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第054話:燻製小屋と、秋鹿の肉

梢を渡る風の冷たさが、日ごとに鋭さを増していた。

 木々の葉は緑から黄金色、そして燃えるような朱色へと染まり、森の足元にはドングリやトチの実が雨のように降り注ぐ季節――秋が深まりつつあった。

 オルディス防壁都市で物乞い同然に暮らしていた頃、秋は常に「死へのカウントダウン」だった。

 冬が来れば、貧民街の路地裏には凍死した孤児や老人の死体が転がる。石畳の下水溝は凍りつき、パンの配給は途絶え、空腹で胃袋が自分の内臓を消化してしまいそうな激痛にのたうち回るのだ。

 だが、この森は違う。

 秋は、大地が一年で最も豊かに実り、蓄える季節だった。


「冬が来る前に、肉と脂を固めておかないと」

 地上テラスの作業場で小刀を砥石に当てていたアルトの元へ、カサリと落ち葉を踏む音が近づいてきた。

 振り返ると、シロが大きな獲物を引きずって帰還したところだった。


「……うわ、大きいな……!」

 アルトは息を呑んだ。

 シロが仕留めてきたのは、見事な枝角を持った大人の雄鹿――秋の「肥え鹿(こえじか)」だった。冬眠を前に木の実を飽食し、毛並みは艶やかで、首回りから臀部にかけて分厚い皮下脂肪を蓄えている。

 シロの狩りは常に完璧だった。獲物の喉笛を一撃で正確に断ち切り、肉を痛めず、無駄な苦しみを与えない。

 シロは自慢げに尾を振ることもなく、アルトの足元に鹿の巨体を横たえると、その金色の瞳で「さあ、お前の番だ」と告げるように見つめてきた。


「ありがとう、シロ。大事に食べるよ」

 アルトは鹿の温かい毛並みにそっと手を当て、大地の恵みに短く祈りを捧げた。

 解体は時間との勝負だ。体温が残っているうちに内臓を抜き、血を抜き、肉を冷まさなければ、臭みが回り、腐敗が始まってしまう。


 アルトは砥ぎ澄ました小刀を逆手に構え、鹿の皮を剥ぎ始めた。

 ――スーッ、サクッ……

 刃先が皮と肉のあいだの薄い結合組織を滑らかに切り裂いていく。かつては骨に刃が当たって刃こぼれさせたり、皮を破いてしまったりしたが、今のアルトの手先は迷いを知らない。

 剥ぎ取った厚い鹿革は、ただ乾かすだけでは板のように硬くなり、湿気を吸えば腐ってしまう。アルトは川原で木製の木槌を振るい、皮の裏側に残った余分な脂肪や肉片を丹念に削ぎ落としたあと、木灰を溶かしたアルカリ性の灰汁(あく)に数日間浸して毛根を緩め、毛をこそげ落とした。さらに、森のクリやカシの樹皮を煮出した濃厚な渋液(植物タンニン)に漬け込んで「鞣(なめ)し」を行う。この手間暇をかけることで、鹿革はしなやかで強靭な、雨風を弾く極上の防寒素材へと生まれ変わるのだ。

 腹を割いて内臓を傷つけずに取り出し、心臓とレバーは鮮度が命なのでその日の夕食に分けた。

 大腿部の分厚いモモ肉、背中の上質なロース肉、バラ肉の塊。

 肉を骨から切り離し、部位ごとに丁寧に切り分けていく。

 骨は捨てない。大鍋で煮込めば、濃厚な骨髄のエキスが溶け出した極上の白濁スープが何日分も取れる。割った大腿骨からトロリとした骨髄をスプーンで掻き出し、野生の野蒜(のびる)や干しキノコとともにコトコトと弱火で煮込むと、黄金色の脂が表面に浮かぶ芳醇なスープが出来上がった。ひとさじ啜るだけで、五臓六腑に染み渡るような熱と滋養が全身を巡る。腱は干して弓の弦や強靭な縫い糸になる。

 生命のすべてを、無駄なく自分たちの血肉に変える。


 だが、この数十キロにも及ぶ上質な赤身肉を、どうやって冬まで持たせるか。

 塩漬けだけでは塩がいくらあっても足りない。

 必要なのは、「燻製(スモーク)」による長期保存だった。


「ただ焚き火の上で炙るだけじゃ、表面が焦げて中が腐っちゃう。ちゃんとした燻製小屋を作ろう」

 アルトが選んだのは、熱で肉を焼かずに煙の成分だけでじっくり水分を抜き、殺菌する「冷燻(れいくん)」と「温燻(おんくん)」を使い分けられる本格的な構造だった。


 大樹の根元から少し離れた風通しの良い斜面に、アルトは石積みの小屋を築いた。

 川原から集めてきた耐火性の高い玄武岩をノミで割って四角く整え、川原の赤粘土に刻んだ枯れ草と砂を混ぜて練り上げた特製の耐火漆喰で隙間を塗り固めていく。粘土に草の繊維を混ぜることで、熱で乾燥した時のひび割れを防ぐことができる。

 下部に「火床(燃焼室)」を掘り、そこから五尺(約一・五メートル)ほど斜面を登った高台に、平らな割石と川原の耐火粘土を漆喰代わりに練り合わせた「燻煙室(スモークチャンバー)」を据える。

 火床と燻煙室の間は、平たい石で蓋をした地下の煙道(トンネル)で繋いだ。

 こうすることで、炎の直接の熱は煙道を抜ける間に冷まされ、純粋な「煙」だけが高台の燻煙室へと送り込まれる。肉の温度を三十度から五十度の適温に保ちながら、じっくりと数日間燻し続けることができる仕組みだ。

 燻煙室の内部には、サクラの若木を削って作った横木を何本も渡し、肉を吊るすためのS字フックを取り付けた。

 小屋の頂部には、煙の抜け具合を調整できる木製のダンパー(空気弁)付きの小さな煙突を設けた。


 下ごしらえも入念に行った。

 切り分けた鹿のモモ肉とロース肉の塊に、塩と、森で採取して乾燥させておいた野生のジュニパーベリー(ネズの実)、タイム、セージの原種を粉末にして擦り込む。

 香草のスパイシーな香りが肉の臭みを消し、塩が余分な水分を引き出す。

 丸一日寝かせて塩が馴染んだ肉を、清流の水でさっと塩抜きし、風通しの良い日陰で表面が飴色に乾くまで風乾させた。

 表面が乾いて薄い皮膜(ペリクル)が張らなければ、煙の粒子が綺麗に乗らないのだ。


 そして、燻煙の火入れの日。

 使う木材(スモークウッド)にも妥協はなかった。

 松や杉などの針葉樹はヤニが多くて苦味が出るため、絶対に避ける。

 アルトが集めたのは、森の倒木から採取した乾燥したヤマザクラの木片と、オニグルミの樹皮だった。サクラは肉に美しい赤褐色の色合いと甘い芳香を与え、クルミは深みのあるコクを煙に宿す。


 火床に小さな炭火を熾(おこ)し、その上に湿らせたサクラとクルミの木屑を被せる。

 ――ジュウッ……と小さな音がして、火床から白く立ち上る濃厚な煙。

 煙道を通って冷やされたその煙は、石積みの燻製小屋の内部へと吸い込まれ、吊るされた肉塊を包み込んでいった。

 煙突の弁から、甘く香ばしい極上の薫煙が、秋の青空へと一筋の白い糸のように立ち上る。


「……いい匂いだ」

 アルトは煙突の隙間から漂う香りに、思わず喉を鳴らした。

 シロも燻製小屋の前に伏せ、煙突を見上げながら、クンクンと鼻を鳴らして前足の間に顔を埋めている。その姿は、ごちそうを心待ちにする無邪気な子供のようだった。


 燻煙は、二昼夜にわたって続けられた。

 アルトは夜間も交代で起きて火床の様子を確認し、木屑を足して煙の量を一定に保った。

 そして三日目の朝。

 火が完全に落ち、小屋の内部が冷めたのを見計らって、アルトは燻製室の木の扉をゆっくりと開いた。


 ――ふわぁっ……!


 閉じ込められていた濃厚な燻製の芳香が、朝の冷気の中に解き放たれた。

 小屋の中に吊るされていた肉は、見事な変貌を遂げていた。

 赤身の鹿肉は、深いマホガニー色――磨き上げた銘木のような濃い琥珀色に染まり、表面は引き締まって艶やかな光沢を放っている。

 指で押すと、適度な弾力を残しながらも余分な水分が抜け、保存食としての完璧な硬さを得ていた。


「できた……! 完璧だ!」

 アルトは一番大きなモモ肉の燻製を一本下ろし、小刀で薄く削ぎ落とした。

 切り口は、ルビーのように透き通った濃い赤紫色。

 アルトは一枚を口に放り込み、もう一枚をシロの口元へと差し出した。


「シロ、食べてみて」

 シロは待ちきれないように口を開け、肉片を舌で巻き取って奥歯で噛み締めた。

 次の瞬間、シロの金色の瞳がカッと見開かれた。

 ハフハフと熱心に咀嚼し、ゴクリと飲み込むと、もっとくれと言わんばかりにアルトの膝に前足を乗せてせがんできた。


 アルトもまた、自らの口の中の味に震えていた。

 噛み締めた瞬間、サクラとクルミの薫香が鼻腔を突き抜け、凝縮された鹿肉の濃厚な旨味が、唾液とともにジュワリと舌の上に溢れ出してきたのだ。

 硬すぎず、柔らかすぎず。噛めば噛むほど、秋の森の栄養と生命の力強さが全身の血肉へと染み渡っていく。

 オルディス防壁都市の貴族たちが大金を払って食べる乾燥肉よりも、はるかに野性味に溢れ、豊潤で、生きた味がした。


「これなら……冬を越せるどころか、最高の冬になるぞ」

 アルトは出来上がった何十本もの燻製肉を、上層デッキの乾燥庫へと吊るしていった。

 天井からずらりと並ぶ琥珀色の肉のカーテン。

 それは、飢えに脅かされることのない、真の自立の象徴だった。


 作業を終え、水瓶に汲んだ湧き水で顔を洗ったアルトは、水面に映る自分の顔をふと見つめた。

 そこに映っていたのは。

 かつて都市の路地裏で怯え、大人の靴音に震えていた、青白く痩せこけた捨て子の顔ではなかった。

 日焼けして引き締まった精悍な肌。

 重い木材と石を運び、刃物を研ぎ澄ます中で発達した頑丈な首と肩の筋肉。

 そして何より、その瞳には、自分の力で生き、相棒を守り抜く者だけが宿す、静かで揺るぎない野生の光が宿っていた。


 少年は、もう子供ではなかった。

 境界の森の深部で、自然と対話し、神話の遺物と呼吸を合わせる、若き「森の領主」の相貌がそこに完成しつつあった。

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