第056話:黒い金属の胸当て、少年の防具
住まいを固め、食糧を蓄え、動力を手に入れた。
だが、アルトの心には、拭いきれないひとつの「脆さ」が常に影を落としていた。
それは、自分自身の肉体だった。
基地がどれほど堅牢な要塞になろうと、アルト自身は骨と皮と肉でできた、ただの十四歳の少年にすぎない。
森で巨大な魔獣の爪を喰らえば、一撃で腹を裂かれる。
もし都市の兵士や、武器を持った凶暴な大人が森に侵入して矢を射掛けてくれば、粗末な麻のシャツ一枚など容易く貫かれ、心臓を穿たれて終わるのだ。
「自分の身を守る『殻』を作らないと……」
アルトが目を向けたのは、下層テラスの資材置き場に積んであった、あの「黒い金属板」だった。
春の訪れとともに枯れ谷で発見した古代遺跡――あの巨石回廊の周辺の崩落跡から、シロと一緒に掘り出してきた遺物のひとつだ。
その金属板は、一見すると黒曜石のように深い闇色をしていたが、光に透かすと青みがかった金属光沢を帯びていた。
幅はおよそ一尺(約三十センチ)、長さ二尺(約六十センチ)、厚さはわずか二ミリほど。
何より異様だったのは、その「軽さ」と「硬度」だった。
同じ厚さの鉄板に比べて半分以下の軽さしかないのに、アルトが持てる限りの力で鋼のタガネを当て、大槌で力いっぱい叩きつけても、表面にミリ単位の傷すら付かない。火打石で擦っても火花すら散らず、水に浸けて何日放置しても一筋の錆も浮かばない未知の古代合金だった。
「硬すぎて曲がらないなら、鎧の形に加工できないぞ……」
アルトは最初、頭を抱えた。
胸当てを作るには、人体の曲線――胸板の丸みや肋骨のカーブ、腰のくびれに合わせて金属を湾曲させなければならない。板のままでは体を曲げることもできず、戦うどころか歩くことすらままならないからだ。
アルトは下層テラスの炉に火を熾し、フイゴで風を送って炭火の温度を極限まで上げた。
通常の鉄なら真っ赤に軟化する温度にその黒い金属板を放り込んだ。
だが――金属板は赤熱すらしない。熱をまったく吸収せず、冷たい輝きを放ったままだった。
「熱してもダメなのか……?」
アルトが溜息をついて火箸で板を引き抜いた時、足元のシロがクンクンと鼻を鳴らし、前足を水桶の中に突っ込んだ。
そして、濡れた前足で黒い金属板の表面をペタリと叩いたのだ。
――ジュウッ……!
水滴が蒸発する音とともに、金属板の表面に淡い青い燐光が走った。
アルトは目を見張った。
「え……? 熱湯じゃなくて、冷たい水……?」
シロは金色の瞳でアルトをじっと見つめている。
アルトは直感に従い、川から汲んできたばかりの冷たい清流の水を、金属板の上にたっぷりと注ぎかけた。
すると、どうだろう。
熱した炉から出した直後の金属に冷水を浴びせた瞬間、板の内部で分子の結晶が組み変わるようなキーンという微細な高周波の音が鳴り響き、板が信じられないほど「しなやか」に撓み始めたのだ。
急冷による金属組織の変態。
熱ではなく、特定の急冷熱衝撃によってのみ、一時的に展性(塑性変形)を帯びる古代の形状記憶合金だった。
「今だ……ッ!」
アルトは平らな玄武岩の作業台の上に金属板を固定し、木槌を握り締めて叩き始めた。
――トントントン! コンコンコン!
心地よい打撃音が森に響く。
水を含んで柔らかくなった金属板は、少年の叩く力に応じて素直に延び、アルトの胸の形に合わせた滑らかな三次元の曲面を描いていった。
胸部を守る前胴、背中を守る背板、そして脇腹と下腹部を守る細長い小札のような短冊状のプレート。
冷気が完全に抜け、常温に戻った瞬間――
金属板は再びキィンと硬質な音を立て、二度と曲がらない絶対の硬度を取り戻した。少年の体型に完全にフィットした、オーダーメイドの胸当てプレートの誕生だった。
だが、アルトはこれを剥き出しで身につける気はなかった。
金属が剥き出しの鎧は、光を反射して森の中で敵に位置を知らせてしまう。それに、動くたびにチャラチャラと金属音が鳴れば、獣にも人間にも気配を悟られてしまうからだ。
アルトが選んだ構造は、「ブリガンダイン(内貼り装甲)」だった。
先日タンニン鞣しを終えた、しなやかで極めて頑丈な秋鹿の革ベスト。
厚手の革を自分の体型に合わせて切り出す作業にも、一切の妥協はなかった。
アルトは厚紙代わりに薄い木の皮を自分の胸に当てて型紙を取り、小刀の刃先で慎重に革を裁断した。
革の縫製には、通常の麻糸では強度が足りない。アルトは秋鹿の解体時に採取して乾燥させておいた「アキレス腱の繊維(シニュー糸)」を細かく裂き、水で湿らせて撚り合わせたものを使った。動物の腱は驚異的な引張強度を持ち、濡れて乾くと引き締まる性質があるため、縫い目が絶対に解けない。
針には、硬いイノシシの骨を砥石で鋭く削り出し、穴を開けた手製の革縫い針を用いた。菱目打ち(ひしめうち)の代わりに鋼のクギで等間隔に下穴を開け、二本の針を使って表裏から交互に糸を通す「サドルステッチ(鞍縫い)」で一針一針縫い進めていく。
その鹿革ベストの裏地に、成形した黒い金属プレートを隙間なく並べ、表から青銅の丸頭リベット(鋲)を打ち込んでガチガチに固定していった。
リベットの頭が革の表面に規則正しい幾何学模様のように並び、武具としての機能美を醸し出す。
さらに、内側の肌に当たる面には、森で刈り集めた柔らかい植物の綿毛と鹿毛を挟み込んだキルティング布を縫い付けた。
これで、衝撃が少年の肋骨に直接伝わるのを防ぐクッション性が確保される。
勢いに乗ったアルトは、胴体だけでなく、作業中の怪我や不意の襲撃を受けやすい「前腕」と「脛」を守る防具も作り上げた。
前腕を守る籠手は、ナタやノミが滑った時の防護を兼ねて、手首から肘までを覆う細長い黒色金属プレートを鹿革で包んだものだ。弓を射る際にも弦が腕を打つのを防いでくれる。
脛当ても同様に、森の切り株や鋭い藪から脚を守る頑丈な構造にした。
仕上げとして、鹿革の表面全体に、湯煎して溶かした蜜蝋と松脂、そしてクルミ油を混ぜ合わせた特製の「防水保革ワックス」を塗り込む。布で丹念に磨き上げると、革は深い森の苔のような落ち着いた艶を帯び、雨や泥水をツルツルと弾く完璧な対候性を獲得した。
肩と首回りには、可動性を損なわないよう、短冊状の金属板を革紐で綴り合わせた草摺構造を採用した。腕を振り上げても、前屈みになっても、装甲が少年の動きに吸い付くように追従する。
「……できた」
完成した防護ベストを手に持ったアルトは、その仕上がりに思わず見惚れた。
外見は、深い森の緑に染めた上質な鹿革の狩猟ベストにしか見えない。
だがその内側には、都市の騎士が身につけるどんな鋼鉄の甲冑よりも硬く、軽い、神話の装甲が潜んでいる。
アルトは麻のシャツの上から、その防護ベストに腕を通した。
前合わせを革紐でギュッと締め上げる。
――ピタリ。
吸い付くようなフィット感だった。
重さは、わずか二キロほど。身につけていることを忘れるほど軽く、重心が少年の体幹の中心にぴたりと定まる。
アルトはその場で跳び上がり、左右に身を捻り、全力で走ってみた。
音はしない。鹿革が擦れる微かな衣擦れの音だけで、金属の軋みは皆無だった。
呼吸も苦しくない。少年の胸郭の広がりを妨げないよう、計算し尽くされたカーブが肺の動きを優しく保護している。
「シロ、ちょっと試してみてくれ」
アルトが言うと、シロは察したように、鋭い前足の鉤爪をシャッと伸ばし、アルトの胸元へと素早く薙ぎ払った。
――ガキィンッ!
硬質な打撃音が響いたが、アルトの身体は一ミリも揺るがなかった。
鹿革の表面に白い筋がついただけで、裏地の黒い金属板はシロの強烈な爪撃を跡形もなく弾き返していた。
アルトは次に、研ぎ澄ました鉄の小刀を取り出し、自らの鳩尾に向かって力いっぱい突き立ててみた。
――カツンッ!
小刀の切っ先が滑り、刃先の方が小さく欠けた。
少年の肉体には、小突かれた程度の衝撃しか伝わってこない。
「すごい……! これなら、どんな刃物も通さない!」
アルトは拳を握りしめ、胸に手を当てた。
手のひらに触れる、冷たくも力強い装甲の感触。
それは単なる防具ではなかった。
世界から一方的に暴力を振るわれ、傷つけられてきた無力な子供が、自らの尊厳と生命を守るために手に入れた「拒絶の殻」だった。
作業を終え、アルトは小川の静かな淵に立ち、水面に映る自分の姿を見つめた。
緑の鹿革ベストを纏い、腰には研ぎ澄ました工具と小刀を佩き、背筋を真っ直ぐに伸ばした少年の立ち姿。
その隣には、銀白の神獣シロが、誇らしげに寄り添っている。
もう、誰にも脅かされない。
誰の理不尽な命令にも従わない。
自分たちの城と命は、自分たちの手で完璧に守り抜く。
だが、そのアルトの頬を、南西の方角から吹き抜けた冷たい風が撫でた。
風の中に、微かな異臭が混ざっていた。
枯草の焦げる匂いと、大勢の人間の饐えた汗の匂い。
森の境界線の向こう、オルディス防壁都市の周辺で、何かが崩壊し始めている兆しだった。
少年が鎧を手に入れたのは、決して偶然ではなかったかのように、激動の時代の足音が森の結界へと確実に迫っていた。




