第030話:迷い込んだ調査兵の足音
森の土を踏みしめる音が、かすかに聞こえていた。
それは、シロのしなやかな足音でもなければ、森を駆ける鹿や野兎の跳ねるような軽やかさともまるで違っていた。
鈍く、重く、地面の黒土を乱暴に削り取るような足音。
ジャリ、と小石を擦り潰すような不快な摩擦音とともに、ガチャリと鈍い金属の擦れ合う音が、秋の澄んだ空気を震わせていた。
「シロ、上がって……! 音を立てないで」
アルトたちは息を切らしながら大樹の根元へと辿り着くと、すぐさまツリーハウスへと続く縄梯子を駆け上がった。
アルトが最後にデッキへと上がり、下へと垂れていた麻の縄梯子を手繰り寄せる。重みのある結び目を一つずつ巻き上げ、樹上の床板の隙間へと滑り込ませた。これで、地上からは大樹の上に足場があることなど、下から見上げてもほとんど分からない。
大樹の枝葉には、夏から秋にかけて張り巡らせてきた蔦と枯れ枝の目隠しが、幾重にも層を成している。
アルトとシロは、デッキの端に腹這いになり、分厚い手すりの隙間から地上を見下ろした。
シロの白い毛並みが、微かに逆立っている。
だが、シロは決して吠えなかった。アルトが口元に人差し指を当てると、黄金色の瞳を細め、静かに呼吸の音すら消してみせた。春の日に泥の中で震えていたあの子犬は、半年という月日の中で、少年の心拍の変化すら察知して動く頼もしい相棒へと成長していた。
下草をかき分ける音が、徐々に近づいてくる。
やがて、黄葉したブナの木立ちの向こうから、二つの人影がぬっと姿を現した。
灰色の革鎧の上に、鈍く光る鉄の胸当てを重ねた男たち。
手には使い古された槍と、都市の紋章が刻まれた短い革の盾。腰には革袋と、都市の警備兵が持つ無骨な鉈がぶら下がっていた。
オルディス防壁都市の正規兵――いや、装備の傷み具合と揃わない歩調から見て、最下層の巡回を押し付けられている下級の調査兵たちだ。
「おい、冗談じゃねえぞ……なんで俺たちが、こんな化け物の出る境界の森なんぞに入らなきゃならねえんだ」
先頭を歩く、あごひげを伸ばした小太りの兵士が、忌々しそうに足元のシダを槍の柄で払った。
その声は、森の木々に反響して樹上のアルトの耳にもはっきりと届いた。
「文句を言うな。上からの命令だ。街の魔力炉の煙が黒くなり始めてから、東の防壁の魔導灯までちらつき始めてるんだぞ。森の奥の『古代の遺構』から魔力が漏れて悪影響を及ぼしてねえか、確かめてこいって言われたんだ」
後ろを歩く痩せた兵士が、怯えたように周囲の梢を見回しながら答える。
「古代の遺構だあ? そんなもん、百年前の戦争で全部砂になっちまったって話じゃねえか。それより、あの追放されたガキはどうなったんだよ。半年前にこの森へ放り出された、あの魔力なしの……」
「とっくに死んでるに決まってるだろ。飢え死にしたか、森のオオカミの腹の中に収まったかのどっちかだ。この森は人間が生きて出られる場所じゃねえ。……チッ、足元がぬかるみやがる。靴の鋲が泥を噛んで重くて敵わん」
男たちの言葉が、冷たい小石のようにアルトの胸の底へと落ちていった。
やっぱり、あの街の大人たちにとって、自分の命なんてその程度のものだったのだ。
追放された子供が生きているかどうかなんて、誰も気にしていない。ただ都市の便利な魔力炉に不調が出たから、その原因を押し付ける先を探しに、こうして森の境界を踏み荒らしにやってきただけなのだ。
胸の奥で、冷たい炎のようなものが静かに灯るのをアルトは感じた。
悔しさや怒りではない。
自分たち二人が、半年間かけて血のにじむ思いで作り上げてきたこの場所――澄んだ泉があり、雨をしのげる屋根があり、温かい火が燃えるこの小さな楽園を、絶対にあの冷酷な大人たちに触れさせてはならないという、硬く澄み切った決意だった。
だが、二人の兵士は、不運にも大樹の根元へと真っ直ぐに向かって歩いてきていた。
「おい、見ろよ。この木、異様にデカくねえか?」
「ああ……幹の周りに、妙な踏み跡があるような気がするぞ。獣道か?」
兵士の一人が槍を構え、大樹の根元に広がる黒土をじっと覗き込んだ。
まずい。
普段歩いている小道は、できる限り落ち葉で隠してある。けれど、毎日上り下りしている根元の土は、どうしても人の踏み固めた痕跡が微かに残ってしまう。
兵士の目が、大樹の根元にある「カマドの煙突の出口」へと向かいかけた。
ドクン、とアルトの心臓が跳ね上がる。
見つかる――
もしこの大樹の上が住処だと気づかれたら、彼らは街へ戻って増援を呼ぶだろう。そうなれば、自分たちはこの場所を追われ、シロは魔獣として討伐隊に狙われることになる。
(……やらせない)
アルトは息を止め、デッキの床板の裏側に手を伸ばした。
そこには、もしもの時に備えて張り巡らせておいた、一本の細い「ツルの引き紐」があった。
夏の間、森を歩き回りながら張り巡らせた、アルトの防衛網の一つ。
大樹から三十メートルほど離れた、対岸の茂みへと通じる細いツルだ。その先には、乾燥させた中空の竹筒の中に小石を詰めた「鳴子」が括り付けられていた。
アルトはシロの背中にそっと手を添え、呼吸を整えた。
そして――ツルを、指先で短く、鋭く引いた。
カラン、カラカラッ――!
静寂に包まれていた森の対岸、深い藪の奥から、乾いた硬い音が響き渡った。
まるで、何者かが足をもつれさせて小石の斜面を蹴落としたかのような、不穏な音。
「な、なんだッ!?」
大樹の根元を調べていた二人の兵士が、弾かれたように飛び退いた。
槍の切先が、音のした茂みへと跳ね上がる。
「あっちだ! 藪の中に何かいやがるぞ!」
「オ、オオカミか!? おい、構えろ!」
二人の注意は、完全に大樹から逸れた。
だが、それだけでは足りない。兵士たちは恐怖と警戒を募らせながらも、槍を構えてその場に立ち尽くし、茂みの様子を窺おうとしていた。
もしこのまま音の正体を確かめようと周囲を捜索されれば、いずれはこの大樹の異常さにも気づかれてしまう。
彼らを、この境界の森から完全に追い払わなければならない。二度と足を踏み入れたくないと思わせるほどの恐怖を与えて。
アルトは、隣で身を低くしているシロの首筋に触れた。
シロが、アルトの目を見上げた。
その黄金色の瞳には、すでに少年の意図を察したような、深い知性の光が宿っていた。
声を出して吼えてはいけない。ただの犬の鳴き声では、兵士たちに「獲物」として追われるだけだ。
アルトが求めたのは、森の主としての――底知れぬ威圧だった。
「……シロ、お願い」
アルトが小さく囁くと、シロは胸を大きく膨らませた。
そして、口を閉ざしたまま――喉の最深部を、低く、重く振動させ始めた。
――グゥゥゥゥゥゥゥゥッ…………
それは、耳で聞く音ではなかった。
大気そのものがビリビリと震え、大樹の幹を通じて足元の床板が微かに共鳴するほどの、超低周波の重低音。
大地の底から湧き上がる地鳴りのような、あるいは古代の巨獣が眠りから覚めて吐き出した唸り声のような、冷酷で圧倒的な響き。
シロの喉から放たれたその振動は、原生林の木々を通り抜け、森全体が呻いているかのような錯覚を周囲に生み出した。
「ひッ……!?」
兵士のひとりが、喉からひきつった悲鳴を漏らした。
槍を持つ手が激しく震え、膝がガクガクと音を立てて崩れそうになっている。
「な、なんだこの音は……! 地面が……揺れてるのか……!?」
「で、出た……! 境界の森の『主』だ! 昔の兵士が全滅したっていう、古代の魔獣だあッ!」
見えない脅威ほど、人間に根源的な恐怖を植え付けるものはない。
どこから響いているのかも分からない、大気を震わせる重低音の唸り声。
痩せた兵士は耐えきれなくなり、持っていた槍を黒土の上に投げ捨てた。
「に、逃げるぞ! こんな森にいられるかッ!」
「お、おい待て! 俺を置いていくなッ!」
小太りの兵士もまた、青ざめた顔で脱兎のごとく駆け出した。
革鎧の留め具がちぎれ、腰の袋から何かが転がり落ちるのも構わず、二人は境界線の防壁がある南の方角へと、脇目も振らずに逃げ去っていった。
枯れ葉を踏み散らす足音が、やがて遠ざかり、完全に森の静寂の中へと消え去っていった。
…………
森に、再び静けさが戻ってきた。
風が吹き抜け、黄葉した木々の葉がさらさらと擦れ合う音だけが響いている。
「……ふぅっ……」
アルトは床板に額を押し当て、止めていた息を一気に吐き出した。
全身の力が抜け、指先が微かに震えていた。
シロがアルトの頬を、温かい舌でそっと舐めた。その温もりに触れて、ようやく強張っていた身体の緊張が解けていくのを実感する。
「ありがとう、シロ……すごかったよ。あいつら、腰を抜かして逃げていったね」
アルトはシロの首元を強く抱きしめた。
シロは嬉しそうに喉をゴロゴロと鳴らし、アルトの胸に大きな頭を預けてきた。春には片手に収まるほど小さかった体が、今では少年の胸元をすっぽりと覆うほど逞しくなっている。
しばらく息を整えた後、アルトはデッキから地上へと縄梯子を伝って降りた。
兵士たちが逃げ去った場所には、彼らが放り出していった「鉄の槍」が、泥の中に突き刺さっていた。
刃先には少し錆が浮いていたが、都市で作られた良質の鉄だ。
さらに、逃げる途中で落としたのであろう、頑丈な革の水筒と、火打石の入った小さな革袋も落ちていた。
「……僕たちの秘密基地を守るための、大切な資材になるね」
アルトは泥を拭い、それらの道具を拾い上げた。
かつては都市の兵士が持っていた武器が、今では自分たちの生活を守るための道具として手に入ったのだ。
境界線の向こう、南の空を見上げる。
兵士たちが逃げ帰った都市の方向からは、相変わらず不気味な黒い煙が細く立ち上っていた。
街の大人たちは、自分たちの都合でアルトを捨て、今また自分たちの混乱のせいでこの森を脅かそうとしている。
けれど、もう怯えて泣くばかりの子供ではない。
ここにはシロがいる。自力で建てた家がある。そして、この森の生き物たちと紡いできた命の絆がある。
「ここは、僕たちの場所だ。誰にも渡さないし、絶対に壊させない」
声に出して誓った言葉は、秋の冷たい風に乗って森の奥へと吸い込まれていった。
見上げると、いつの間にか空は鉛色の分厚い雨雲に覆われ始めていた。
湿った冷たい風が、森の木々をざわざわと揺らす。
季節の変わり目を告げる、秋の長雨の足音が、すぐそこまで迫っていた。




