第068話:反射望遠鏡、街の炎上の観測
南西の地平線が、昼も夜も不気味な赤紫色に染まり続けていた。
風に乗って届くのは、雪の匂いではなく、焦げたゴムと硫黄、そして焼け爛れた油の混ざった耐え難い悪臭だった。
時折、大地の底から、雷鳴とは違う鈍い地鳴りがドォン……と響き、上層デッキの花壇の黒土を微かに震わせた。
「……街が、いよいよ終わるんだな」
トネリコの展望デッキに立つアルトは、新たに組み上げた観測機器の前に立っていた。
これまでの竹筒の屈折望遠鏡では、レンズの口径が小さく、十数キロ離れた都市の細部まではぼやけて見えなかった。
そこでアルトは、回収した資材のすべてを注ぎ込み、本格的な「ニュートン式反射望遠鏡」を自作していたのだ。
主鏡には、森へ侵入してきた先遣隊から回収したあの鋼鉄盾の中心部を用いた。
火入れをして平らに叩き伸ばした円形の鋼板を、木製の研磨治具を使って緩やかな凹面(放物面)へと削り出す。
光学研磨には、途方もない根気が必要だった。アルトは平らな樫の木ブロックの上に熱した松脂と木灰を流し込んで「ピッチ盤(研磨皿)」を作り、そこに川原の赤土から水簸して抽出した極微粒子の酸化鉄を研磨剤として塗布した。八の字を描くように規則正しいストロークで、何万回、何十万回と擦り合わせる。
暗闇の中で小穴を開けた板からランプの光を通し、焦点距離を測る「フーコー・テスト」の要領で曲率の狂いをミリ単位で修正していく。何日も指先の皮を擦り減らしながら磨き上げた鋼板は、やがて顔の毛穴や天井の木目まで歪みなく映し出す、直径五寸(約十五センチ)の完璧な放物面金属鏡となった。
鏡筒には、中をくり抜いた太いスギの丸太を使用。内側を煤と漆で真っ黒に塗り、鏡筒の底に主鏡を据え、上部には四十五度傾けた小さな平面鏡(斜鏡)を取り付けた。
光を鏡筒の横へと直角に反射させ、古代遺跡で見つけた高倍率の接眼レンズへと導く構造だ。ピンホールからの光を使って斜鏡と主鏡の光軸を完璧に合わせ、像の歪みを極限まで排除した。
手ブレを極限まで抑えるため、デッキの手摺りには、二重の木製ウォームギアで水平と仰角をミリ単位で微調整できる「木製赤道儀架台」を据え付けてある。
「シロ、ピントを合わせるぞ」
アルトは架台の木製ネジを回し、接眼レンズに右目を押し当てた。
視界が拡大される。
屈折望遠鏡とは比較にならない、圧倒的な集光力と解像度。
十数キロ彼方のオルディス防壁都市が、まるで手の届く数町先にあるかのように、接眼レンズの丸い円の中に飛び込んできた。
そして――そこに映し出されていたのは、一国の文明の完全な「断末魔」だった。
「…………っ、あ……」
アルトの喉から、声にならない息が漏れた。
――オルディス防壁都市は、火の海と化していた。
都市の中央、天を衝くようにそびえ立っていた巨大な石造魔力炉の心臓部が、毒々しい青紫色の超高熱プラズマを噴き上げながら、内部から崩壊を始めていた。
炉の制御弁は完全に吹き飛び、溶融した魔力鉱石の液体が、溶岩のように市街地へと溢れ出している。
かつてアルトが門の外から見上げるしかなかった、都市の象徴である「大図書館の白亜の大鐘楼」が、土台の魔力炉の崩落に巻き込まれ、巨大な鐘を地面に叩きつけてガラガラと音を立てて砕け散った。
貴族たちの豪奢な白亜の屋敷も、行政局の威厳ある石造庁舎も、すべてが紫の炎に包まれ、屋根を崩落させていた。
都市防衛軍が誇っていた城壁の魔力投石機は、暴走したエネルギーを逆流させて砲身ごと木っ端微塵に破裂し、守備兵たちを吹き飛ばしている。
かつて都市の秩序を誇り、平民たちを見下ろしていた豪商や貴族たちが、絹の服を泥に汚し、荷馬車を捨てて逃げ惑う姿が見える。
だが、逃げ場はなかった。
街の通りという通りが炎と有毒ガスで塞がれ、互いに押し合い、踏み躙り合いながら、人間たちが黒い煙の中へと呑み込まれていく。
だが、アルトを最も戦慄させたのは、市街地の炎上そのものではなかった。
都市を取り囲んでいた、あの「絶対の防壁」の姿だった。
高さ十丈(約三十メートル)、厚さ三間(約五・四メートル)。
何百年ものあいだ、外敵の侵入を一切拒み、都市の住人たちに「ここだけが世界の安全圏だ」と信じ込ませていた、漆黒の玄武岩の巨大防壁。
その防壁の中央に――
――ズズズズズズズズ……ッ!!
稲妻のような巨大な「亀裂」が、防壁の天頂から根元へと向かって、垂直に引き裂かれるように走っていたのだ。
何千トンもの巨石が、まるで乾いたビスケットが割れるかのようにパキパキと音を立てて砕け散り、巨大な土煙を上げて外側の荒野へと崩落していった。
「防壁が……割れてる……!?」
アルトは指先を震わせながら、望遠鏡のピントをその亀裂へと合わせた。
あの日――十四歳を前に追放された夕暮れ、アルトが見上げたあの防壁は、まるで天を塞ぐ巨大な黒い絶壁だった。
どんな力を持っても絶対に乗り越えられず、外側の荒野にいる者を一方的に見下ろし、排除する冷酷な神の壁。
少年はその壁の前に膝をつき、己の小ささと無力さに絶望して泣いたのだ。
だが今、その壁が、まるで蟻の巣に踏み込まれた砂山のように無残に崩壊していた。
都市の内側の爆発の圧力で割れたのではない。
亀裂の断面から、青白い光の粒子が、まるで大地の血管から血が噴き出すように、天に向かって激しく立ち上っていたのだ。
その光の波長と、幾何学のパターン。
アルトの背筋に、氷水を浴びせられたような戦慄が走った。
「これ……大樹の、光と同じだ……」
アルトは望遠鏡から目を離し、足元の大樹の主幹を見下ろした。
大樹の根元。
あの青銅の巨歯車が、チ、チ、チ……と、今日も変わらぬ静謐な速度で自転を続けている。
そして、その回転に合わせて、大地の地下深くへと伸びる無数の青い導管。
アルトの脳裏に、以前枯れ谷の操作盤に手を触れた時に走った、あの「大地の血管のヴィジョン」が鮮烈に蘇った。
――都市の魔力炉が自滅したのではない。
――この森の大樹が、青銅歯車の回転によって目覚めたことで、大地に溜まりに溜まっていた歪んだエネルギーの吸い上げが停止し、星の生命力が正常な流路へと強制回収されたのだ。
オルディス防壁都市の魔力炉とは、大地から無理やり吸い上げた生命力を奪い取って燃やす、寄生虫のような装置だった。
森の心臓が眠っていた間は、都市はその収奪によって繁栄を享受できた。
だが今、正統なる「調停の中枢」である大樹が動き出したことで、都市の炉はエネルギーの供給を断たれ、内側から圧壊した。
そして、星の生命力を遮断するために建てられていたあの黒い防壁は、大地そのものの脈動に耐えきれず、根底から粉砕されたのだ。
「僕たちが……あそこを、壊したのか……?」
アルトが息を詰まらせて呟いた。
少年に都市を滅ぼす意図などなかった。
ただ、追放された森の片隅で、拾った小枝とガラクタで自分たちの居場所を作っていただけだった。
だが、少年が「生きるために」回した青銅歯車の一回転は、世界を不当に支配していた旧文明の心臓を、音もなく握り潰していたのだ。
傍らに立つシロが、静かにアルトの太ももに頭を寄せてきた。
その金色の瞳は、遠くの爆炎を憐憫の欠片もなく見つめていた。
背中の蒼い幾何学模様が、静かに、優しく脈打っている。
シロの瞳は語っていた。
滅びるべきものが滅び、生まれるべきものが生まれる。
それはただの、星の自然な新陳代謝にすぎないのだ、と。
望遠鏡の向こう、燃え盛るオルディス防壁都市から、もう黒煙すら上がらなくなっていた。
紫のプラズマがすべての大気を焼き尽くし、やがて灰白色の沈黙が、廃墟となった街を覆い始めていた。
かつてアルトを拒絶し、蹴り出した世界は、完全に消滅した。
遠くの空から、燃え尽きた都市の灰が、白い雪に混ざってチラチラと森の梢へと舞い落ちてくる。
だが、その灰の雪すら、上層温室の透明な結晶パネルには一筋の煤も残さず、滑り落ちていった。
アルトは望遠鏡から離れ、空を見上げた。
吹雪はいつの間にか止み、厚い雪雲の切れ間から、冬の澄み切った群青の空と、眩しい太陽の光が、大樹のツリーハウスへと降り注いでいた。
少年は手摺りを強く握りしめた。
もう、振り返る過去はどこにもない。自分を傷つけ、否定した大人たちの世界は、自らの業によって燃え尽きた。
世界がどれほど崩壊しようと、この緑の梢の上に、自分とシロの永遠の王国を築き続けるだけだ。
胸の装甲の冷たい感触を確かめながら、少年は静かに前を見据えた。
大樹の青銅歯車が、遠い星々の鼓動と波長を合わせるように、チ、チ、チ……と確かな未来を刻み続けていた。




