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第043話:湯気の立つ木桶風呂

新しい声を手に入れたアルトの指先は、更なるクラフトの領域へとその手を伸ばしていた。

 極寒の原生林を生き抜くために、床暖房の完成に続いて彼が胸の奥に描き出したのは、大樹の樹上に作る「温かい露天風呂」だった。


 冬の森での労働は、過酷を極めた。

 毎朝の屋根の雪下ろし、カマドを焚き続けるための大量の薪割り、そして小川からの水汲み。厚手の毛皮の手袋をしていても、作業を終える頃には指先やつま先が感覚を失い、紫に変色しかけるほど凍てついていた。

 ツリーハウスの床暖房は室内の空気を春のように温めてくれたが、骨の髄まで冷え切った身体の芯を温め、労働で強張った筋肉を完全に解きほぐすには、熱い湯をたっぷりと張った風呂がどうしても必要だったのだ。


「木の上でお風呂に入ることができれば、どれだけ吹雪が荒れても、凍えた身体を芯から清められる」

 アルトが目をつけたのは、ツリーハウスが架かる大樹の南側――陽当たりが良く、真冬でも風が遮られて枝に雪が積もりにくい、地上四メートルの太い横枝の窪みだった。大人が両手を広げても抱えきれないほどの太い幹から、直角に近い角度で張り出した巨枝。その頑丈な足場は、重たい水と大人一人の体重を支えるのに十分な強度を持っていた。


 計画の第一歩は、巨大な木桶の制作だった。

 材料として選んだのは、秋の嵐の日に小川の上流から流されてきていた、樹齢百年の巨大なスギの倒木の幹だった。

 スギは針葉樹の中でも特に油分が多く、水に浸かっても腐りにくい。心材の赤身がぎっしりと詰まったその巨木は、長さ四尺(約百二十センチ)、太さはアルトが両手を回しても届かないほどの堂々たる丸太だった。


 アルトは川原の雪を払い、丸太の芯をくり抜く作業に取り掛かった。

 だが、分厚い生木を手作業の小刀や鉄ノミだけで彫り進めるのは、気の遠くなるような年月がかかる。アルトは火の力を借りることにした。いわゆる「火刳り(ひぐり)」の技法である。

 丸太の上面の中央に、真っ赤に熾したカマドの炭火を注意深く乗せる。乾いた竹筒を口にくわえ、息をフゥフゥと力強く吹き込んで火力を上げると、炭火はスギの木肌をじわじわと焼き焦がし、内側を少しずつ炭化させていく。

 木が炭に変わって脆くなった部分を、焼き直した硬い鉄ノミでガリガリと削り落とす。削り落とした窪みに再び炭を置き、風を送り、またノミを振るう。

 火で焼き、ノミで削り、灰を掻き出してはまた火を熾す。

 冷たい風が吹き抜ける川原で、アルトの額には玉のような汗が浮かび、吐き出す息は白く濁った。丸三日をかけた過酷な重労働の末、深さ三尺(約九十センチ)、大人一人が足を伸ばしてゆったりと肩まで浸かれる、滑らかな円形の「大木桶」が姿を現した。内壁の炭を削り落とし、仕上げ砥石の粉をつけた濡れ布で磨き上げると、スギの美しい赤褐色の木目が艶やかに浮かび上がった。


 だが、丸太をくり抜いただけでは、湯を張った瞬間に木が割れ、継ぎ目から湯が漏れ出してしまう。水漏れを防ぎ、熱に耐えるためのコーティングと補強が不可欠だった。

 アルトは森のアカマツの幹から採取した琥珀色の生松脂(まつやに)と、古い蜂の巣から煮出して精製した天然の蜜蝋(みつろう)を、地上のカマドの小鍋でじっくりと加熱した。

 パチパチと弾ける音とともに、甘く芳醇な香りが立ち昇る。松脂の強靭な粘着力と、蜜蝋のしなやかな撥水性を均一にブレンドした熱い液体を、動物の毛束で作った手製の刷毛で、木桶の内壁へと隙間なく塗り込んでいった。

 熱い樹脂はスギの導管の奥深くまでジュウジュウと音を立てて浸透し、冷えて固まると、琥珀色のガラスのように滑らかで、水を一滴も通さない完璧な防水被膜を形成した。

 さらに外側には、三つ編みに撚り合わせた強靭なツル縄を三段のタガとして巻き付け、隙間に硬いカシの木の楔を打ち込んでガチガチに締め上げた。これによって、湯の圧力で丸太が外側へ裂けるのを完全に防ぐことができる。


 完成した巨桶を地上から引き上げるのも、大仕事だった。

 アルトは大樹の梢に頑丈な動滑車を二段に掛け、太いツル縄を木桶の胴回りに回した。ロープの端を地上へと垂らし、アルトとシロが息を合わせて力を込める。

 アルトの低く通る掛け声と、シロの強靭な四肢の牽引力によって、数百キロはある木桶が、ギシギシと滑車を鳴らしながら宙を舞い、地上四メートルの横枝の上へと寸分の狂いもなく引き上げられた。

 枝の窪みに水平器のガラス瓶を当て、水平を完璧に合わせて据え付ける。

 仕上げに、地上のカマドの底石――あの古代の幾何学プレートから引いた温水循環パイプから真鍮の分岐管を伸ばし、木桶の底の給水孔へとしっかりと接続した。


 夕暮れ時。

 小川から汲み上げた清流の水を木桶いっぱいに満たし、カマドの底石の熱弁を開放した。

 ゴボゴボという低い沸騰音とともに、真鍮パイプから激しい熱が伝わり、木桶の底からもうもうとした熱々の湯が満ち始めた。


 ――フワァァァ……


 白銀の雪景色の中に、立ち上る濃密な真っ白な湯気。

 スギの木肌から溶け出した清々しい針葉樹の芳香と、蜜蝋の甘い香りが、冬の冷たい空気の中に溶け出して、ツリーハウスの南側一帯を優しく包み込んだ。

 大樹の梢に積もった雪が、昇り立つ熱気に触れてパラパラと雫となって舞い落ち、夕暮れの斜光を受けて金色の粒のようにきらめいている。


 アルトは麻のシャツとズボンを脱ぎ捨て、寒風の中に素肌を晒した。

 氷点下の冷気に肌が一瞬で粟立つ。

 そして――ゆっくりと、湯気の立ち込める湯船の中へと、その身体を沈めた。


「…………ハァァァァッ!!」


 思わず、太く低くなった声で、心の底からの歓喜のため息が漏れた。

 熱い湯が、つま先から、ふくらはぎ、太もも、そして腰へと波打って這い上がってくる。

 厳冬の労働で石のように強張っていた肩と背中の筋肉が、一瞬でほどけていくのが分かった。手足の指先の奥深くまで、熱い血液が一気に巡り、じんじんと心地よい痺れが全身を駆け抜ける。

 地上四メートル。

 湯船の滑らかな縁に腕を乗せ、見下ろす世界。

 夕焼けの鮮やかな茜色と黄金色に染まる一面の白銀の原生林。雪をかぶった梢の波を、静かに渡っていく冬の風。

 どれだけ風が冷たく吹き荒れても、首まで浸かったお湯が、少年の体温を鉄壁の鎧のように守ってくれる。

 天上の特等席。

 自然の猛威を力でねじ伏せるのではなく、知恵と技術によって手懐け、至福の時間へと変える――それこそが、アルトが目指した秘密基地の真髄だった。


 ――スッ。


 足音もなく、シロが湯船の縁に姿を現した。

 湯気に濡れた白銀の毛並みが、夕暮れの光を浴びて淡いピンク色に染まっている。

 シロは湯船に浸かるアルトの顔をじっと見つめると、躊躇うことなく、その太い前足を桶の中へと差し入れた。

 そして――ドボンと飛沫を立てることもなく、まるで水そのものと同化するようにして、湯船の中へと静かに身体を滑り込ませてきたのだ。


「あはは……シロ、お前もお風呂に入るの?」

 アルトが低く柔らかな声で笑うと、シロは気持ちよさそうに金色の目を細め、アルトの胸の横にすっぽりと身体を収めた。

 白銀の毛並みが湯の中でゆらゆらと花びらのように広がり、温水の中で背中の青い筋が淡いエメラルドグリーンの光を脈打たせている。毛皮に閉じ込められていた冬の冷気が湯に溶け、心地よい温もりへと変わっていく。


 至福だった。

 街の豪商や傲慢な貴族たちですら、こんな雪景色を見下ろす樹上の露天風呂など、夢想すらしたことはないだろう。

 彼らは高い石壁の中に閉じこもり、他者から奪った燃料で部屋を暖め、怯えながら冬を過ごしている。

 だが、森の追放者である自分たちは、森の恵みと古代の遺産を調律し、神々のような自由を謳歌しているのだ。


 けれど――

 湯船の底で、シロの前足がアルトの素肌の胸の中央に、ペタリと触れた、その瞬間だった。


 ――トクン……トクン……

 ――トクン……トクン……


 アルトの呼吸が、ぴたりと止まった。

 温かいお湯を媒介にして、自分の胸の鼓動と、シロの胸の鼓動が、寸分の狂いもなく完全に同じリズムで重なり合っていた。

 打鍵の強さも、間隔も、血液が全身を巡る速度すらも。

 どちらが自分の心臓で、どちらが相棒の脈動なのか、二つの肉体の境界線が、お湯の中で溶けて曖昧になっていくような強烈な錯覚。


 アルトが息を吸うと、シロの喉がゴロゴロと鳴る。

 シロが瞬きをすると、アルトの視界の隅で光の粒子が瞬く。

 大樹の根が吸い上げる大地の熱、底石が放つ星のエネルギー、そして二つの命の波長。

 それらすべてが、この丸太の木桶という小さな器の中で混ざり合い、ひとつの巨大な意識のゆりかごの中で、不可逆な融合を始めている。


 温かいはずの湯の中で、アルトの背筋に、甘く、けれど底知れない戦慄が走った。

 もう、後戻りはできない。

 僕たちは、世界から切り離されたこの場所で、ただの人間でも、ただの獣でもない、何か別の存在へと生まれ変わりつつあるのだと。

 立ち上る濃密な湯気の向こうで、冬の宵の明星が、冷ややかに、けれど祝福するように瞬いていた。

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