第061話:森を割る乾いた叫び
夜明け前の森は、すべてが凍りついていた。
大気中の水分が白い結晶となって枝々にまとわりつき、深緑の葉の輪郭を白銀に縁取っている。
息を吐けば、肺の中から吐き出された熱がそのまま真っ白な煙となって空間に漂い、指先は手袋越しでも針で刺されたように痛んだ。
だが、地上七・五メートルの上層デッキに立つアルトの視線は、冬の厳寒よりも遥かに冷たかった。
――ガサリ、ザッ、ザッ……
森の外縁部。霜柱を踏み砕く乱暴な足音が、昨夜の数倍の規模で近づいてきていた。
手製望遠鏡を覗くまでもない。
木々の隙間から見え隠れする人影は、三十人を優に超えていた。
「本当に、戻ってきたな」
アルトは静かに呟いた。
昨夜、足元五ミリに威嚇射撃を叩き込まれて逃げ出したあの元徴税兵の男が、先頭に立っていた。
男の背後には、同じように軍服を崩した脱走兵たちが十数人、そして貧民街で斧やナタを略奪してきた凶暴な暴徒たちが二十人近く付き従っている。
彼らの手にあるのは、昨夜のような威嚇の松明だけではなかった。
大木を挽き倒すための二人引きの大鋸、重い両刃の伐採斧、そして油を詰めた陶器の壺に布切れを突っ込んだ粗末な火炎瓶。
対話の余地など、最初から存在しなかった。
彼らの目的は交渉でも物乞いでもない。大樹を根元から切り倒し、火を放ち、アルトとシロを皆殺しにして、蓄えられた食糧と暖を奪い尽くすことだった。
「おい、急げ! あの大樹さえ倒せば、冬を越せるだけの肉と果物が手に入るぞ!」
「あんな小汚いガキと犬っころ一匹だ! 数で押し潰せ!」
「木の下から火を焚き付けりゃあ、煙でいぶされて泣きながら落ちてくるさ!」
男たちの下卑た怒号が、静謐な朝の空気を汚していく。
彼らの目は血走り、頬はこけ、飢えと寒さで極限まで精神をすり減らしていた。
都市の中央で魔力炉が爆発し、食糧配給が途絶えたオルディス防壁都市では、すでに弱者から順に殺し合いが始まっているのだろう。
かつて都市の秩序を誇り、魔力を持たない者をゴミのように蹴り出していた大人たちが、今やただの野蛮な略奪者へと成り果てていた。
「シロ、合図があるまで絶対に飛び出すなよ」
アルトは足元に控えるシロの首筋に手を置いた。
シロは低く一度喉を鳴らし、その金色の瞳に冷徹な知性の光を宿して頷いた。背中の蒼い幾何学模様が、冷気のなかで微かに明滅している。
アルト自身、取り乱す様子は微塵もなかった。
怒りも、怯えも、復讐の興奮すらなかった。
少年の心は、まるで氷点下の小川の底のように澄み切っていた。
鹿革の防護ベストの紐を締め直し、腰の矢筒からトリカブトの麻痺毒を塗った十本の矢を抜き、手摺りの窪みに並べる。
そして、展望デッキの手元にある、三本の細い麻ロープへと視線を落とした。
そのロープは、大樹の枝を潜り、森の小径の要所へと張り巡らされた「防衛トラップ」の起動ワイヤーだった。
侵入者がやってくることは、昨夜の時点で分かっていた。
アルトはこの半日のあいだ、居眠りひとつせず、森の地形と物理の法則をフル活用した迎撃トラップを森の各所に仕掛け終えていたのだ。
トリガーには、硬いツゲの木を削り出した「木製シア(逆鉤)」を組み込んである。わずか数ミリの爪をワイヤーで弾くだけで、青銅歯車で樹上高くへと巻き上げて固定しておいた数百キロの重錘が瞬時に解放される、信じられないほど敏感で確実な発火装置だ。
矢尻に塗ったトリカブトの毒にも工夫を凝らしていた。水溶性の毒液は風乾すると剥がれ落ちやすいため、鹿の脂と松脂を湯煎して混ぜ合わせた粘着性のペーストに毒の粉末を均一に練り込んであった。これならば、枝葉をかすめても毒が落ちず、獲物の皮膚や衣服を切り裂いた瞬間に体温で溶け出して即座に傷口へと浸透する。
侵入者たちが、森の境界線を越えて五十メートルほど踏み込んだ。
両脇に切り立った岩肌が迫り、道幅が一気に狭まる「隘路」へと、三十人の集団が密集して足を踏み入れる。
「今だ」
アルトは一番右側の麻ロープを、腰の小刀でスパッと切断した。
――パツンッ!
樹上の滑車を支えていたクサビが弾け飛んだ。
次の瞬間。
――ビュンッ!!
――ドガアアアアンッ!!
切り立った崖の上から、直径三尺(約九十センチ)、長さ二間(約三・六メートル)もある巨大なナラの丸太が、強靭な藤蔓のロープに吊るされたまま、巨大な振り子のように宙を薙ぎ払って落下したのだ。
丸太は地面すれすれの空間を爆音とともに横断し、先頭の脱走兵たちの目の前の地面を抉り取った。
跳ね上がった土砂と砕けた凍土が、男たちの顔面を容赦なく打ちのめす。
「うわあああっ!?」
「な、なんだぁっ!?」
先頭集団が蜘蛛の子を散らすように左右へ飛び退き、後続の暴徒たちと激突して折り重なるように倒れ込んだ。
だが、それだけでは終わらなかった。
振り子の丸太が最下点を通過した瞬間、連動していた地上のアカガシのしなり罠がパチンと跳ね上がった。
地面に敷き詰められていた落とし枝が跳ね飛び、侵入者たちの背後の退路に、崖の上から崩れ落ちた数百キロの玄武岩の巨石群が雪崩を打って落下した。
――ズズズズズ……ドッシャアアアンッ!!
後方が完全に塞がれた。
侵入者三十人は、前方を巨大丸太に阻まれ、後方を瓦礫に遮られた狭い岩の回廊の中へと、完全に閉じ込められたのだ。
「罠だ! 退け、退けッ!」
「後ろが塞がれてるぞ! 出られねえ!」
男たちの間に、一瞬にして恐慌が広がった。
恐怖で目を血走らせた元徴税兵のリーダーが、軍刀を振り回して叫ぶ。
「狼狽えるな! 上だ、あのクソガキが木の上から糸を引いてやがる! 火炎瓶を投げろ! 木を焼き払えッ!」
暴徒の数人が、油の詰まった陶器壺に火を灯し、地上七・五メートルの上層デッキへと投げ上げようと腕を振りかぶった。
その瞬間。
――ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ……!!
空気を裂く鋭い風切り音が、三連撃で鳴り響いた。
アルトが放った矢だ。
狙いは心臓ではない。
火炎瓶を振りかざした三人の男たちの「右肩の関節」だった。
研ぎ澄まされた鉄鏃矢は、分厚い外套を容易く貫通し、肩の腱を正確に断ち切った。
「ぎゃああああっ!?」
「腕が……腕が動かねえええっ!!」
男たちは悲鳴を上げ、取り落とした火炎瓶が足元の凍土で破裂した。
激しい炎が男たちの足元で燃え上がる。
矢の先端に塗られていたトリカブトの濃厚な麻痺毒が、傷口から血管へと瞬く間に回っていく。
肩を射抜かれた男たちは、数秒も経たないうちに四肢の痙攣を起こし、舌を痺れさせ、白目を剥いて地面へと崩れ落ちていった。
「ひぃっ……!? 毒だ! 矢に毒が塗ってあるぞ!」
「あいつ、本当に子供かよ……!? 化け物だ!」
男たちの戦意は、完全に瓦解した。
相手が見える戦いなら、数で圧倒できる。
だが、見えない樹上から、一撃必殺の精度で関節を射ち抜かれ、仲間が次々と泥水の中に倒れて痙攣していく恐怖に、飢えた暴徒たちの精神は耐えられなかった。
アルトは四本目の矢を番え、今にも逃げ出そうと岩壁をよじ登りかけていたリーダーの男を見据えた。
風を読み、呼吸を止める。
――パツン。
矢は男の左太ももの筋肉を深々と射ち抜いた。
「ぎゃあっ……ッ!!」
男は岩壁から転落し、泥濘の中に背中から叩きつけられた。
太ももを押さえて脂汗を流しながら、男は恐怖に引き攣った顔で、上層デッキのアルトを見上げた。
地上七・五メートルの手摺りから、アルトが静かに見下ろしていた。
その瞳には、侮蔑も、嘲笑もなかった。
ただ、庭に湧いた害虫を駆除したあとのような、徹底した「無関心」だけが漂っていた。
「……言ったはずだ。一歩でも踏み越えれば容赦はしないと」
少年の声は静かだったが、岩壁に反響して男たちの鼓膜を冷たく打った。
「動ける者は、倒れた者を連れて立ち去れ。五つ数えるうちに森を出なければ、次は全員の喉笛を射ち抜く」
「ひっ……!」
五つ数える暇など必要なかった。
軽傷の男たちは、毒で痺れて動けない仲間たちを慌てて引きずり起こし、瓦礫の隙間を這いずるようにして、脱兎のごとく森の外へと逃げ出していった。
負傷したリーダーの男も、仲間に肩を担がれ、泥まみれになりながら、二度と振り返ることなく敗走していった。
森を切り裂いていた下品な罵声と叫び声は消え去り、あとには再び、凍てつく冬の朝の静寂だけが残された。
アルトは弓を下ろし、ゆっくりと息を吐き出した。
地上へと降りたアルトは、シロとともに隘路へと向かった。
雪と泥の混ざった地面には、逃げ去った侵入者たちが放り出していった大量の道具が散乱していた。
重い両刃の伐採斧が三挺、二人引きの頑丈な大鋸が一挺、そして脱走兵が落としていった鍛造鋼の軍刀が一本。
都市から持ち出された、高品質な鉄と鋼の塊。
森では手に入らない貴重な金属資材だ。
「……無駄にはしないよ」
アルトはそれらの刃物を丁寧に拾い集めた。
人を殺すための武器は、炉で焼き直せば、最高級のノミやカンナの刃、頑丈な手工具へと生まれ変わる。
奪いに来た者たちから、逆に最上の資材を収穫する。それは過酷な自然界の食物連鎖と同じ、冷徹で合理的な循環だった。
手のひらに残る弦の感触。胸の装甲の冷たい重み。
少年は自らの手をじっと見つめた。
人を撃った。
かつて都市で怯えていた大人たちを、自らの作った罠と弓矢で完全に叩きのめし、敗走させた。
だが、罪悪感は欠片も湧いてこなかった。
手の震えすらなかった。
あるのは、自分とシロの居場所を、自らの知恵と腕力で完全に守り抜いたという、研ぎ澄まされた静かな誇りだけだった。
傍らに歩み寄ったシロが、アルトの手のひらに温かい鼻先を押し当ててきた。
その金色の瞳が、深く、静かに頷いていた。
人間社会のルールや偽善は、この境界の森には届かない。
ここは、自らの生命に責任を持つ者だけが生きることを許される聖域。
少年は今朝、人間社会の子供としての殻を完全に脱ぎ捨て、この森の真の支配者としての第一歩を、血と鉄の味とともに踏み出していた。




