第070話:一滴の水もやらない少年
「……バートンさん」
地上七・五メートルの上層デッキから、少年の静かな声が降ってきた。
泥水に顔を擦り付けていた男が、ハッと顔を上げた。
濁った瞳に、一筋の卑しい希望の光が宿る。
「あ、アルト君……! 思い出してくれたね!? 助けてくれるんだね!?」
アルトはデッキの手摺りに片手を置いたまま、動かなかった。
その瞳は、冬の朝の氷のように澄み、どこまでも平坦だった。
「覚えていますよ。忘れるわけがありません」
アルトの声には、怒りの震えも、恨みの毒もなかった。
まるで、過去の天候の記録を淡々と読み上げるかのような静寂。
「十四歳の秋、冷たい雨の夕暮れでした。あなたは神殿で僕の胸に不合格の焼印を押し、西門の泥水たまりの中へ僕を突き飛ばした。僕があばら骨を蹴られ、杖で指を砕かれながら『見捨てないでください』と泣き叫んだ時――あなたは何と言いましたか?」
「そ、それは……っ!」
バートンの顔から、血の気がサッと引いた。
男の喉がヒュッと鳴る。
「『寄生虫が汚らわしい手で触るな。魔力を持たぬ家畜に、都市の貴重な魔力熱を分けてやる余裕などない。森へ行って魔獣の糞にでもなるがいい』……そう言いましたよね」
アルトは淡々と、男が放った一言一句を違えずに繰り返した。
「そしてあなたは、門の閂を下ろし、僕を暗闇の森へ放り出した」
バートンは激しく頭を横に振った。
泥まみれの涙と鼻水を垂らしながら、必死に言い訳を並べ立てる。
「違、違うんだ、アルト君! あれは本心じゃなかった! 都市の規則だったんだよ! 議会の決定に従わなければ、私の首が飛ぶところだったんだ! 私だって辛かったんだ! あの日、私は家に帰ってから君のために涙を流したんだよ! 信じてくれ!」
男の口から溢れ出る言葉のすべてが、薄汚れた泥水よりも濁っていた。
アルトはただ、静かにその見苦しい弁解を聞いていた。
反論もしない。侮蔑の笑いすら浮かべない。
「……もういいです、バートンさん」
アルトは静かに男の言葉を遮った。
「弁解を聞くために聞いたわけじゃありません」
「じゃ、じゃあ……助けてくれるんだね!? 水を……一口の水をくれ! 喉が張り付いて、舌が焼けるように痛いんだ! その水路の水を一杯だけでいい! 恵んでくれぇっ!」
バートンは両手を合わせ、拝むように叫んだ。
大樹の根元の小川には、澄み切った清流がサラサラと流れている。
地上五メートルの下層テラスからは、温水の湯気が立ち上っている。
男の目の前には、命を繋ぐ水が無限に溢れていた。
だが。
アルトの口から告げられたのは、凍てつく冬の風よりも冷酷な宣告だった。
「一滴も、やりません」
「…………え?」
バートンが間の抜けた声を漏らした。
「ここは、オルディス防壁都市ではありません。魔力炉の熱も、都市の法律も、あなたたちの身分章も、ここには存在しません」
アルトは静かに、自らの足元の大樹と、宙に浮かぶ空中要塞を見回した。
少年は自らの両手を見つめた。
かつて都市で震えていた細く青白い手ではない。
重い丸太を担ぎ、石を削り、ノミとナタを振るい続ける中で、手のひらには硬いタコができ、指先は確かな力を宿している。
誰かの命令に従うための手ではない。自分と相棒の生命を切り開くための、誇り高き職人の手だ。
「ここにあるのは、僕とシロが拾った小枝とガラクタで、僕たちの手で作った『僕たちの家』です。あなたが捨てた魔力なしの子供が、血と汗を流して築いた居場所です」
少年の瞳が、泥の中の元執行官を真っ直ぐに射抜いた。
「あなたに分けてやる水も、リンゴも、パンの一欠片もありません。僕たちの城の泥のひと匙たりとも、あなたのものではない。……今すぐ、この森から出て行ってください」
「な……っ!?」
バートンの顔が、驚愕から屈辱へ、そして醜悪な激怒へと一瞬にして変色した。
男の薄っぺらな媚びへつらいの仮面が剥ぎ取られ、かつての傲慢な役人の本性が剥き出しになった。
「こ、この恩知らずのクソガキがぁぁぁっ!!」
バートンは泥水の中で立ち上がろうとして、壊死した右足の激痛に悲鳴を上げて再び転がった。
泥まみれの拳で地面を叩き、血走った目でアルトを睨みつけて罵声を浴びせかける。
「魔力なしのゴミの分際で! 誰のおかげで十四歳まで孤児院で飯を食わせてもらえたと思っているんだ! 都市の税金で生かされていた寄生虫が、大人に向かって指図するのか! 私を誰だと思っている! 上級執行官バートン様だぞ! 水一杯くらい、跪いて差し出すのが当然だろうがッ!!」
男の口から飛び散る唾が、大樹の根元の芝生を汚した。
アルトはその醜態を見つめながら、心の中で確信していた。
もし、この男に一杯の水を与えていたら。
一口のパンを与えていたら。
男は感謝するどころか、体力を回復させた瞬間、アルトを殴り倒してこのツリーハウスを奪おうとしただろう。
人間社会の強者とは、そういう生き物なのだ。
彼らは施しを「当然の権利」と見なし、弱者の優しさを「愚かさ」として踏みにじる。
そんな怪物を助けることなど、慈悲でも何でもない。ただの自殺行為にすぎない。
その時。
アルトの隣に座っていたシロが、静かに立ち上がった。
唸り声は上げない。
ただ、その白銀の巨体を乗り出し、金色の双眸で、泥の中で狂乱する男をジロリと見下ろした。
背中の蒼い筋が、ピキリと鋭い燐光を放つ。
「ヒィッ……!?」
バートンの罵声が、喉の奥で引き攣って止まった。
先日の脱走兵リーダーを失禁・敗走させた、あの「銀の魔獣」。
その冷徹な神話の視線が自分に向けられた瞬間、バートンの全身から一気に熱が引いた。
男の股間から、再び生暖かい液体がジョロジョロと漏れ出し、凍土を溶かした。
「……五つ数えます」
アルトの声が、再び響いた。
少年はすでに長弓を手に取り、鉄鏃の矢を弦に番えていた。
「立ち去らなければ、銀狼たちに命じて、あなたの肉を骨ごと噛み砕かせます。……一、二――」
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!! 助けてくれぇぇぇっ!!」
バートンは折れた爪で泥を掻き、四つん這いになって森の出口へと向かって這いずり出した。
自慢の純金の身分章メダルは首から外れて泥の中に転がり落ちたが、拾う余裕すらなかった。
男は泣き叫び、泥水を啜りながら、凍てつく冬の荒野へと向かって無様に転がり去っていった。
二度と、この森に足を踏み入れることはないだろう。
そして、灰燼に帰した都市の荒野で、自らが切り捨ててきた無数の人々の骨とともに、飢えと寒さの中で凍死していくだろう。
自らが蒔いた種を、自らの命で刈り取る。
それが、この世界の厳然たる結末だった。
大樹の根元、泥濘の中に残された純金の身分章メダル。
かつてオルディス防壁都市で、何百人もの市民が平伏し、絶対の権威として傅いていた黄金の板。
だが今、それは冷たい雪解け水に浸かり、ただの重い金属のゴミとして泥の中に沈んでいた。
アルトはそれを拾い上げようとも思わなかった。
金貨も、身分も、権力も、この森では一本の枯れ枝ほどの価値も持たない。
自らの腕で木を削り、火を熾し、土を耕す者だけが真の豊かさを手に入れるのだ。
アルトは弓を下ろした。
心拍は一度として乱れなかった。
手の震えも、後悔も、一片の罪悪感もなかった。
あるのは、透き通った冬の青空のように、広大で静かな「自由」の感覚だけだった。
「行こう、シロ」
アルトは踵を返し、昇降機の操作レバーを引いた。
ケージが滑らかに上昇し、地上からさらに離れた空中温室へと滑り込む。
温室の扉を開け、中に入ると、春の暖かい空気と土の香りがふたりを包み込んだ。
アルトは木製の扉を閉め、頑丈な閂をガチャンと落とした。
木製カップに、大樹の根元から引いた青白い自噴純水を注ぐ。
アルトはそれを一口、ゆっくりと喉へと流し込んだ。
澄み切った清涼感と、ほのかな甘み。
全身の隅々まで染み渡る、命の源泉。
シロにも平皿に水を満たしてやると、シロはペロペロと美味しそうに飲み干し、ふうと息をついてアルトの膝に顎を乗せてきた。
もし、自分がまだ都市の大人たちの承認を求めていた頃の子供だったなら、偽りの慈悲に惑わされ、あの男に水を恵んでいただろう。そして裏切られ、すべてを失っていただろう。
だが、もう迷うことはない。
外の地獄も、過去の亡霊も、すべてはガラスの向こうの出来事。
少年は、過去の世界と完全に決別したのだ。
誰の慈悲にも頼らず、誰の悪意にも屈せず、自らの城で生き抜く。
孤高の守護者となった少年の瞳に、真の「自立」の光が燦然と輝いていた。
大樹の根元で回り続ける青銅歯車が、少年の心の静寂を讃えるように、チ、チ、チ……と永遠の秒針を刻み続けていた。




