第032話:カマドの火と、シロの瞳の黄金
秋の夜は、驚くほど足早に深まっていく。
日が沈むと同時に、原生林の空気は急速に冷え込み、吐き出す息がうっすらと白く染まるようになっていた。
木々の葉が擦れ合うサラサラという乾いた音に混じって、時折、パキリと小枝が冷気で収縮する音が森の静寂に響く。冬の足音が、遠くの山嶺から少しずつ、確実にこの境界の森へと降りてきている証拠だった。
パチ、パチッ――
心地よい爆ぜる音とともに、カマドの中で乾いた楢の薪が赤い炎を上げていた。
夏のうちに集めてデッキの下でじっくりと天日干ししておいた薪は、湿気ひとつなく、煙をほとんど上げずに清らかな熱を放っている。
炎の先端が揺らめき、やがて太い薪の芯まで熱が通ると、激しい火の粉の舞いは静まり、深い真紅と橙色の「熾火」へと変わっていく。
カマドの底に敷き詰めた、あの川底から拾い上げた「光る鉱石」が、熾火の熱を受けてじんわりと青白い燐光を放ち始めていた。薪の放つ赤い光と、鉱石の放つ淡い青白い光が混ざり合い、ツリーハウスの木の壁や天井に、まるで水底の揺らめきのような幻想的な影を描き出している。
カマドの上では、磨き上げた小さな鉄鍋の中で、夕食の残りのスープが微かに湯気を立てていた。
今夜の献立は、昼間に森の斜面で見つけた天然のヤマノイモと、ブナの倒木にびっしりと生えていたヒラタケ、そして夏に作っておいた干し魚を崩して煮込んだ塩スープだった。
夏に削り出したクルミの木の器に盛り付け、同じく手作りの木製スプーンですする。
ヤマノイモの素朴な粘りと甘み、キノコの濃厚な出汁、そして魚の凝縮された塩気が混ざり合い、胃の腑の底からじんわりと体を温めてくれた。
シロには、茹でて柔らかくした干し肉とイモを、もう一つの大きな木の器に入れて冷ましてから与えた。シロは器の底をピカピカになるまで舐め尽くし、満腹の吐息を漏らしながらアルトの足元へやってきた。
アルトは棚から、ヤマザクラの硬い木を削って作った「手製のブラシ」を取り出した。
秋の初めから、シロの換毛期が始まっていた。夏用の硬い抜け毛をそのままにしておくと毛玉になり、皮膚が蒸れてしまう。
アルトはカマドの前に座り直し、シロの体を優しくブラッシングし始めた。
「じっとしててね、シロ」
ブラシの木製の櫛歯が、シロの分厚い毛並みを滑るたびに、フワフワとした柔らかな白い綿のような抜け毛がごっそりと取れる。
シロは目を細めて気持ちよさそうに身を委ね、時折、後足をピクピクと痙攣させて喉を鳴らした。
抜け毛を取り除いた後のシロの皮膚には、指が埋もれて見えなくなるほどびっしりと、新しく生え揃った真冬用の下毛が密集していた。羊の毛よりも細く、ビロードよりも滑らかなその毛並みは、触れているだけで手のひらが汗ばむほどの圧倒的な保温力を誇っている。
「暖かいね、シロ」
アルトが呟くと、足元で丸くなっていたシロが、ふっと重たい吐息を漏らした。
そして、のそりと身を起こすと、アルトの座る木の椅子の足元まで歩み寄り、少年の膝の上にその大きな頭をどすんと乗せてきたのだ。
「うわ……重くなったなあ、シロ」
苦笑しながら、アルトは両手でシロの分厚い首筋を抱きかかえるようにして撫でた。
手のひらに伝わってくる、力強く脈打つ温もりと、ずっしりとした頭の重み。
半年前の春の日、境界線の柵の向こう、冷たい泥水の中でブルブルと震えていたあの子犬の姿を思い出す。
あの時は、少年の片手の中にすっぽりと収まってしまうほど小さく、肋骨が浮き出るほど痩せ細り、いつ息絶えてもおかしくない儚い命だった。スプーン一杯の野草のスープを舐めるのすら精一杯で、互いの体温だけを頼りに夜を越していたのだ。
それが、今ではどうだろう。
立ち上がれば、その背丈はアルトの腰の高さに優に届く。
がっしりとした胸板、太く逞しい四肢、そして鋭くも美しい肉球。
体格だけで言えば、都市の警備兵が連れていた大型の軍用犬や猟犬を遥かに凌駕していた。
夏の間、川原を全力で駆け回り、急流を泳ぎ渡り、アルトと一緒に丸太や大石を運び続けたことで、その体は鋼のような筋肉で覆われていた。
そして何より、毛並みの美しさが際立っていた。
泥まみれだった春の面影は微塵もなく、純白の毛はまるで降り積もったばかりの新雪のように澄んでいる。さらに、秋の訪れとともに生え変わった冬毛は、ビロードのように驚くほど密集して分厚く、冷たい隙間風など毛先一本通さないほどの弾力を備えていた。
背骨に沿って走る一本の「銀色の差し毛」は、月の光や炎の明かりを受けるたびに、まるで銀の糸を織り込んだ織物のように妖しく、気高く煌めく。
森の生き物たちがシロの姿を見るだけで道を譲り、あの都市の屈強な調査兵たちすら地鳴りのような唸り声ひとつでパニックに陥って逃げ出した理由が、よく分かった。
シロはただの犬ではない。
この原生林が、あるいはもっと遥かな太古の神話が育んできた、気高い森の守護者の血を引いているのだ。
シロが、アルトの膝の上で顎を少しずらし、少年の顔をじっと見上げた。
カマドの赤い熾火が、シロの両眼に映り込んでいる。
その瞳は――息を呑むほどに美しい、深い黄金色をしていた。
混じりけのない純金のように澄み渡り、瞳の奥底に小さな太陽を宿しているかのような、温かく、そして底知れない知性を秘めた輝き。
シロと目が合うと、不思議な感覚に包まれる。
言葉を交わす必要など、どこにもなかった。
シロが何を求めているのか、今どんな警戒をしているのか、あるいはアルトに対してどんな感謝や親愛を抱いてくれているのかが、視線が交錯するただ一瞬で、波のように胸へと流れ込んでくるのだ。
アルトが森の中で少しでも足音を乱せば、シロは即座に立ち止まって周囲の風を嗅ぐ。
アルトが重い荷物を持って息を切らせば、シロは無言で荷物の反対側に体を滑り込ませて支えてくれる。
そして今のように、静かな夜に二人でカマドの前に座っている時――シロの黄金色の瞳は、ただひたすらに穏やかで、アルトという存在をこの世界で唯一無二の相棒として全肯定してくれていた。
「シロ……君がいなかったら、僕はきっと、春のあの洞の中で死んでたよ」
アルトはシロの額に、自分の額をそっと押し当てた。
シロの短い鼻先から、温かい息が頬を撫でる。
喉の奥から、グルルル……と、低く心地よい共鳴音が伝わってきた。それは威嚇の唸り声ではなく、猫が喉を鳴らすような、最大限の甘えと信頼の合図だった。
都市から追放されたあの日、少年の世界は完全に崩壊したはずだった。
家族も、家も、着るものも、食べるものも、すべてを奪われ、ただ「魔力がない役立たず」という烙印を押されて、化け物の棲む森へと投げ捨てられた。
けれど、あの絶望の底でシロに出会えたからこそ、アルトは生きることを諦めなかった。
冷たい雨をしのぐために泥を掘り、火を灯し、鍋を磨き、床板を張り、橋を架けてきた。
気がつけば、都市で誰かの機嫌を窺いながら震えていた日々よりも、ずっと豊かで、ずっと自由で、誇らしい毎日がここにあった。
アルトを捨てた都市の人間たちは、魔力炉の煙に怯え、互いを疑い、奪い合っている。
けれど自分たちの基地には、どんな金銀財宝よりも尊い、互いを命がけで信じ合える絆があるのだ。
ヒュゥゥゥ……と、ツリーハウスの外で、冷たい北風が梢を激しく揺らした。
窓の板戸がガタツと小さく鳴る。
その風の冷たさに、アルトはふと現実へと引き戻された。
「……冬が、来るね」
アルトは窓の外の暗闇へと視線を向けた。
秋の紅葉は美しい。けれど、その美しさは長続きしない。
あと半月もすれば、木々の葉はすべて枯れ落ち、原生林は骨のような灰色の枝を剥き出しにするだろう。
小川の水は凍りつき、魚たちは深い淵の底へと潜ってしまう。
野草は枯れ果て、昆虫は土の奥深くに眠り、鳥たちも南の空へと去っていく。
森全体が、すべての生命活動を凍結させる「死の季節」――厳冬期がやってくるのだ。
もし冬の準備を怠れば、いくら頑丈なツリーハウスがあっても、寒さと飢えで生き延びることはできない。
雪が森を覆い尽くせば、狩りも採集も満足にできなくなる。何週間もこの部屋の中に閉じ込められることだってあり得るのだ。
二人がこの冬を生き抜くためには、今、この実りの秋のうちに、できる限りの食糧を蓄えなければならない。
「明日から、大忙しになるよ、シロ」
アルトが言うと、シロは黄金色の瞳をきらりと輝かせ、まるで「望むところだ」とでも言うように、短く「ウォン」と応えた。
森には今、ドングリやトチの実、栗、ヤマブドウ、コクワの実がたわわに実っている。
川には冬を前に脂の乗った魚たちが群れをなし、森の動物たちも冬眠に備えて丸々と太っているはずだ。
木の実を集めて粉を挽き、魚を釣って干物にし、肉を保存するための「燻製小屋」を作らなければならない。
やるべきことは山積みだった。
けれど、アルトの胸の中に不安や恐怖は微塵もなかった。
どんな過酷な冬が来ようとも、この手で知恵を絞り、シロと一緒に乗り越えてみせるという、確かな高揚感が全身を満たしていた。
カマドの中では、赤い熾火がいつまでも優しく、力強く燃え続けていた。
光る鉱石の青白い輝きと混ざり合うその温もりの中で、二人は互いの温もりを感じ合いながら、明日から始まる大収穫の季節へ向けて、深く穏やかな眠りへと就いた。




