第038話:靴の親指、破れた麻布
窓の木枠に張り付いた氷の花が、夜明けの淡い青光を吸い込んで、微かに銀色に瞬いていた。
寒さの質が、昨日までとは根本から違っていた。
大気中の水分という水分が凍りつき、微細な氷の結晶となって空間を漂っている。ツリーハウスの木の壁のわずかな合わせ目からは、針のように細く研ぎ澄まされた冷気が、音もなく忍び込んできていた。
吐き出す息は、胸の奥から白く濁って立ち上り、木製の天井に触れるか触れないかのうちに、ふわりと霧散して消える。
けれど、室内が氷点下に沈み切らないのは、地上のカマドから床下を通る熱のおかげだった。何層にも重ねた乾いた苔と、秋に集めたパンパスグラスの綿毛を敷き詰めた寝床の中には、十一歳の冬を越そうとする少年の体温が、まだ確かな温もりとして溜まっていた。
アルトはゆっくりと瞼を開けた。
横では、シロが丸くなって眠っている。
初夏には手のひらに乗るほどだったその身体は、今や大型の猟犬を思わせるほどに骨太く、長く伸びていた。絹糸のように細かった純白の毛並みは、厳冬の寒さに抗うかのように密集し、一本一本がかすかに銀色の金属光沢を帯びている。
シロの規則正しい寝息。それに合わせて、背中の中心を貫くあの蒼い筋の模様が、呼吸と同じリズムで、まるで深い海の底で瞬く燐光のように、かすかに、本当にかすかに明滅していた。
「……シロ、朝だよ」
アルトは枯れ葉の毛布から抜け出し、冷え切った両手を擦り合わせた。
息を吹きかけると、かじかんだ指先がじんじんと痛む。
まずやるべきことは、カマドの火の確認だ。灰を掘り起こし、熾火に息を吹きかけて新しい小枝をくべなければ、部屋の温もりはすぐに冬の冷気に呑み込まれてしまう。
アルトは寝床の脇、板張りの床の上に脱ぎ置いてあった靴へと手を伸ばした。
麻の太い糸で粗く縫い合わされ、靴底だけに硬い鞣し革を当てた、薄汚れた灰色の靴。
十一歳の春、オルディス防壁都市の巨大な鉄の門から突き飛ばされたあの日の朝から、一度も手放すことのなかった、少年にとって唯一の「過去の形見」だった。
街の石畳で擦り減り、追放された日の泥を吸い、夏の川原の砂利に削られ、秋の岩山を登るたびに傷だらけになった靴。
爪先の革はとうに剥げ落ち、側面の麻布は何度も裂けそうになりながら、アルトがツルの繊維で繕い、大切に履き続けてきたもだった。
それは単なる履き物ではなく、孤独な少年が大地を踏みしめ、自分の力だけでここまで生き抜いてきたことの、無言の証拠そのもだった。
アルトは靴を床に置き、右足の先を差し込もうとした。
「……ん?」
足先が、途中で止まった。
つま先が奥へ入っていかない。
靴の履き口で、踵が引っかかって止まってしまっている。
アルトは微かに眉をひそめた。寒さで革が縮んでいるのだろうか。
ツルの紐を限界まで解き、両手で履き口を力いっぱい押し広げた。そして、息を詰め、右足の親指に力を込めて、グッと奥へと押し込んだ。
――ズキリッ……!
鋭い痛みが、親指の爪の生え際を走った。
靴の先端の丸みに、アルトの指の骨が激突していた。
指を真っ直ぐに伸ばすことができない。親指と人差し指をキュッと丸め、関節を不自然に折り曲げなければ、足が靴の中に収まりきらなかった。
甲の部分もパンパンに張り詰め、血が止まりそうなほどの強い圧迫感が足全体を締め上げる。
(おかしいな……昨日までは、普通に履けていたのに……)
アルトは唇を噛み、無理やり踵を靴底へと押し付けた。
ギチギチと音を立てる革。
痛みに耐えながら、アルトは床の上に立ち上がった。
体重が足の裏にかかった、その瞬間だった。
――プツン。
乾いた、小さな、けれど絶望的なほど明瞭な破断音が、静まり返ったツリーハウスの室内に響いた。
アルトの心臓が跳ね上がった。
恐る恐る、視線を足元へと落とす。
靴のつま先。
何百回、何千回と擦り減り、薄くなっていた麻布の縫い目が、内側から押し出された親指の肉と骨の圧力に耐えかねて、一筋、パックリと裂けていた。
裂け目の縁から、ほつれた麻の繊維がチリチリと毛羽立っている。
そして――その裂け目の真ん中から、赤黒く腫れたアルトの右足の親指の先が、まるで殻を破って飛び出した植物の芽のように、ひょこりと外の世界へ顔を出していた。
「あ……」
少年の喉から、掠れた声がこぼれ落ちた。
足の指をわずかに動かしてみる。
破れた布の隙間がさらに左右へと広がり、朝の凍てつく冷気が、露出した親指の皮膚をチクリと刃物のように刺した。
「……靴が、縮んだのかな」
アルトは立ち尽くしたまま、誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた。
嘘だった。
そんなはずがないことくらい、十一歳のアルトにだって分かっていた。
革が寒さで縮むことなどあり得ない。
変わってしまったのは、靴ではない。
――自分の足だ。
春のあの日、足首がすっぽ抜けるほどブカブカで、歩くたびにパタパタと泥を跳ね上げていた大きな大人の靴。
それが今や、自分の骨を締め上げ、耐えきれずに破裂してしまうほど小さくなっていた。
背が伸びている。
手足が太くなり、骨が硬くなり、筋肉が厚みを増している。
毎日、重い丸太を担ぎ、川の水を運び、崖を登り、生きるために必死で身体を動かし続けてきた時間が、少年の肉体を容赦なく押し広げていたのだ。
けれど、その事実に直面したアルトの胸を満たしたのは、成長への喜びなどでは毛頭なかった。
そこにあったのは――肺の奥が凍りつくような、激しい恐怖だった。
(変わりたくない……)
アルトは破れた靴を見つめたまま、小刻みに震え始めた。
大きくなりたくない。
あの春の日、門の外へ突き飛ばされ、泥水の中から震える手でシロを抱き上げ、二人で温かいスープを飲んで笑い合った、あの「小さな子供の自分」のままでいたい。
大人になるということは、何なのだ?
街の兵士たちのように、分厚い鉄の手甲で顔を隠し、持たざる者を泥の中へ蹴り飛ばし、冷酷に笑う生き物になることなのか。
体温を失い、美しい木漏れ日も見えなくなり、奪い合いと怒号の中で生きる怪物になることなのか。
子供でいられる時間は、もう二度と戻らない。
破れてしまった麻布の裂け目が、少年期の終わりを告げる決定的な断絶線のように見えて、アルトの目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「クゥ……?」
足元で、柔らかい温もりが触れた。
シロが起きていた。
いつの間にかベッドから音もなく降りてきた相棒が、アルトの破れた靴の先を、不思議そうに黒い鼻先でツンツンと突いていた。
シロの金色の瞳が、アルトの涙に濡れた顔を見上げる。
心配そうに首を傾げ、小さな前足をアルトの足首へとそっと重ねてきた。
「……ごめん、シロ。変な声を出して」
アルトは袖で乱暴に涙を拭い、息を吸い込んだ。
靴紐をほどき、破れた右足の靴を脱ぎ捨てた。続いて、左足の靴も。
ボロボロの靴が、床の上に二つ並んで転がった。もう二度と、この足を包むことのない抜け殻。
アルトは、素足になった。
冷えた足の裏が、ツリーハウスの杉の床板へと、直接ペタリと降り立った。
その瞬間だった。
――ドクン……ッ。
アルトの心臓が、喉から飛び出しそうになるほどの激しい衝撃で跳ね上がった。
床板を通して。
このツリーハウスを支える、樹齢千年の古代樹の幹の、その遥か奥深くから。
あの初秋の夕暮れ、大樹に初めて耳を当てた時に感じた微かな脈動とは、比較にならない。
まるで、大陸全体の岩盤を引き裂くような、重低音の巨大な地鳴りが、素足の皮膚を伝ってアルトの骨を、背骨を、頭蓋骨を、激しく震わせて突き抜けていったのだ。
――ドクン……
――ドクン……
一定のリズム。
それは、冬の深い眠りについていた巨大な怪物が、大地の底でゆっくりと肺を膨らませ、最初の深呼吸を始めたかのような、恐ろしいほど確かな生命の鼓動だった。
大樹の樹皮の奥で、無数の樹液の管が、血流のように激しく逆流しているのが、足裏の触覚を通してはっきりと伝わってくる。
「っ……あ……!」
アルトは息を呑み、動けなくなった。
床板の木目が、微かに震えている。
足元を見下ろすと、シロが低く身を屈め、耳を水平に伏せていた。
その白銀の毛並みの下で、背中を貫く蒼い筋が、床から響く鼓動と完全に同期して、ドクン、ドクンと強く、青く発光していた。
シロの金色の瞳が、床板の木目の奥を――まるで何百メートルもの大地の底を見透かすかのように、冷徹に、じっと見据えていた。
外の原生林は、息を呑むような静寂に包まれていた。
けれど、少年の素足の裏で。
止まっていたはずの世界の心臓が、確かに動き始めていた。
床に転がる破れた靴。失われた子供時代。
アルトは冷え切った自らの素足を両手で強く抱きしめ、二度と戻らない昨日に別れを告げるように、深く、長く息を吐き出した。




