第055話:水力動力の完成、小川の水車
燻製小屋の完成によって、冬のタンパク質と脂肪の確保には目処が立った。
だが、肉だけでは生きられない。人間が生きていくためには、炭水化物――腹を満たし、即効性のエネルギーとなる「穀物の粉」が不可欠だった。
森には恵みが溢れていた。
秋の足元には、マテバシイやコナラのドングリ、トチの実が数え切れないほど落ちており、さらに森の奥の陽だまりの斜面には、かつて誰かが耕していたのか、野生化した古代小麦の穂が黄金色に実っていた。
アルトとシロは麻袋いっぱいにこれらの実を刈り集め、下層テラスへと運び込んだ。
しかし、集めることと食べることは別問題だった。
ドングリや小麦を粉にする作業は、人間の肉体を極限まで摩耗させる過酷な重労働だったのだ。
ドングリは殻を割り、渋抜きをして乾燥させたあと、重い石臼で細かくすり潰さなければならない。古代小麦もまた、硬い殻を脱穀し、粒を砕いて篩にかけなければ、パンや粥の材料にはならない。
アルトは手持ちの小さな手挽き石臼を使い、棒を握って何時間も回し続けた。
――ゴリ、ゴリ、ゴリ……
半日かけて腕が鉛のように重くなり、掌に水ぶくれができても、得られる粉は掌に二杯分程度。
これでは、粉を挽くために消費したカロリーの方が、得られる栄養よりも多くなってしまう。
「手で回すのは限界だ。……僕が寝ている間も、代わりに臼を回し続けてくれる『腕』が必要だ」
アルトの視線は、基地のすぐ脇を流れる清流へと向けられた。
大樹の根元にある青銅歯車は、樹上へ巨石や丸太を巻き上げる「間欠的な超大トルク」に向いている。だが、日常的に昼夜を問わず、一定のリズムで動き続ける製粉作業には、絶え間なく流れ続ける「川の水流」こそが最適だった。
「水車を作ろう。川の力で、石臼を回すんだ」
アルトは直ちに、小川の地形の測量に入った。
大樹から歩いて三十歩ほどの場所に、川幅が狭まり、岩の間を抜けて落差と流速が一気に増す小さな滝のような段差があった。
ここに水車を据えれば、水の勢いを最大限に羽根で受け止めることができる。
アルトが設計したのは、水流が車輪の下側を潜り抜けて羽根を押す「下掛け水車」だった。
材料には、水に濡れても腐りにくいヒノキとサワラの木材を選んだ。
まず、直径六尺(約一・八メートル)の車輪のフレームを作る。
中心のハブ(車軸受け)から八本の頑丈なスポークを放射状に伸ばし、外周に曲げ木で作った二重のリム(外枠)を固定する。
スポークの間には、水流をしっかりと受け止めるための平たい羽根板を八枚、均等な角度で嵌め込んだ。羽根板の表面には松脂を塗り重ねて耐水性を強化してある。
主軸となる丸太の両端には、川原で拾った硬い青銅パイプをスリーブとして打ち込み、川岸の岩盤に組んだ軸受け台に据え付けた。軸受けの摩擦面には、秋鹿の解体で手に入れた純度の高い鹿脂を塗りたくる。指一本で触れるだけで、車輪は静かに回転する極上の滑らかさを実現した。
さらに、水流を無駄に散らさないため、川の上流に石と丸太で小さな堰を築き、ヒノキの板を組んだ幅二尺の「木製導水路」を作った。
大雨や増水時に水車が破損しないよう、余分な水を逃す「バイパス水路(余水吐き)」と、木の板を抜き差しして水量を調整できる水門も設置した。
水門の手前には、編みカゴを沈めた「流水晒し槽」も併設した。割ったドングリの実はそのままではタンニンが多くて渋くて食べられないが、この清流の冷たい水に数日間浸して晒し続けることで、川の流れが自然と渋みを洗い流してくれる。人間の手を一切煩わせない、自然の浄化作用を利用した加工場だ。
川の水を一箇所に集め、落差をつけて勢いよく水車の羽根板の真下へと叩きつける構造だ。
だが、アルトの工夫はそれだけにとどまらなかった。
ただ水車を回すだけでは、回転運動しか得られない。
ドングリの脱穀や粉砕には、上から重い杵をドスンドスンと落とす「打撃力」が必要であり、小麦の製粉には一定速度で水平に回る「回転力」が必要だ。
アルトは水車の回転軸の先に、二つの異なる変換機構を組み込んだ。
第一の機構は、「から臼(水車唐臼)」だ。
回転軸の側面に、太い樫の木の突起――「カム」を二本突き出させた。
軸が半回転するたびに、このカムがシーソーのように組んだ丸太の端を押し下げる。すると、反対側の端に取り付けた重さ十キロの硬いアカガシの杵が持ち上がり、カムが外れた瞬間に自重でドスンと石の鉢の中へ落下する。
水車が回る限り、規則正しく杵が上下を繰り返し、ドングリや麦を自動で搗き砕く仕組みだ。
第二の機構は、回転運動を水平から垂直へと九十度曲げる「木製クラウンギア(冠歯車)」だ。
水車の水平軸の端に、櫛の歯のように丸棒を並べた歯車を取り付け、それと噛み合う垂直軸を立てる。
その垂直軸の頭上に、川原の平らな花崗岩をノミで丸く削り出して作った、直径二尺の重い「回転石臼」を据え付けた。
上側の石臼には漏斗状の木製ホッパーを取り付け、粒を流し込めば、水車の回転に合わせて自動で擦り合わされ、外周の溝から粉となって吐き出される。
工事は五日間に及んだ。
シロは水飛沫を嫌うこともなく、冷たい川原に立ち、アルトが石を積むのをじっと見守っていた。時には水中に落ちた道具を器用に口で拾い上げ、濡れたアルトの手のひらを温めるように鼻先を寄せてくれた。
「……よし。導水路のゲートを開けるぞ!」
アルトは上流の木製堰の板を力いっぱい引き上げた。
――ザザザザザザーッ!!
堰き止められていた清流が、一気にヒノキの導水路へと流れ込んだ。
水路を滑り落ちた激流が、水車の最下部の羽根板を直撃する。
――ギギッ……ドォン……
巨大な木製車輪が重い慣性を振り切り、ゆっくりと動き出した。
一回転、二回転。水流のトルクが車輪を捉え、やがて一定の心地よい速度で回転を始める。
――ザッパァン、ザッパァン……!
水飛沫が午後の木漏れ日を浴びて虹色の光の粒を撒き散らした。
そして――
――ゴットン……ドスゥン!
――ゴットン……ドスゥン!
水車軸のカムがテコを弾き、重い樫の杵が石鉢の中へと力強く振り下ろされた。
鉢の中に入れてあった乾燥ドングリが、容赦ない打撃を受けて一瞬で粉砕され、硬い外皮が弾け飛ぶ。
さらに、垂直軸のクラウンギアがカチャカチャと心地よい木音を奏でながら石臼を回し始めた。
ホッパーから吸い込まれた古代小麦の粒が、花崗岩の溝の間ですり潰されていく。
「……出た……!」
アルトは石臼の受け皿に膝をつき、思わず声を漏らした。
石臼の隙間から、まるで生まれたての粉雪のように白く、柔らかな小麦の粉が、サラサラと途切れることなく零れ落ちていたのだ。
指先ですくい取ってみる。
手挽きの時とは比べ物にならないほど微細で均一な粒子。水車の一定した回転速度が生み出す、職人の極上の粉だった。
アルトが何もしなくとも。
ただ川が流れているだけで、大地の恵みが勝手に砕かれ、命の糧へと変わっていく。
「シロ、見てくれ! 僕たちが何もしなくても、粉ができるぞ!」
アルトは粉まみれになった手でシロの首筋を抱きしめた。
シロは石臼から溢れ出る粉の匂いをクンクンと嗅ぎ、低く満足げに喉を鳴らした。
その日の夕暮れ、上層デッキの焚き火台では、小さな祝宴が開かれた。
挽きたての小麦粉とドングリ粉を半々に混ぜ、少量の塩と水、そして鹿の燻製から溶け出した脂を練り込んで薄く伸ばした生地。
それを平らな熱した石板の上で両面こんがりと焼き上げた「平焼き無発酵パン(フラットブレッド)」だ。
香ばしい穀物の香りが、秋の夜風に乗って広がる。
「熱いから気をつけてな」
ちぎった一切れをシロに差し出すと、シロはフーフーと鼻息をかけながら、器用に口に放り込んだ。
サクッ、モチッ……
シロの咀嚼音が響く。その金色の瞳が、かつてない至福の光を宿してアルトを見つめ返した。
アルトも自らのパンを頬張った。
外側はカリッと香ばしく、内側はもっちりとしていて、ドングリの素朴な甘みと小麦の滋味、そして鹿脂の濃厚なコクが一体となって口いっぱいに広がった。
噛み締めるたびに、胃袋の底から温かい力が湧き上がってくる。
オルディス防壁都市で、カビの生えた黒パンの屑を奪い合っていた記憶が、遠い前世の出来事のように霞んでいく。
夜の静寂の中、小川の方角から、規則正しいリズムが響いていた。
――ゴットン……ドスゥン……
――ザッパァン、ザッパァン……
それは森の呼吸と一体化した、機械の心音だった。
人間を縛り付けるための機械ではない。少年の自由と尊厳を守るために、自然の力を借りて動き続ける優しい鼓動。
だが、その水車の導水路の真下。
激流に削り取られた川底の泥の中から、太い青銅の管――大樹の根元へと続く、見たこともない古代のパイプラインの継ぎ目が、青白い燐光を帯びてわずかに姿を現していた。
水車の振動が、大地の奥底に眠る神話の神経系を、さらに深く刺激し始めていたことを、少年はまだ知らなかった。




