第044話:柱の傷、測ることをやめた日
梢から落ちる雪解けの雫が、ツリーハウスの屋根をトトン、トトンと規則正しく叩く春がやってきた。
原生林を半年近く覆い尽くしていた白銀の雪が急速に溶け、湿り気を帯びた黒い腐葉土が、あちこちで力強く顔を出し始めていた。
大気中には、半年ぶりに土の温かい匂いと、冬芽を破って一斉に芽吹き始めた若葉の甘い息吹が満ちている。
過酷を極めた厳冬を、少年と相棒は傷ひとつ負わずに生き抜いた。
大樹の幹を巡る床暖房は一度も凍結することなく温水を循環させ続け、樹上の露天風呂は労働で冷え切った二人の皮膚を芯から癒やし、屋根の煙突からは毎日欠かさず一本の澄んだ煙が青空へと立ち昇っていた。
食糧庫には、秋に仕込んだ干し肉や燻製、木の実の蓄えがまだ半分近く残っている。
自然の猛威に屈することなく、完全に自立した生活を維持し切ったという静かな誇りが、アルトの胸の奥に確かな芯となって根付いていた。
春の柔らかな日差しが差し込む午前、アルトは作業台の脇で、冬の間に自分で仕立て直した衣類を身につけていた。
かつてオルディス防壁都市から着の身着のままで放り出されたときの粗末な麻シャツは、とっくに擦り切れ、身体の成長に耐えられなくなっていた。今アルトが身につけているのは、森で採取した頑丈なイラクサの繊維を紡いで手織りした厚手のシャツと、冬の間に丁寧に脂抜きをして鞣した柔らかなシカ革のベストだ。
だが、その手製の服ですら、早くも窮屈になり始めていた。
袖に腕を通すと、肩口がパンと張り、手首の太い骨が袖口から二寸ほど突き出してしまう。
鏡代わりの静かな水桶に自分の姿を映してみれば、そこにはもはや、かつての小さく貧弱な少年の面影はなかった。
丸太を担ぎ、鉄ノミを振るい続けた背中には引き締まった筋肉が盛り上がり、首筋は太く、鎖骨のラインは角張って逞しい。
足元を見下ろせば、手彫りの木靴サボの上で、足首の関節が成人の男のように頑丈に締まっていた。
十二歳の終わり。
少年の肉体は、子供の殻を内側から打ち破り、完全にひとつの「脱皮」を遂げつつあった。
アルトはツリーハウスの中央を貫く、大樹の太い支柱の前に立った。
腰の革帯から、使い古した愛用の小刀を静かに引き抜く。
大樹の幹の樹皮には、去年の春、オルディス都市から追放された初日に、自分の小ささと無力さを忘れないようにと刻みつけた一番下の傷が残っていた。
アルトは指の腹で、その一番下の傷をそっとなぞった。
浅く、線の細い、弱々しい刻み目。
追放されたあの日、絶望と寒さに手元を震わせながら、泣きじゃくるようにして木肌に刻んだ傷だ。あの時の自分は、この深い森で冬を越せることなど想像すらできず、ただ明日の命に怯えていた。
そして、そのすぐ上――秋の収穫祭の日に刻んだ二番目の傷が、指三本分ほど高い位置に、琥珀色の樹液を固まらせて残っている。あの時は、カマドを作り、保存食を蓄え、シロと笑い合えるようになった喜びを噛み締めながら刻んだだった。
アルトは支柱に背中をピタリと当てた。
かかとを床板に揃え、背筋を真っ直ぐに伸ばす。
右手に持った小刀の峰を、頭のてっぺんに水平に乗せ、刃先を大樹の幹へと押し当てた。
――サクッ。
小刀の鋭利な切先が、乾いた樹皮に小さく食い込む感触が指に伝わった。
アルトは一歩前へ踏み出し、振り返ってその位置を確かめた。
そして、小刀の切先が触れていた真新しい跡を見て、小さく息を呑んだ。
秋の傷から――すでに頭半分、十センチ以上も高い位置に刃の跡がついていたのだ。
目を見張るような急成長。
厳冬のあいだ、過酷な肉体労働をこなし、床暖房の熱とシロとの精神同期によって細胞の隅々まで活性化されたアルトの肉体は、一般的な子供の成長速度を遥かに超えて伸びていた。
アルトは右手に握った小刀の刃を見つめた。
もう一度、背丈を刻むべきだろうか。
三番目の傷をここに刻み、自分がどれだけ大きくなったか、どれだけ子供から遠ざかったかを、大樹の柱に記録として残すべきだろうか。
切先を樹皮の跡へと戻そうとして――
アルトの手が、止まった。
「…………」
柱の古い傷を見つめ、それから、自分の厚くなった手のひらと太い指先を見つめる。
なぜ、測る必要があるのだろう?
自分が昨日より何センチ背が伸びたか、子供の身体からどれだけ遠ざかったか、そんな数字を木肌に刻みつけて、いったい誰に見せるというのか。
脳裏に、かつて暮らしていた街の情景が蘇る。
オルディス防壁都市の大人たちは、いつも数字ばかりに執着していた。
教会の大聖堂で、冷酷な神官たちがアルトの額に水晶を押し当て、『魔力測定値、ゼロ。適性なしの無能』と侮蔑を込めて宣告した、あの屈辱の記憶。
商人が天秤を細工して数え立てる金貨と銀貨の枚数。
役人が帳簿に書き連ねる徴税のパーセンテージ。
配給所で係員が冷たく量り分ける、泥の混じった干からびた黒パンの目方。
人間を数字で測り、数字に満たない者を「無能」「出来損ない」と蔑んで切り捨て、数字の多寡を巡って怒鳴り合い、奪い合い、殺し合っていた。
数字の檻の中に閉じ込められ、その枠からはみ出した者を冷酷に排除する、窒息しそうな世界。
けれど、この原生林の聖域には、そんな歪んだ物差しはどこにも存在しない。
昨日と今日で背丈が違おうとも、声が低く変わろうとも、身体がどれだけ大きく逞しくなろうとも、僕は僕であり、シロの唯一の家族であることに何の変わりもないのだ。
木々が冬の寒さに耐えて自然に年輪を重ねるように、川が春の陽光を浴びて自然に水量を増すように、ただ目の前の木を削り、土を耕し、相棒とともにこの森で生きていけばいい。
他人の物差しで自分を縛る必要など、最初からなかったのだ。
「……測らなくても、僕は僕だ」
アルトの口から、低く澄み切った声が静かにこぼれ落ちた。
小刀を大樹の柱からそっと離し、腰の革鞘へとカチリと納めた。
記録への執着を手放した瞬間、胸の奥を重く塞いでいた得体の知れない焦燥感と緊張が、春風に溶けるように消え去っていった。
少年の精神が、肉体の急激な成長に追いつき、静かにひとつの真の成熟を迎えた瞬間だった。
だが――その静寂を、世界の底から叩き割るような凄まじい地響きが切り裂いた。
――ズドォォォォォンッ……!!
大地が、跳ねた。
ツリーハウスの床板が激しく上下に波打ち、窓枠に嵌め込まれた琥珀色のガラス瓶がビリビリと悲鳴を上げて激しく共振した。
大樹の太い幹がギシギシと大きくきしみ、枝葉が猛烈な嵐に揉まれたかのようにざわめく。
遅れて、空気を引き裂くような猛烈な破砕音の轟きが、原生林の梢を激しく波打たせながら西から押し寄せてきた。
木々の間で羽を休めていた無数の鳥たちが、一斉に狂乱したような鳴き声を上げて春の空へと飛び立つ。遠くの山肌から、雪崩の鈍い地鳴りすら聞こえてきた。
「っ……シロ!」
アルトは咄嗟に手すりを掴んで踏ん張った。
シロが素早く駆け寄り、アルトの足元に並んで、耳をピンと立てて西の空を鋭く睨みつけた。
全身の白銀の毛並みが静電気を帯びたように逆立ち、背中を貫く蒼いラインが不穏な光を明滅させている。
二人は展望テラスへと駆け出した。
手製の反射望遠鏡を構えるまでもなかった。肉眼の視界の中に、信じがたい破滅の光景が焼き付けられていた。
西の地平線――オルディス防壁都市がある方角の空。
春の淡い青空を真っ黒に塗りつぶすようにして、巨大なキノコ雲のような赤黒い爆煙が、天を衝く勢いで吹き上がっていたのだ。
煙の根元からは、遠目にもはっきりと視認できるほどの真紅の炎が立ち昇り、地平線全体が夕焼けでもないのに血のような赤に染まり上がっている。
大気中を伝わってくる魔力の歪みが、肌をチクチクと刺すような嫌な刺激臭と静電気となって森にまで押し寄せていた。
「街の……魔力炉だ……」
アルトは息を呑んだ。
ついに、内圧の暴走が限界を突破したのだ。
かつてアルトが地下の整備坑道で毎日調律し、逃がし続けていた膨大な魔力の澱み。
アルトという安全弁を「無能」として追放した街は、暴走するエネルギーの制御を完全に失い、自らの傲慢と搾取のツケによって、都市の中枢を内側から爆破させたのだ。
風に乗って、遠くから微かに、何万人もの人々の悲鳴と、狂ったように乱打される警鐘の響きが、切れ切れに届いてきた。
かつて自分を石もて追い出し、泥水の中で嘲笑った人々。
けれど、その破滅の光景を見つめるアルトの瞳には、復讐の歓喜も、嘲笑も、そして同情や恐怖すらも湧き上がってこなかった。
ただ、冷たい氷水のように静まり返った、客観の光だけが宿っていた。
自業自得だ、と叫ぶ気すらない。
ただ、ひとつの傲慢な文明が、自らの重みに耐えかねて崩壊を始めたという冷然たる事実。
だが、それは同時に、新たな危機の幕開けを意味していた。
住処を失い、飢えと寒さに狂った人間たちが、やがて生き残りを求めて、この豊かな境界の森へと押し寄せてくるだろう。
「……シロ、砦を強くしよう」
アルトは静かに相棒の背中の銀毛に手を置いた。
シロが喉の奥で低く唸り、アルトの意志に応える。
世界の崩壊が、いよいよ最終段階に入った。
少年の砦の周囲に、春の風が焦土の不穏な匂いを運んで吹き抜けていた。




