第042話:変声期のざらつき、呼びかける声
床暖房が完成してから数日が過ぎた朝のことだった。
原生林の天蓋を揺らす冬の風は相変わらず猛烈で、地表では氷点下十度を下回る烈風が吹き荒れていたが、地上四メートルのツリーハウスの室内は、大樹の幹を巡る温水パイプの熱によって、まるで春の陽だまりのような微温と静寂に包まれていた。
カマドの底石から送られる温水は、真鍮パイプの内部を静かに循環し、トネリコの床板を足裏からじんわりと温め続けている。琥珀色のガラス瓶を通した柔らかな朝の光が、部屋の隅々に長い影を落とし、壁に吊るされた乾燥ハーブや干し肉の束を黄金色に縁取っていた。
だが、その満ち足りた静寂の中で、アルトの身体の内奥に潜む変化は、何の前触れもなく唐突にその爪を立てた。
目を覚ました瞬間、アルトは首筋の奥深くに、奇妙な異物感を覚えた。
喉の奥に、角の尖った硬い小石を一つ飲み込んでしまったような、不快な引っかかり。
寝ぼけ眼のまま、唾を飲み込もうとした。
――ズキリ。
喉の中央、気道を取り囲む薄い皮膚の裏側が、乾いた小刀の刃先で擦られたかのように鋭く軋んだ。
風邪だろうか。
アルトは反射的に手首の内側を額に当ててみたが、熱はまったくなかった。倦怠感も、悪寒もない。
ただ、胸の真ん中から喉元にかけて、得体の知れない鈍い熱の塊が、じわじわと皮膚の内側を押し広げながらせり上がってきているような、異様な圧迫感だけがあった。
膝の皿の裏側と、足首の関節の奥にも、冬の初めから断続的に続いていた成長痛の鈍い疼きが、ずしりと重く沈んでいる。骨が外へ向かって伸びようと軋み、腱がギリギリと引き絞られるあの感覚が、首の周りにも一気に押し寄せてきたかのようだった。
アルトは毛皮の寝床から身を起こした。
足元で丸くなって心地よい寝息を立てていた相棒を起こそうと、深く息を吸い込んだ。
毎朝繰り返してきた、ごく当たり前の日常。
「シロ、朝だ――」
その瞬間だった。
自分の口から飛び出した音に、アルト自身の心臓が跳ね上がり、言葉が喉の奥で詰まった。
――ガサッ……ゴホッ。
擦れた、濁った、耳障りな破砕音。
かつての、あの十一歳の少年の澄んだ高い声ではなかった。
まるで、乾燥したカシの枯れ枝を力任せにへし折ったかのような、低く、ざらざらとした、カラスの羽音に似たひび割れた濁音。
出そうとした高音と、底からせり上がった低音が不恰好に衝突し、裏返って途切れた。
「…………え?」
アルトは慌てて自分の口元を両手で覆った。
「あ……あ、あ……?」
もう一度、声を出してみる。
低かった。
息を吸い込み、喉を鳴らすたびに、胸郭全体がブゥンと鈍く振動する。それは自分の耳で聴くというよりも、頭蓋骨の底や奥歯の根元に直接響いてくるような、大人の男に似た鈍重な低周波だった。
アルトは震える指先を、自分の首筋へと恐る恐る当てた。
首の中央。
昨日までは平らで柔らかかった少年の喉に――硬い軟骨の突起が、ゴツンと指の腹に触れた。
喉仏だ。
甲状軟骨の先端が、皮膚を内側から突き破らんばかりに前へと張り出している。触れると、奥の軟骨がピリピリと熱を帯びて激しく脈打っていた。指先に伝わる頸動脈の拍動が、以前よりも太く、力強くドクドクと跳ねている。
「僕の……声……?」
アルトは床の上に崩れ落ち、両手で自分の喉を強く掴んだ。
冷や汗が額から滲み出る。
靴の親指の麻布が破れたこと。
カシの木片から狂いのない直角が削り出されたこと。
そして、この喉の奥の不可逆な変容。
奪われていく。
何かが、自分という存在の輪郭を、内側から激しく壊して作り変えていく。
あの春の日、オルディス防壁都市の巨大な鉄の門の外へ突き飛ばされ、冷たい泥水の中で泣いていた、あの小さくて無力だった「僕」は、どこへ行ってしまったのだろう。
この低い声で喋る自分は、いったい誰なのだ?
街の大人たちのように、太く、低く、他者を威圧し、命令し、怒鳴りつけるための声を、自分の身体が勝手に手に入れようとしているのではないか。
「嫌だ……変わりたくない……!」
アルトは低く掠れた声で叫ぼうとした。けれど、声帯は意図した通りに振動せず、喉に激しい摩擦熱を生むだけで、ただの荒い吐息となって散った。
膝を抱え、トネリコの床板の上に額を押し付けて震える。
成長痛の鈍い痛みが、膝と足首の奥でギリギリと軋んでいた。
不意に、自分の発した低い唸り声に呼応するかのように、ツリーハウスの壁際に固定された真鍮の温水パイプが、微細な共振音を立てた。
――ビィィィン……
アルトの声の基音、その低周波が大気を通じて金属の管へと伝わり、まるで生き物のように小さく震えている。
それだけではない。
壁の木製ラックに整然と並べられた鉄ノミや小刀の鋼、梁から吊るされた干しハーブの茎、窓枠に嵌め込まれた琥珀色のガラス瓶までもが、アルトの喉から漏れる低い振動に同期して、チリチリと細かな音を立てていた。
自分の身体が、かつての少年の肉体から切り離され、この重厚な要塞の構造材そのものと同化してしまったかのような、底知れない恐怖。
唇を噛み締めると、鉄の味が微かに広がった。
頭蓋の奥で、遠い過去の情景がフラッシュバックのように明滅する。
オルディス防壁都市の狭く薄暗い長屋で、母が咳き込みながらアルトの幼い手を握っていた、あの冷たい冬の夜。
『アルト、お前の声は澄んでいて、小鳥のさえずりのようだね……』
弱々しい母の指先が、アルトのまだ平らだった喉を優しく撫でてくれた温もり。
母の歌う子守唄に合わせ、幼いアルトが高い澄んだ声で拙く歌を返したときの、あの穏やかな安らぎ。
だが、その記憶の直後に押し寄せてきたのは、税を取り立てに来た役人たちや、路地裏を牛耳る屈強な男たちの太く荒々しい怒号だった。
『おい、ガキ! 隠してある銀貨をさっさと出せ!』
『文句があるなら壁の外へ叩き出すだけだ! 無能に食わせるパンなどこの街にはない!』
あの低く濁った声。他者を踏みにじり、力で屈服させ、恐怖で従わせるためだけに吐き出される、大人の男たちの暴力的な響き。
――僕の喉が、あいつらと同じ音を鳴らし始めている。
アルトは両耳を両手で塞ぎ、身体を小さく丸めた。
変わりたくない。
あんな醜い大人たちと同じ生き物になど、絶対になりたくない。
だが、骨は伸び、腱は引き絞られ、喉仏の軟骨は刻一刻と前へ突き出し、アルトの意思など歯牙にもかけずに「変容」を推し進めていく。
世界のすべてから孤立し、自分自身の肉体にさえ裏切られたような無力感に、アルトは奥歯をガチガチと鳴らした。
――スゥ……
音のない気配が、アルトのすぐ目の前で止まった。
シロだった。
純白の毛並みに銀の霜を降らせたような、巨大で神聖な獣の身体。
シロは取り乱してうずくまるアルトの前に静かに座り、その深く澄んだ金色の瞳で、アルトの喉仏をじっと見つめていた。
そこには、驚きも、戸惑いもなかった。
シロは首をわずかに傾げると、まるで何百年も前から定められていた約束の季節が、寸分の狂いもなく訪れたことを確認するかのように――深く、静かに、一度だけ頷いてみせたのだ。
「シロ……?」
アルトが顔を上げたその瞬間。
シロがそっと顔を近づけ、その冷たく湿った黒い鼻先を、アルトの喉仏の突起へと、ピタリと押し当ててきた。
――チクリッ。
静電気のような微細な閃光が、アルトの喉の奥を駆け抜けた。
冷たかった。
氷河の底から汲み上げた水のような、あるいは冬の夜空に瞬く水晶のような、絶対の清涼感。
シロの鼻先から放射された冷気が触れた瞬間、喉の奥でチクチクと疼いていた熱と痛みが、嘘のようにスッと霧散していった。
熱で腫れ上がっていた声帯の微細な毛細血管が急速に引き締められ、擦れていた気道が一本の真っ直ぐな管へと整えられていく。
喉仏の周囲を覆っていた筋肉の硬直が、春の陽気に触れた薄氷のように柔らかくほぐれていくのが分かった。
シロは鼻先を離さず、そのままアルトの首筋に大きな額を預けてきた。
言葉はなかった。
けれど、シロの意識が、皮膚を通してアルトの心臓へと直接流れ込んでくる。
――恐れることはない。
――声が変わっても、背が伸びても、あなたは私の調律者であり、私の唯一の家族だ。
――その声は、世界を拒絶し、この庭を守るために、新しく手に入れたあなたの力だ。
――街の大人たちの声ではない。大樹を揺らし、森の命を束ねるための、新しい響きだ。
シロの毛並みの温もりが、アルトの頬を包み込む。
白銀の毛の一本一本から、微細な星屑のような燐光が立ち昇り、アルトの胸のざわめきを静かに鎮めていく。
アルトの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ち、シロの銀色の毛並みに吸い込まれて消えた。
恐怖は消えていた。
代わりに残ったのは、相棒が与えてくれた絶対の肯定感と、胸の奥深くに芽生えた重厚な覚悟だった。
アルトは息を深く吸い込んだ。
かつてよりも大きく広がった胸郭いっぱいに、冬の澄んだ空気を満たす。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、喉仏の軟骨にそっと指先を添えた。
そして――新しく手に入れた、太く、深く、静謐なその声で、相棒の名前を呼んだ。
「……シロ」
低く、どこまでも澄み切った声だった。
少年のあどけなさは消え失せていた。
けれど、かつて街の路地裏で響いていた怒号のような濁りは微塵もない。
深い森の木立を吹き抜ける風のように、大樹の年輪の奥深くで鳴り響く地下水の水音のように、揺るぎない確信と静寂が宿っていた。
室内を満たすその音の波は、床板を、大樹の幹を、そして真鍮の温水パイプを優しく撫で、心地よい余韻を残して森の空へと溶けていった。
シロが金色の瞳を嬉しそうに細め、アルトの胸に大きな頭を預けてきた。
喉の奥で、ゴロゴロと甘えるような低い共鳴音が鳴る。
アルトはシロの背中の銀毛に両手を埋め、しっかりと抱きしめた。
「ありがとう、シロ。もう怖くないよ」
その言葉もまた、落ち着いた響きとなって大樹の部屋に満ちた。
少年は、自分の声を受け入れた。
それは、過去の弱かった自分への静かな別れであり、この聖域の守護者として生きるための、最初の洗礼だった。
アルトは立ち上がり、壁に掛けられた木靴に足を通した。
カマドの火を整え、銅の小鍋に清流の水を注ぐ。
スープを作るために刻む干し肉と根菜の心地よい包丁の音が、静かなツリーハウスにトントンと響き始めた。
窓の外では、朝の光が原生林の梢に積もった白雪を照らし、眩い銀の煌めきを放っていた。




