第029話:傷ついた森の主(オオツノジカ)
秋風が吹き抜ける原生林を、アルトとシロは全速力で南へと駆け抜けていた。
足元では色鮮やかなナラやカエデの落ち葉が激しく舞い散り、冷たい空気が肺を焼くように痛む。
だが、少年は足を緩めなかった。
森の奥から響いてくる、大地を震わせるような巨獣の苦悶の叫び。
木々が薙ぎ倒され、激しく地面が叩きつけられる轟音が、刻一刻と近づいていた。
「シロ、あそこだ……!」
大樹の根元から南へ五町(約五百メートル)ほど進んだ、森の南端の緩やかな谷筋。
そこは、手つかずの原生林と、オルディス防壁都市の境界領域だった。
木々の合間に、かつて都市の辺境警備隊が「森の魔獣の侵入を防ぐ」という名目で何重にも張り巡らせた、おぞましい【軍用鉄条網(有刺鉄線)】のバリケードが錆びた牙を剥き出しにしていた。
太い栗の木の杭の間に幾重にも張り巡らされた、指の太さほどもある硬い鋼線。
その鋼線には、肉を切り裂くための鋭利なカミソリ状のトゲが無数に溶接されており、長年の風雨で赤茶色の毒々しい錆に覆われていた。
その鉄の檻の中に、信じられないほど巨大な「白銀の影」が絡まり合い、もがき苦しんでいたのだ。
「……っ! 大きい……!」
アルトは思わず息を呑んだ。
そこにいたのは、普通の馬の倍以上、優に体高三メートルを超える途方もない巨体を持った獣だった。
頭上には、まるで樹齢数百年の白樺の枝分かれのように優美に天へと広がる、純白に輝く巨大な二対の角。
ビロードのように滑らかな灰褐色の毛並みと、丸太のように太く強靭な四肢。
太古の森の主――【オオツノジカ】だった。
だが、その神聖なる主の姿は、凄惨を極めていた。
右の後ろ足と太もも、そして巨大な角の根元に、数十条もの錆びた鉄条網が幾重にも複雑に絡まり付いていたのだ。
逃れようと暴れれば暴れるほど、カミソリのようなトゲが肉の深くまで食い込み、筋肉を引き裂いて大量の鮮血を噴き出させていた。
足元の黒土は一面の血だまりと化し、激痛で血走った瞳が狂乱の光を帯びて虚空を睨みつけていた。
――グォォォォンッ……!!
巨鹿が首を激しく振り、周囲のブナの若木を薙ぎ倒しながら絶叫した。
重さ数十キロもある巨大な大角が空を薙ぎ、鉄のような蹄が狂ったように地面を蹴り上げる。
不用意に近づけば、一撃で頭蓋骨を粉砕されるか、踏み潰されて即死する。
人間が手出しできる領域を遥かに超えていた。
「どうしよう……このままじゃ、出血多量で死んじゃう……!」
アルトが青ざめて立ち尽くした、その時だった。
――トッ。
アルトの横から、シロが静かに前へと歩み出た。
中型犬のサイズへと逞しく育った白い相棒は、威嚇の唸り声を上げることもなく、ただ優雅に、堂々とした足取りで、暴れ狂う巨鹿の眼前へと歩み寄っていった。
そして――立ち止まり、その金色の瞳で、巨鹿の狂乱した瞳を真っ直ぐに見据えた。
その瞬間、シロの背中を貫く銀のラインが、まるで満月の光を放つように、柔らかく、けれど圧倒的な神聖さを帯びて淡く輝き始めたのだ。
銀の毛並みから、目に見えない微細な光の粒子がフワリと立ち上り、周囲の血生臭い空気を一瞬にして清らかな森の芳香へと塗り替えていく。
シロが首を少し傾げ、喉の奥から、森全体に染み渡るような澄み切った声を零した。
「――クゥゥゥン……」
鈴の音のように透き通った、一筋の鳴き声。
その声が響いた刹那、信じられない奇跡が起きた。
――ピクリ。
狂乱していた巨鹿の巨体が、凍りついたように静止した。
血走っていた大きな瞳からスウッと凶暴な熱が引き、その双眸に、深い知性と畏怖の光が甦ったのだ。
巨鹿はシロの姿を凝視すると、まるで太古の王の前に平伏する臣下のように、巨大な大角を静かに傾け、ゆっくりと、その巨体を地面へと横たえた。
荒かった鼻息が静まり、苦痛に耐えながら、目を閉じて身を委ねてきたのだ。
「シロ……すごい……!」
アルトは息を呑んだ。
だが、見惚れている暇はなかった。
巨鹿の命の炎は、激しい出血によって刻一刻と弱まりつつあった。
「よし……僕の番だ!」
アルトは背負い竹籠を放り出し、小刀と鉄ノミ、カシの木槌を手に駆け寄った。
巨鹿の傷口を観察する。
力任せに鉄条網を引っ張ってはならない。トゲが逆向きに食い込んでおり、無理に引けば筋肉ごと肉を引きちぎってしまう。
アルトは平らな硬い川石を巨鹿の足の下に滑り込ませ、食い込んだ鋼線の隙間に、鉄ノミの刃先を慎重に差し入れた。
そして、カシの木槌を振り下ろす。
カンッ! パチンッ!
心地よい切断音とともに、一本の鋼線が断ち切られた。
外壁補修で培った、金属のタガネ切りの技法。
アルトは指先を血で染めながら、一本、また一本と、肉に食い込んだトゲの根元を正確に叩き切っていった。
パチン、パチン、パチン……
トゲが肉から抜けるたびに、巨鹿の体がビクッと小さく痙攣する。
シロが巨鹿の鼻先に寄り添い、優しく温かい舌で巨鹿の額をペロペロと舐めて安心させていた。
二十分後。
絡み付いていた数十本の鉄条網が、すべて綺麗に外れ落ちた。
アルトは休むことなく、次の処置に入った。
竹筒から清冽な湧き水を惜しげもなく注ぎ、傷口にこびりついた泥と鉄錆を丹念に洗い流す。
そして、背負い袋から取り出した、すり潰したヨモギと薬草のペーストを、両手いっぱいに傷口へと塗りたくった。
強い抗炎症作用と止血効果を持つ森の恵み。
仕上げに、清潔な麻布を分厚く巻きつけ、しなやかなツル縄で解けないようにしっかりと包帯留めを施した。
「ふぅ……っ! これで、血は止まったよ!」
アルトが息を吐いて後ずさりすると、巨鹿がゆっくりと目を開けた。
瞳には、確かな力強さが戻っていた。
巨鹿は前足を折り、よろめきながらも、巨大な体躯を大地の上へと立ち上がらせた。
体高三メートルを超える白銀の威容が、秋の木漏れ日を浴びてそびえ立つ。
巨鹿は、足元に立つアルトとシロを見下ろした。
そして――
静かに前足を折り、巨大な白樺のような角を地面すれすれまで下げて、まるで騎士が主君に忠誠を誓うかのように、深く、深く頭を垂れたのだ。
その澄み切った黒い瞳に、人間の少年の姿が、永遠の記憶として刻み込まれた瞬間だった。
「……元気でね。もう、街の柵に近づいちゃダメだよ」
アルトが微笑んで手を振ると、巨鹿は低く、穏やかな声で一度だけ鳴いた。
そして、踵を返すと、傷ついた足とは思えないほど軽やかな足取りで、紅葉に染まる原生林の奥深くへと、音もなく姿を消していった。
森の主との、言葉を超えた信義の契約。
この日の救護が、のちに秘密基地が最大の危機に瀕した際、奇跡となって返ってくることなど、アルトはまだ知る由もなかった。
「よかったね、シロ。助かって……」
アルトは額の汗を拭い、血で汚れた道具を片付けようと地面を見下ろした。
その時だった。
巨鹿がもがき苦しんでいた血だまりのすぐ脇、湿った黒土の上に――
アルトの目が、異様な「痕跡」を捉えた。
「……え……?」
血の気が引いた。
黒土の上に、くっきりと刻まれていた足跡。
それは、獣の蹄の跡でも、アルトの擦り切れた靴底の跡でもなかった。
靴底に鋭い鉄の滑り止め鋲が打ち込まれた――都市の警備兵が履く、軍用の【重鉄靴の足跡】だったのだ。
それも、一つではない。
二つの異なる足跡が、境界線の向こうから森の内側へと向かって、生々しく踏み荒らされていた。
土の湿り気と崩れ具合から見て、つい数刻前――今朝方につけられたばかりの新しい足跡だった。
足跡の歩幅は広く、手にした重い槍や弓を引きずったような跡まで残っている。
都市の魔力炉が暴走を始めた混乱の中、森の資源や逃亡者を捜索するために、都市から調査兵が送り込まれてきたのだ。
「街の兵士が……この森に入ってきてる……!?」
アルトの背筋に、氷のような冷気が突き刺さった。
かつて自分をゴミのように門の外へ放り出し、重い閂を落としたあの冷酷な兵士たちの顔が、鮮烈に脳裏をよぎる。理不尽な大人たちが、この境界の森へと足を踏み入れているのだ。
泥の上に残された鋲の跡からは、都市の機械油と錆びた鉄の嫌な臭いがまだ微かに漂っていた。森の澄んだ土の匂いを土足で汚す、異質な侵入者の痕跡。
そしてその足跡の方向は――アルトとシロが春から半年間をかけて血と汗で築き上げてきた秘密基地がある、北の方角へと真っ直ぐに伸びていた。
もしあそこを見つけられたら、奪われる。
暖炉も、ツリーハウスも、蓄えた食糧も、そして何より――シロの命さえも、魔獣として狩られてしまうかもしれない。
「シロ、急いで基地へ戻ろう! 僕たちの家を見つけられたら、絶対にだめだ……!」
アルトは持ってきた枯れ葉を手早く散らして自分たちの足跡を隠すと、シロに低く合図を送り、北へと全速力で駆け戻った。
秋風が吹き抜ける森の静寂の向こうから、かすかに響く金属鎧の擦れ合う乾いた音。
平穏だった二人の秘密基地に、都市の追っ手という現実の脅威が、冷酷な足音を立てて忍び寄っていた。




