驚くほど綺麗に落ち、乾いた布で拭き上げると、木肌がしっとりとした艶を取り戻した。道具を大切に扱い、生活を整えるこの静かな時間こそが、アルトの何よりの宝物だった。
暖炉の炎が穏やかな熾火へと変わり、部屋の光が青白い生体の燐光だけになる。
シロがアルトの足元に丸くなり、心地よい温もりを少年の足首に預けて目を閉じた。
アルトもまた、羊皮の敷物に腰を下ろし、シロの柔らかな銀白の毛並みに身を寄せた。相棒の首筋に手を回すと、一定のリズムで打ち寄せる心臓の鼓動が、手のひらを通じて少年の魂を優しく撫でた。互いの体温が溶け合い、夜の静寂が二人を包み込む。
ガラス一枚を隔てた外の世界では、ひとつの強大な文明が燃え尽き、永遠の沈黙の中へと沈んでいった。
かつて都市を支配していた強欲な貴族も、傲慢な学者も、冷酷な役人も、すべてが灰の下へと消え去った。
だが、少年と白い獣が身を寄せるこの砦の中には、暖かい火があり、極上の食事があり、木肌から溢れ出るサファイアの光があった。
失われたものは何ひとつない。ここにあるものこそが、世界のすべてだった。
大樹の深層から、星の鼓動がトクン……トクン……と静かに響いてくる。
外界の喧騒が消え去ったことで、その律動はこれまでになく力強く、澄み渡っていた。
少年は、相棒の温かい背中に手を添えながら、静かに微笑んだ。
世界の終わりは、僕たちの新しい始まりだった。




