第031話:大雨の夜、水路が歌う音
大粒の雨が、原生林の梢を叩く音が響き始めた。
ザァッ、と森の奥から押し寄せてきた湿った風が木々を揺らし、やがて視界を白く染めるほどの土砂降りとなって境界の森を包み込んでいく。
半年前――春の追放の日に降っていた、あの冷たく絶望的な雨を、アルトはふと思い出していた。
あの日の雨は、薄汚れた麻の服を濡らし、骨の髄まで冷え切らせ、足元を泥水に変えて少年の体力を容赦なく奪い去った。大樹の根元の小さな洞に逃げ込み、震える指先で泥を掻き出しながら、明日生きているかどうかも分からない恐怖の中で夜を明かしたのだ。
けれど、今は違う。
トントン、パタパタ、と心地よいリズムを刻んで雨粒を弾いているのは、幾重にも重ね合わせたブナの樹皮とスギの薄板で作った、ツリーハウスの頑丈な屋根だった。
隙間には松脂と蜜蝋を練り合わせた防水パテが丁寧に塗り込められており、一滴の雨水すら部屋の内側には垂れてこない。
部屋の中央に据えられた小石のカマドからは、乾いた楢の薪がパチパチと爆ぜる軽やかな音が響き、柔らかな橙色の炎が部屋の隅々まで温かな光で満たしていた。
シロは床板の上に寝そべり、前足の間にあごを乗せて、窓の外を流れる雨足を穏やかな黄金色の瞳で見つめている。外がどれほど荒れ狂っていようと、この部屋の中は二人だけの完全な避難所だった。
だが、アルトにはまだ、一つだけ気がかりなことがあった。
窓から身を乗り出し、大樹の根元を見下ろす。
「……やっぱり、水が溜まり始めてる」
ツリーハウスの屋根やデッキ、そして大樹の広大な枝葉が受け止めた雨水は、幹を伝って一本の太い滝のようになって根元へと流れ落ちていた。
春の雨の時はただの泥水として地面に染み込んでいたが、秋の長雨の雨量は桁違いだ。根元の黒土が雨水に洗われて削られ、カマドの吸気口や、冬に向けて作った地下貯蔵庫の入り口のすぐそばまで濁流が迫っていたのだ。
このままでは、大樹の根を支える土が流され、最悪の場合はせっかく作った根元の設備が泥水で水没してしまう。
「シロ、下へ行こう。雨宿りは、もう少し後だ」
アルトが立ち上がると、シロはすっと身を起こし、合図を待つように耳をぴんと立てた。
アルトは防水用に鞣した鹿の毛皮を肩から羽織り、頭には大きなホオノキの葉を編んだ手作りの笠を被った。腰には、先日の調査兵が落としていった鉄の鉈と、自作の木製シャベルを差している。
縄梯子を伝って地上へと降り立つと、凄まじい雨の勢いが二人を打ち据えた。
足元はすでに足首が埋まるほどのぬかるみになっていた。大樹の幹から奔流となって落ちてくる雨水が、根元の窪地に渦を巻き、泥の池を作ろうとしている。
「ここから小川まで、排水路を通すんだ」
アルトは大樹の根元から、十メートルほど離れた小川の土手までの高低差を素早く見極めた。
大樹の周囲はわずかに小高くなっている。うまく溝を掘って誘導してやれば、重力に従って雨水は自然と小川へと流れ落ちていくはずだ。
だが、ただ泥を掘っただけの溝では、激しい水流によってすぐに土手が削られ、あっという間に溝ごと崩壊してしまう。
必要なのは――石組みの恒久的な排水路だった。
「シロ、川原の平たい石を集めるよ!」
シロが短く一声鳴いて、雨に煙る小川の浅瀬へと駆け出した。
夏の間、水浴びや魚獲りで通い詰めた小川の川原には、手のひら大から頭ほどの大きさまで、水の流れで角が取れて平たくなった安山岩がいくらでも転がっている。
シロは頑丈な顎で平たい石をくわえ、泥に足を取られながらも、大樹の根元へと次々に石を運んでくれた。大型犬ほどに逞しくなったシロの筋力は、今やアルトの力仕事を助けるのに十分すぎるほどだった。
アルトは木製シャベルを泥土に突き立て、深さ三十センチ、幅四十センチほどの溝を一直線に掘り進めた。
土を掘り上げるたびに、冷たい泥水が跳ね返って顔にかかる。けれど、指先が凍えるような感覚はなかった。春に鍛え上げられたアルトの体は、冷たい雨の刺激にも負けない熱を帯びていた。
「よし……溝が通った。次は底石だ」
掘り抜いた溝の底に、シロが運んでくれた平たい川石を、上流から下流へ向かって魚の鱗のように少しずつ重ねながら敷き詰めていく。
こうして石を重ねて並べることで、水流が土の底を削り取るのを防ぎ、水が石の上を滑るように勢いよく流れるようになる。都市の土木工事の現場で親方が水路を補修していた時の手つきを思い出しながら、石と石の隙間に細かな砂利をしっかりと叩き込んでいく。
底ができたら、次は両脇の壁だ。
溝の両側にも、平たい石を互い違いに積み上げ、崩れないように裏側に粘土を詰めて補強していく。
作業を続けるうちに、雨足はさらに激しさを増していった。
雷鳴が遠くでゴロゴロと轟き、バケツをひっくり返したような豪雨が森を叩く。
けれど、アルトとシロの手は止まらなかった。
最後の一枚の石を、小川の合流点にしっかりと据え付けた。
そして――大樹の根元に溜まりかけていた泥池と、排水路の入り口を塞いでいた土の土手を取り払った。
ドッ、と音を立てて、溜まっていた雨水が一気に石組みの溝へと雪崩れ込んだ。
ザラザラとした濁流が、敷き詰めた川石の上を滑るように走っていく。
土を削ることなく、美しいカーブを描きながら水路を駆け抜け、ザーッという澄んだ飛沫を上げて、小川の濁流の中へと吸い込まれていった。
大樹の根元に広がっていた泥の水たまりが、目に見える速さで水路へと吸い込まれ、あっという間に水が引いていく。
「流れた……! 大成功だ、シロ!」
アルトは泥だらけの手で拳を握りしめた。
シロが駆け寄り、濡れた身体を大きく震わせて雨粒を吹き飛ばすと、少年の胸に鼻先を押し当てて誇らしげに喉を鳴らした。
大樹の幹を伝って落ちてくる滝のような雨水は、すべて新設した排水路へと綺麗に飲み込まれ、大樹の根元はすっかり乾いた安全な状態を取り戻していた。
激しい雨音に混じって、足元の石組み水路から「トポトポ、サラサラ」と、まるで小さな滝が歌っているかのような軽やかな水音が響き渡っている。
「帰ろう、僕たちの家へ」
泥まみれになった道具を水路の清流で素早く洗い流し、二人は縄梯子を上がってツリーハウスへと戻った。
部屋に入り、扉をしっかりと閉めた瞬間、雨の冷気と暴風の音が遠のき、カマドの柔らかな熱気が二人を包み込んだ。
乾いた布でシロの白い毛並みを丁寧に拭き上げる。シロは気持ちよさそうに目を細め、暖炉の前で前足を伸ばして暖を取った。
アルトも濡れた上着を脱いで火のそばに掛け、カマドの上に吊るした小さな鉄鍋に干した薬草の葉を放り込んだ。
やがて、湯気とともに、爽やかなハッカに似た香りが部屋中に広がる。
熱い野草茶を木製の器に注ぎ、両手で包み込むようにしてすする。
喉を通る温もりが、冷えかけた体全体に染み渡り、芯からじんわりと温めてくれた。
窓の外では、依然として激しい嵐が吹き荒れている。
枝が軋み、雨が屋根を叩き、森の生き物たちはどこかの洞穴で身を縮めて嵐が過ぎ去るのを耐えているのだろう。
けれど、このツリーハウスは、揺らぐことすらなかった。
大樹の頑丈な枝に支えられ、屋根は雨を弾き、カマドの煙は通気口から外へと綺麗に吸い出され、足元では石組みの水路が余分な水を歌うように小川へと運び去っている。
自分の手で、知恵と工夫を絞って作り上げたこの家が、どんな自然の猛威からも二人を守ってくれている。
その確信が、何物にも代えがたい深い安心感となって胸を満たした。
「いい音だね、シロ」
雨粒が屋根を打つ音と、床下の水路が奏でるサラサラとしたせせらぎ。
その二重奏は、二人にとって最高の子守唄だった。
シロがアルトの足元に丸くなり、静かな寝息を立て始めた。アルトもまた、毛皮の寝床に潜り込み、炎の揺らめきを見つめながら、心地よい微睡みの中へと落ちていった。
…………
翌朝、ふと目を覚ますと、部屋の中が信じられないほど眩しい光で満ちていた。
雨の音は、完全に止んでいた。
アルトはシロと一緒にデッキへと飛び出し、手すりから外を見渡した。
「わあ……っ!」
感嘆の声が、少年の口から漏れた。
昨夜の嵐が一夜にして森の空気を洗い流し、どこまでも高く澄み切った秋晴れの青空が広がっていた。
そして――昨日まで緑混じりだった原生林の木々が、まるで魔法をかけられたかのように、一斉に黄金色と鮮やかな真紅へと染め上げられていたのだ。
太陽の光を浴びて、朝露に濡れた木々の葉がキラキラと黄金の粒のように輝いている。
足元の水路には、澄んだ水が清らかに流れ、大樹の根元を鏡のように美しく保っていた。
秋の長雨が去り、森は一気に、本格的な実りと収穫の季節へと突入していた。
冬を越すための、命の輝きが満ちる季節が、いよいよ二人の前に幕を開けたのだ。




