第037話:冬の足音と、暖炉の煙
雪は、音もなく降り続いていた。
舞い落ちる無数の白い結晶は、夕暮れまでの赤褐色と黄金色に染まっていた原生林を、瞬く間に純白の静寂の世界へと塗り替えていく。
大樹の枝先にも、幹を巡る木製ステップの踏み板にも、対岸へと渡した樹上吊り橋の手すりにも、薄く柔らかな粉雪が降り積もっていた。
小川のせせらぎは、雪の吸音効果によってどこか遠くで鳴っているかのように柔らかく籠もり、森の生き物たちの気配も完全に途絶えていた。
世界からすべての色が消え去り、白と黒の冷厳なコントラストだけが広がっている。
「シロ、冷たいね」
デッキの手すりに寄り添い、アルトが呟くと、シロは鼻先を天へと向けた。
ふわりと落ちてきた雪のひとひらがシロの黒い鼻の頭に触れると、シロは「フシュンッ!」と小さなくしゃみをして頭を振った。
その仕草がおかしくて、アルトの口元から自然と笑みがこぼれた。
吐き出した息は、真っ白な霧となって冬の夜気の中へと溶けていく。
半年前――十一歳の春の日に降っていた、あの忌まわしい冷たい雨を思い出す。
あの日の雨は、追放された少年を嘲笑うかのように打ち据え、足元を泥水に変え、体力を奪い、心を絶望で凍りつかせた。
けれど、今夜降り積もるこの初雪は、どこか神聖で、二人の半年間の戦いを優しく包み込んで労ってくれているかのように穏やかだった。
もう、濡れた地面に震えながら蹲る無力な存在ではないのだ。
「中に入ろう、シロ。今夜はうんと冷え込むよ」
二人は居住区の中へと入り、分厚いスギの板戸を閉めた。
そして、手作りの頑丈な木の閂を、ガチャンと静かに下ろした。
――ガチャン。
その重い木の音を聞いた瞬間、胸の奥底で何かがカチリと噛み合うような感覚があった。
半年前、オルディス防壁都市の巨大な外壁の鉄門で、兵士たちが下ろしたあの「錆びた境界線の閂」。
あの時の音は、アルトを人間の社会から排除し、見捨て、死の荒野へと追いやる「絶望と拒絶の音」だった。
けれど今、自分の手で下ろしたこの閂の音は――外のどんな猛吹雪からも、飢えた獣からも、そして都市の理不尽な人間たちからも、二人の平穏を完全に守り抜く「自由と誇りの音」だった。
部屋の中は、外の氷点下の冷気が嘘のように、柔らかく満ち足りた熱気で満たされていた。
地上の洞に据えたカマドでは、夏に乾燥させておいた太いナラの薪が、静かに赤い熾火を湛えている。
底に敷いた光る鉱石が熱を蓄え、薪が燃え尽きた後も柔らかな熱を放ち続ける仕組みだ。
そして何より、夏に小川の泥の中から掘り出した、あの「黒い金属パイプ」の恩恵が絶大だった。
カマドで熱せられた空気が金属パイプを伝って上昇し、居住区のブナの床板の下を幾重にも巡った後、外へと排気される。
床板の上に素足を乗せると、じんわりとした温もりが足の裏から全身へと伝わってくる。
まるで、日当たりの良い大きな岩の上に寝そべっているかのような心地よさだ。
床板の合わせ目にそっと手をかざせば、微かな暖かい空気の流れが指先を撫で、木枯らしが吹き込む隙間風を内側からの熱気で押し返していた。
屋根を突き抜けて外へと伸びる手作りの煙突からは、細く澄んだ一本の白い煙が、初雪の降る夜空へと真っ直ぐに立ち上っていた。
煙の吸気と排気のバランスは完璧で、部屋の中には煙の気配一つなく、ただカマドの心地よい木の匂いと、甘く香ばしい煮込み料理の匂いだけが漂っている。
コトコト、コトコト……
カマドの上で、春に川砂でピカピカに磨き抜いた鉄鍋が小気味よい音を立てていた。
鍋の中では、秋の収穫祭で作り置きした兎肉の燻製と、干したマイタケ、そしてすり潰した栗とドングリの粉を、濾過した澄んだ水でじっくりと煮込んだ特製の濃厚ポタージュが温められている。
桜のチップで燻された肉から溶け出した脂と燻香が、キノコの濃厚な旨味と混ざり合い、木の実のデンプンが自然なとろみを生み出していた。
夏に削り出したクルミの器にスープを注ぐと、食欲をそそる香ばしい湯気が立ち上った。
手作りの木製スプーンですくい、息を吹きかけてから口へと運ぶ。
「……あたたかい……」
舌の上に広がる、深い森の恵みの凝縮された旨味。
栗の素朴な甘みが、燻製肉の塩気をまろやかに包み込み、胃の腑の底へと染み渡っていく。
シロの前にも、大きな木の器にたっぷりとスープを注ぎ、カマドの熱石で焼いておいた堅焼きパンを細かく千切って浸してやった。
シロは尻尾を床板にペチペチと打ち付けながら、ハフハフと白い息を漏らし、夢中で舌を動かしてスープを平らげていく。
外は木枯らしが吹き荒れ、雪が積もり、自然の過酷な冬が始まろうとしている。
けれど、この大樹の上の小さな城の中には、温かい火があり、湯気の立つスープがあり、そして互いを命がけで信じ合える相棒がいる。
これ以上の豊かさが、この世界のどこにあるだろうか。
食事を終え、器を綺麗に拭いて棚に戻した後、アルトは天窓を少しだけ開けて、外の様子を伺った。
西の空――オルディス防壁都市がある方角。
黒煙と赤黒い炎に包まれていたあの街は、今夜の初雪によって白く覆い隠されようとしていた。
けれど、その下では、崩壊した外壁から吹き込む寒波と、魔力炉を失った闇の中で、飢えた人間たちが互いに奪い合い、凍え死んでいるはずだ。
かつてアルトを「役立たず」と蔑み、便利で贅沢な魔力の恩恵に溺れていた街の人々は、冬の訪れとともに、自らの手で招いた地獄へと沈んでいく。
けれど、もう少年の心に波風は立たなかった。
あの街は、アルトを捨てた。
そしてアルトもまた、あの街を完全に捨て去ったのだ。
生きる場所は、この厳しいけれど美しい原生林であり、守るべき世界は、この大樹の上の秘密基地だけだ。
「さあ、寝ようか、シロ」
アルトは天窓をきっちりと閉め、隙間風止めの布を挟み込んだ。
そして、毛皮を敷き詰めた寝床の脇に腰を下ろし、足元へと手を伸ばした。
春の追放の日から、半年間ずっと履き続けてきた、薄汚れた灰色の作業靴。
靴紐を解き、足を靴から抜こうとした――その時だった。
「……んっ……」
右足の親指の付け根に、ツンとした鋭い圧迫痛が走った。
顔をしかめながら、踵を手で押し出して、無理やり靴を脱ぎ捨てる。
解放された右足をランプの明かりにかざしてみると、親指の爪の生え際と関節の横が赤黒く擦れ、じんじんと鈍い熱を持っていた。
指先を曲げたり伸ばしたりすると、皮膚が強張って痛む。
「……あれ?」
アルトは脱ぎ置いた靴を手に取り、そのつま先を指先でなぞってみた。
麻の太い糸で粗く縫い合わされ、靴底だけに硬い鞣し革を当てた、薄汚れた灰色の靴。
十一歳の春、オルディス防壁都市の巨大な鉄の門から突き飛ばされたあの日の朝から、一度も手放すことのなかった、少年にとって唯一の過去の形見だ。
街の冷たい石畳で擦り減り、追放された日の泥水を吸い、夏の川原の砂利に削られ、秋の岩山を登るたびに傷だらけになりながら、少年の命を地表から守り続けてくれた。
だが、内張りの麻布を触ってみると、親指の骨の形に合わせて限界まで外側に押し広げられ、弦のようにパツパツに張り詰めていたのだ。
靴底の革も、泥水を吸って乾くことを繰り返すうちに縮み、硬化してしまっている。
さっき大樹の柱に刻んだ二番目の傷と同じだった。
背が伸び、肩幅が広がり、手首が逞しくなったのと同じように、足そのものが、この半年間の過酷な開拓生活の中で、子どもから少年へと大きく育っていたのだ。
「靴が……窮屈になってるな……」
指先で触れると、つま先の縫い目の麻糸が、内側からの圧力に耐えかねて悲鳴を上げているかのように、今にも引きちぎれそうに緊張していた。
春の日に街から履かされてきたこの靴も、いよいよ少年の成長に追いつかなくなっている。
けれど、明日は大雪になるかもしれない。この靴がなければ、外の雪を踏むこともできないのだ。
「……明日の朝、紐を限界まで緩めて、麻布を当て直してみよう」
アルトは小さく呟き、靴を寝床の脇、板張りの床の上に揃えて置いた。
明日起きれば、また新しい一日が始まる。
靴の繕いをし、雪かきをし、凍らないように水路の様子を見回り、基地の冬の暮らしを整えていくのだ。
アルトは毛皮の毛布に潜り込んだ。
乾いた苔とパンパスグラスの綿毛を何層にも重ねた寝床は、カマドの床下熱を吸って驚くほど温かかった。
シロがのそりと寄り添ってきて、少年の足元に体を丸めた。
ビロードのような純白の密集した冬毛が、冷えた足を包み込んでくれる。
シロの規則正しい温かい寝息。
背中を貫く一本の銀の線が、ランプの余光を吸い込んで、微かに神秘的な光を瞬かせていた。
少年の無垢なる幼少期の終わり。
そして、冬の厳しい試練とともに訪れる、新しい季節の予感。
外では、初雪が原生林を静かに、どこまでも白く覆い尽くしていた。
暖炉の煙が夜空へと溶けていくその下で、二人は深く、穏やかな眠りの中へと落ちていった。
(第1章・完)
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