第036話:背丈の印、柱に刻んだ傷
居住区の中は、カマドの排熱を引いたパイプのおかげで、外の冷気が嘘のように穏やかな温もりに満たされていた。
天井から吊るした琥珀色の小瓶のランプが、油の芯から柔らかな橙色の光を放ち、ツリーハウスの木壁に優しい陰影を落としている。
部屋の中央を貫くのは、この居住区を支える大樹の太い幹――二人の家の「大黒柱」だ。
アルトは靴を脱ぎ、裸足のまま、その大樹の幹の前へと静かに歩み寄った。
指先を伸ばし、ゴツゴツとした厚い樹皮をそっとなぞる。
深い溝が刻まれた樹皮の一角、床板からそれほど高くない位置に――その「痕跡」は、今も消えずに残っていた。
長さ五センチほどの、浅く、歪な横線。
刃先が震え、何度も滑りながら無理やり刻みつけたような、頼りない傷跡。
「……懐かしいな」
それは、半年前の春の日――オルディス防壁都市の重い鉄門を放り出され、泥まみれになってこの原生林に転がり込んできた、追放初日の夜に刻んだ傷だった。
あの日、大樹の根元の泥だらけの洞に逃げ込んだアルトは、寒さと飢えで歯の根が合わないほど震えていた。
街の大人たちに「魔力なしのゴミ」と罵られ、明日生きているかどうかも分からない暗闇の底で、少年はただ――自分がかつてこの世界に生きていたという証を、何かに残したくてたまらなかったのだ。
ポケットに入っていた一本の小刀を震える両手で握りしめ、冷たい幹に背中を押し当てて、手探りで自分の頭のてっぺんの高さに刻んだ傷。
あの頃のアルトは、骨と皮ばかりに痩せ細り、少しの風が吹いただけで吹き飛ばされそうなほど小さく、無力な子供だった。
「シロ、ちょっと手伝ってくれる?」
アルトが呼びかけると、毛皮の寝床で前足を伸ばしていたシロが、トコトコと歩み寄ってきた。
白銀の密集した冬毛がランプの光に照らされて美しく輝いている。シロは「何をするの?」と首を傾げながら、少年の足元にちょこんと腰を下ろした。
アルトは壁の棚から、薄く削り出した平らな杉の木片と、使い古した鉄の小刀を手にとった。
そして、大樹の幹にぴったりと背中を密着させた。
かかとを床板につけ、ふくらはぎ、背中、そして後頭部を、幹の平らな部分へと押し当てる。
背筋をまっすぐに伸ばし、顎を引いて前を見つめる。
右手で持った平らな杉の木片を頭のてっぺんに乗せ、幹と正確に直角になるよう、水平を慎重に保ちながら樹皮へと押し当てた。
「動かないでね、シロ。水平を見てて」
シロがじっと手元を見上げ、まるで目測を確認するかのように短く「クゥン」と喉を鳴らした。
アルトは左手で木片を幹にしっかりと押さえつけたまま、右手に小刀を持ち替えた。
木片の下端、自分の頭頂部が幹と交わるその境界線へと、小刀の切先をそっと当てる。
――そして。
迷うことなく、小刀の刃先に体重を乗せて、横へと力強く引き抜いた。
ガリッ、ジャリッ……!
心地よい確かな手応えとともに、乾いた樹皮が削り取られ、瑞々しい木肌の甘い香りがふわりと立ち上った。
春の日のように刃先が震えることはなかった。
毎日の木工と石の加工で鍛え上げられた手首は、幹の固い繊維をものともせず、深く、力強く、一直線の溝を刻み込んでいた。
「よし……!」
アルトは小刀を下ろし、幹から一歩離れて振り返った。
そして、刻みつけた新しい傷と、春の日に刻んだ古い傷を見比べた瞬間――息が止まった。
「え……っ!?」
二度見した。
春の日に刻んだ、あの浅く頼りない「一番下の傷」。
その傷から、今刻んだ新しい二番目の傷までの距離は――
アルトは手のひらを広げ、指を揃えて当ててみた。
指一本、二本、三本――いや、指四本分近くも、高い位置にあったのだ。
「伸びてる……! こんなに……!?」
信じられなかった。
たった半年間だ。季節が春から秋へと巡っただけの時間。
それなのに、背丈は指四本分――五センチ以上も高くなっていたのだ。
言われてみれば、心当たりはいくらでもあった。
アルトは今着ている服を見下ろした。
春に追放されたあの日、街で支給されていた粗末な麻のシャツ。
あの時はブカブカで、肩がずり落ち、袖も長すぎて邪魔だった服が、今ではどうだろう。
着丈はすっかり短くなってお腹が見えそうになり、肩幅はパツパツに張り詰めて、腕を前に伸ばすと背中の縫い目が引き裂かれそうになる。
袖口に至っては、とっくに手首の上まで上がってしまっていて、結局夏場に肘の上まで捲り上げて縫い留めなければ着られなかったのだ。
膝の破れたズボンも、何度も野茨に引っ掛けて裂けるたび、麻の繊維を撚り合わせた糸で自分で縫い直してきた。ツギハギだらけの服は、みすぼらしいどころか、生き抜いてきた日々の勲章のように思えた。
そして、ふと視線を足元に落とす。
春の日に履かされていた、薄い革底の作業靴。
泥水を吸って乾くことを繰り返し、革はすっかり硬化して縮んでいたが、それ以上に――足そのものが大きくなっていたのだ。
歩くたびに、親指の爪先が靴の先端の内側にギュッと当たり、窮屈な圧迫感を覚えるようになっていた。靴底の麻布を何重にも当てて補修しながら履き続けてきたが、この靴ももう限界が近い。
自分の体が、確実に子どもから少年へと、殻を破るように大きくなっている証拠だった。
自分の両手をランプの明かりにかざしてみる。
春の日の、白くて細く、骨が浮き出ていた頼りない手とはまるで違っていた。
毎日のシャベル仕事、丸太の運搬、ツルの編み込み、石の研磨――
手のひら全体には分厚いタコができ、皮膚は硬く引き締まり、日焼けして逞しい小麦色に染まっていた。
手首は一回り太くなり、腕の筋がしっかりと浮き出ている。
足の筋肉も、小川の急流に踏ん張り、大樹の幹を何百回と上り下りしたことで、鋼のように引き締まっていた。
「僕、大きくなってる……ちゃんと、育ってるんだ……!」
胸の奥から、熱いものがこみ上げてきた。
都市にいた頃、アルトはいつも飢えていた。
配給されるわずかな黒パンの残飯と薄いスープを啜り、地下の暗闇で埃にまみれながら働かされていたあの頃、少年の体は栄養失調で成長が止まりかけていたのだ。
大人たちからは「魔力がないから体も育たない出来損ない」と蔑まれていた。
誰も背が伸びることを喜んでなどくれなかったし、服が小さくなったことを気遣ってくれる大人なんて一人もいなかった。
けれど、違ったのだ。
森がくれた清水を飲み、豊かな木の実を食べ、川魚の脂を味わい、太陽の光を浴びて、シロと一緒に泥だらけになって働き続けたこの半年間。
少年の体は、生きるための豊かな恵みを全身で吸収し、本来あるべき生命の力強さを取り戻していたのだ。
「シロ、君も並んでみてよ」
アルトが笑いかけると、シロは嬉しそうに尻尾を振り、大樹の柱の横にピタリと体を寄せてお座りをした。
春の日、手のひらにすっぽり収まっていたあの子犬は、今や座った状態でも、その頭頂部がアルトの春の傷の高さを優に超えていた。
立ち上がれば、少年の腰の高さに届くほどの巨大な白狼の風格。
「シロの成長に比べたら、僕なんてまだまだだけどね」
アルトがシロの分厚い首筋を抱きしめると、シロは温かい鼻先を少年の首筋に押し当て、ゴロゴロと深い共鳴音を鳴らしてくれた。
柱に刻まれた二つの傷。
一番下の傷は、絶望と恐怖の中で震えていた「過去のアルト」。
そしてその指四本分上に刻まれた力強い二番目の傷は、自らの手で楽園を切り拓き、大地に足をつけて立ち上がった「現在のアルト」。
大樹の幹に刻まれたこの傷は、二人がこの森で確かに生き抜いてきた、何物にも代えがたい勝利の証だった。
「来年の春には、どこまで伸びてるかな。夏が来たら、もっと高くなってるかな……」
柱の傷を見上げながら、アルトは自然と微笑んでいた。
明日が来ることが怖くてたまらなかった少年が、今では次の季節の自分の姿を、希望を胸に思い描いている。
どんな過酷な冬が来ようとも、この傷がある限り、立ち止まることはない。
シロとともに、もっと強く、もっと逞しく成長して、この秘密基地とともに生きていくのだ。
――ふと。
部屋の中の空気が、微かに冷たさを増したような気がした。
「……ん?」
アルトは顔を上げ、屋根の天窓を見上げた。
木枠に嵌め込んだ琥珀色のガラスの向こう、漆黒の夜空。
その暗闇の中を――
ふわり、と。
白い小さな影が、音もなく舞い落ちてきた。
「雪……?」
アルトは立ち上がり、テラスへと続く板戸をそっと開けた。
ピリリと張り詰めた氷のような夜風が、頬を撫でる。
見上げる夜空から、満天の星の光を浴びながら、無数の白い結晶がひらひらと舞い落ちてきていた。
アルトがそっと手のひらを差し出すと、その中央に、ひとひらの完璧な六角形の雪がふわりと舞い降りた。
手のひらの熱に触れて、それは一瞬で小さな露の粒となって消え去った。
初雪だ。
秋の終わりを告げ、境界の森を純白の静寂で包み込む、冬の最初の使い。
ついに、約束の季節がやってきたのだ。




