第069話:泥を這う追放者、かつての役人
都市が滅び去ってから、五日が過ぎた。
荒野から吹き寄せる風は次第に収まり、森には雪を透かして柔らかな木漏れ日が差し込んでいた。
空中温室のレイズドベッドでは、蒔いた古代小麦が十センチほどの青々とした苗へと成長し、カブやホウレンソウの丸い葉がみっしりと土を覆っていた。
平和と静寂。
だが、その日の昼下がり、大樹の根元の外郭に配置された銀狼たちが、低く唸り声を上げた。
――グルルル……
侵入者の報せ。
だが、その唸り声には、かつて暴徒たちが押し寄せてきた時のような警戒や殺気はなかった。
ただ、道端に転がる汚い生ゴミを見咎めたかのような、底冷えする侮蔑だけが混ざっていた。
アルトはトネリコの展望デッキから、地上へと視線を落とした。
木々の隙間、凍りついた小径を、ひとつの影が這いずりながら進んできていた。
足音すらない。
歩くことすらできず、雪と泥の中に両手と両膝を突いて、蛇のように地べたを這い回っている。
「……人間、か?」
アルトは眉をひそめた。
手製望遠鏡を覗き込むと、その影の姿が鮮明に拡大された。
その男の着ている衣服を見た瞬間、アルトの心臓が一瞬だけドクンと跳ねた。
泥と煤にまみれ、あちこちが引き裂かれていたが、それは間違いなくオルディス防壁都市の最高級官服――紫色のビロードと金糸の刺繍で仕立てられた「都市行政局・上級執行官」の制服だった。
首には、都市の紋章が刻まれた純金の身分章メダルが、泥水に浸かりながらぶら下がっている。
男の顔は飢えと恐怖で骸骨のように痩せこけ、唇は紫色にひび割れ、かつて油ぎっていた顎には汚い無精髭が生え散らかしていた。
右足は凍傷で黒く壊死しかけているのか、力なく地面を引きずっている。
アルトはその男の顔を、生涯忘れることはなかった。
――バートン。
オルディス防壁都市行政局、児童福祉および賦活適性検査・主任執行官。
十四歳を目前にした秋のあの日。
神殿の魔力測定器の前で、無情にも「魔力ゼロ・賦活不能」の判定を下した男。
冷たい雨が降る夕暮れの西門で、アルトの細い腕をねじ上げ、泥水たまりの中へと力任せに突き飛ばした男だ。
アルトが必死に男の足元に縋りつき、「お願いします、行商の手伝いでも掃除でも何でもします、見捨てないでください」と泣き叫んだ時、この男はピカピカに磨き上げた黒革の長靴でアルトのあばら骨を容赦なく蹴り上げ、手にしていた銀頭の黒檀の杖で、アルトの指の骨が折れるほど激しく打ち据えたのだ。
『寄生虫が汚らわしい手で触るな! 魔力を持たぬ家畜に、都市の貴重な魔力熱を分けてやる余裕などない。森へ行って魔獣の糞にでもなるがいい』
そう言って、泥に塗れて激痛に蹲るアルトの顔に唾を吐きかけ、鉄の城門を背後でガシャンと閉ざした張本人だった。
その男が今、自慢だった黒革の長靴は片方失われ、泥まみれの素足は凍傷で紫色に腐りかけ、かつてアルトを打ち据えた右腕は力なく震えながら泥を掻きむしっている。
魔力炉が爆発したあの日、この男は自らの執務室から金貨の入った小袋を抱え、逃げ惑う部下や市民を突き飛ばして脱出したのだという。だが荒野に出た途端、飢えた脱走兵たちに金貨を奪われ、衣服を剥がれ、最後には雪解け泥の混ざった泥水を啜りながら、虫のようにここまで這いずってきたのだ。
「……あの男が」
アルトの声は、自分でも驚くほど静かだった。
怒りも、憎悪も湧き上がってこなかった。
ただ、因果という名の歯車が、あまりにも正確に、あまりにも無慈悲に噛み合ったことに対する、冷ややかな感慨だけがあった。
バートンは、這いずりながら大樹の根元――あの青い光が満ちる芝生の縁まで辿り着いた。
周囲の木陰には、二十頭の銀狼たちが静かに腰を下ろし、この惨めな男の姿を見下ろしていた。
襲いかかる価値すらないとでも言わんばかりに、牙を剥くことすらしない。
男の鼻腔に、空中温室から漂い出る甘い土の匂いと、大樹の樹液の清涼な香りが届いたのだろう。
男は泥だらけの顔を上げ、濁った目で前を見つめた。
そして――男の息が止まった。
「あ……あ……ぁ……!?」
男の喉から、掠れた悲鳴が漏れた。
男の目の前に広がっていたのは、荒野の地獄とは完全に切り離された「神話の楽園」だった。
大樹の根元では、巨大な青銅歯車が音もなく自転し、幹にはサファイアブルーの光の管が脈打ち、地上七・五メートルの上空には、鏡のように空を映し出す六角形の空中温室と、堂々たる木組みの要塞が宙に浮かんでいる。
そして、大樹の幹はつるつるに削り落とされ、登るための階段も梯子も、一本たりとも存在しない。
「な、なんだ……ここは……天国なのか……? 神の、宮殿……?」
男は幻覚を見ているのかと、泥まみれの手で目を擦った。
都市が炎上し、家族も部下も焼き殺され、泥水を啜りながら荒野を彷徨っていた男の耳に、逃走中の暴徒たちから奇妙な噂が届いていたのだ。
『境界の森の奥に、魔獣を従え、食べ切れないほどの肉と果物を蓄えたツリーハウスがある』
『そこにいるのは、かつて都市を追放された黒髪のガキだ』
男はその噂にすがりつき、死に物狂いで森の境界を越えてきたのだ。
その時だった。
地上七・五メートルの上層デッキの手摺りに、ひとつの人影が立った。
バートンは必死に目を凝らし、その人影を見上げた。
深緑の鹿革ベストを纏い、腰に研ぎ澄ました工具を佩き、背筋を真っ直ぐに伸ばした少年の立ち姿。
その隣には、月光をまとったかのように美しい銀白の獣シロが、静かに佇んでいる。
「あ……あ、あ……ッ!!」
バートンの顔が、驚愕と歓喜で激しく歪んだ。
「ア、アルト君……!? アルト君じゃないかッ!!」
男は泥の中で両手をバタつかせ、必死に大樹の根元へとすり寄った。
「私だ! 行政局のバートン主任だ! 覚えているね!? 君を……君をよく知っているバートン執行官だよ!」
地上七・五メートルの高さから、アルトは見下ろしていた。
微動だにせず。
弓も構えず、声も発さず。
ただ、路傍の汚れた石ころを見るような、完全な無表情で。
アルトの沈黙をどう解釈したのか、バートンは泥水の中で必死に笑顔を作った。
煤と血で汚れた歯を剥き出しにし、媚びへつらうような甲高い声で叫び立てる。
「ああ、生きていてくれたのか! 素晴らしい! 君がこんな立派な隠れ家を作っていたとは、私の目に狂いはなかった! あの日……あの日、私が君を森へ送り出したのはね、君の類まれなる才能を見抜いていたからなんだよ!」
男の口から吐き出される言葉は、あまりにも醜悪で、あまりにも浅ましかった。
「都市は腐敗していた! あのまま都市にいれば、君は魔力炉の事故に巻き込まれて死んでいたはずだ! だから私が……私が機転を利かせて、君を安全なこの森へと逃がしてやったんだ! いわば、私は君の命の恩人なんだよ、アルト君!」
バートンは首から下げていた純金の身分章メダルを泥から引き抜き、両手で高く掲げた。
「見給え、この身分章を! 私は都市行政局の最高幹部だ! 都市が再建された暁には、私は復興委員会の頂点に立つ! 君を……君を一等市民に取り立ててやろう! 大邸宅も、山のような金貨も、何でも思いのままにしてやる!」
そして、男は額を地面の泥へと擦り付け、惨めに泣き叫んだ。
「だから……だから頼む! その木の上へ上げてくれ! その梯子を降ろしてくれ! 腹が減って死にそうなんだ! 一口でいい、その温室のパンを……リンゴを恵んでくれ! 水……水を一杯だけでいいから飲ませてくれぇぇぇっ! 私は偉いんだ! こんな泥水の中で野垂れ死んでいい人間じゃないんだよぉぉぉっ!!」
かつて都市の権力を笠に着て、孤児たちの命を紙屑のように処分していた男の、これが成れの果てだった。
金貨も、権力も、身分章も、飢えた胃袋の前には一滴の泥水ほどの価値もない。
男は自らの犯した罪のすべてを都合よく歪曲し、かつて自分が踏みにじった少年の足元で、虫けらのように命乞いをしていた。
冬の風が、大樹の梢を静かに吹き抜けていった。
男の絶叫が途切れ、森には再び、重苦しい静寂が満ちた。
アルトは、依然として手摺りに手を置いたままだった。
その瞳の奥には、軽蔑の色すら浮かんでいなかった。
怒りがあれば、怒鳴りつけたかもしれない。
憎しみがあれば、矢を射ち込んだかもしれない。
だが、今のアルトの胸にあったのは、ただ冷え切った、絶対の「虚無」だった。
この男は、もうアルトの世界の住人ではない。
過去の悪夢の残滓であり、土へと還りゆく落ち葉や屍骸と同じ、取るに足らない自然現象にすぎないのだ。
少年は、ゆっくりと口を開いた。
その静かな第一声が、冬の冷気を切り裂いて、泥に這いつくばる男の頭上へと落ちていった。




