第028話:境界線の向こうの黒煙
季節は巡り、原生林の木々は鮮やかな朱色と黄金色へとその装いを変え始めていた。
朝夕の風にはキリッとした冷気が混ざり、梢を渡る風が乾燥した枯れ葉をカサカサと鳴らしながら、足元を滑るように吹き抜けていく。
大樹の樹上テラスの周囲には、秋の実りであるオニグルミや山栗、乾燥させた川魚の燻製の香ばしい匂いが漂い、冬支度の気配が満ちていた。
その日の早朝。
クスノキの星見テラスへと登ったアルトは、西の空を見上げた瞬間、息を詰めてその場に立ち尽くした。
「……あれは……?」
西の地平線。
この森から十数里離れた、オルディス防壁都市がそびえる方角の空。
いつも街を覆っていた薄汚れた黄色い煤煙とは、まるで異なっていた。
天を衝くようにして、太く、禍々しい「黒煙の柱」が三本、四本と立ち昇り、秋の澄み切った青空を黒黒とした暗雲のように覆い尽くしていたのだ。
黒煙の根元からは、昼間であるにもかかわらず、赤黒い炎の照り返しが雲をチカチカと焦がしているのが見えた。
アルトは腰の道具袋から、手作りの「単眼望遠鏡」を取り出した。
太い孟宗竹の節を抜き、内側の光の乱反射を防ぐために木炭の微粉末と松脂を混ぜた黒い塗料で真っ黒に塗り潰した筒。
その先端には、川原で拾った琥珀色のガラス瓶の底を、砥石で極限まで薄く研磨して作った凸レンズを嵌め込んである。
都市の職人が作る高価な遠眼鏡には及ばないが、遠くの建造物の輪郭をくっきりと捉えるには十分な倍率を持っていた。
アルトは竹筒を目に当て、西の黒煙の根元へと焦点を合わせた。
筒の円い視界の奥に、オルディス都市の巨大な石造りの城壁がかすかに浮かび上がった。
高さ三十メートルを誇る、あの鉄壁の要塞都市。
かつてアルトが、雨の日も風の日も、冷たい泥水にまみれながら隙間の草むしりや亀裂の補修をさせられていた、灰色の巨大な石の檻。
だが――その中心部、貴族街と中央魔導院がそびえ立つあたりから、激しい黒煙が断続的に噴き上がっていた。
遠く風に乗って、微かに耳に届いてくる音。
ゴオオオオ……という大地の底鳴りと、カンカンカンカンッ! と乱打される非常警報の鐘の音。
金属が軋み、引き裂かれるような重い破砕音が、途切れ途切れに大気を震わせていた。
「……魔力炉だ」
アルトの口から、冷徹な呟きが零れ落ちた。
アルトは知っていたのだ。
なぜ、街の中心部があんな黒煙を噴き上げているのかを。
都市オルディスで外壁管理係として使役されていた頃、アルトに押し付けられていたもう一つの過酷な役目。
それは、都市の心臓部である「巨大魔力炉」の最深部――地下五十メートルに溜まる、猛毒の【魔力滓】の掻き出し作業だった。
都市の貴族や兵士たちが使う魔導具や魔法暖房、城壁の防衛結界のエネルギーを生み出す魔力炉は、日々大量の腐食性の汚染泥を吐き出す。
その泥には魔力を狂わせる毒素が含まれており、少しでも体内に魔力を持つ人間が近づけば、一瞬で魔力回路を焼き切られて発狂してしまう。
魔導士たちも、高位の技師たちも、あんな地下の汚泥には指一本触れようとしなかった。
だからこそ、大人たちは『魔力測定値ゼロの無能』であるアルトに、濡れ雑巾一枚を口に巻かせ、暗黒の地下水路へと潜らせていたのだ。
アルトには魔力がない。
魔力がないからこそ、魔力の毒に中てられることなく、鉄のスコップでドロドロの魔力滓を掻き出すことができたのだ。
膝まで有毒な汚泥に浸かり、皮膚がただれ、咳き込みながら泥を掻き出し続けた地獄の記憶。
作業が終われば、兵士たちから「汚いから近寄るな」と罵られ、冷たいバケツの水をぶっかけられて納屋へと追い返された。
(……あいつら、僕を追い出したからだ)
少年の頭の中で、すべての符号が繋がった。
アルトを「役立たず」と罵って森へ突き飛ばしたあと、都市の管理者たちは地下の魔力滓を掻き出す人間を完全に失ったのだ。
代わりの作業員などいるはずがない。魔力を持つ者は近づけず、誰もあんな地獄のような汚泥掃除などやりたがらないからだ。
放置された魔力滓は、この数ヶ月のあいだに地下の導管を完全に埋め尽くし、冷却ラインを完全に閉塞させてしまったのだ。
行き場を失った超高圧の魔力蒸気が逆流し、炉心の配管を内側から破壊し、連続的な水蒸気爆発を引き起こしているのだ。
現場の構造を知るアルトには、これから都市に何が起きるかが手に取るように分かった。
配管の破裂はやがて炉心壁の亀裂へと繋がり、最後には都市そのものを吹き飛ばす未曾有の大爆発へと発展するだろう。
「自業自得だ……」
アルトは拳をぎゅっと握りしめた。
自分を理不尽に踏みつけ、ゴミのように捨てた都市の傲慢な大人たち。
『無能』と見下していた少年の泥だらけの手作業こそが、都市の平和を底辺で支えていた唯一の命綱だったのだ。
それを自ら断ち切った者たちが、今、自分たちの撒いた種によって破滅へと向かっている。
風向きが西風へと変わり、森の空気に不快な異臭が混ざり始めた。
焦げたタールと、腐った硫黄のような、胸の悪くなる化学物質の煤煙。
足元に座っていたシロが、不意に立ち上がり、背中の毛を逆立てて低く唸り声を上げた。
「ヴゥゥゥ……ッ」
シロは金色の瞳を西の空に向け、白い牙を剥き出しにしている。
背中を走る銀のラインが、青白く鋭い警告のパルスをチカチカと明滅させていた。
中型犬のサイズへと逞しく成長したシロの首周りの毛が逆立ち、野生の神獣の威厳を放っている。
森の清浄な大気を汚す都市の毒煙を、本能で激しく拒絶しているのだ。
「嫌な匂いだね、シロ……」
アルトはシロの頭に手を置き、その興奮を静めるように優しく撫でた。
かつて自分を閉じ込め、殴りつけたあの街。
怒りや復讐心がないわけではない。
けれど、この美しい森でシロと暮らし、自分の手で居場所を作り上げてきた今のアルトにとって、あの街の騒動は、どこか遠い別世界の出来事のように感じられた。
あそこは、自分にはもう何の関係もない場所だ。
自分の生きるべき場所は、この大樹の上にあり、自分の家族はこの白い相棒だけなのだから。
「僕たちの基地には、関係ない。あっちがどうなろうと、僕たちはここで平和に暮らすんだ」
アルトがテラスを背にして、ツリーハウスへ戻ろうとした――その刹那だった。
――グォォォォォォンッ……!!
大気を引き裂くような、凄まじい「獣の絶叫」が、南側の森の境界線の方角から轟き渡った。
悲鳴だった。
ただの威嚇や遠吠えではない。
巨大な生き物が、耐え難い苦痛によって断末魔の叫びを上げているかのような、魂を震わせる痛切な叫び声。
バキバキバキッ……! と、大木が何本も薙ぎ倒される凄まじい地響きが、風に乗ってテラスの足元まで伝わってきた。
「な、なんだ……!? 今の声は……!」
アルトは振り返り、手すりに身を乗り出した。
シロが耳をピンと立て、テラスの床を前足で激しく叩いて「ワンッ! ワンッ!」と叫ぶように吠え立てた。
その瞳は、ただの警戒ではない。
何か、森の巨大な命が危機に瀕していることを知らせる、切迫した輝きを放っていた。
「南の境界線……鉄条網の近くだ!」
アルトの脳裏に、森の南端に張り巡らされた、都市の防衛線の光景が浮かんだ。
都市の兵士たちが森の獣の侵入を防ぐために設置した、錆びた鋭利な鉄条網の柵。
あそこに、森の巨大な生き物が迷い込み、絡まり合って身動きが取れなくなっているのだ。
「行こう、シロ! 助けなきゃ!」
アルトは吊り橋を全速力で駆け抜け、ツリーハウスの部屋へと飛び込んだ。
壁の棚から、鉄のノミと、金槌代わりに使える硬いカシの木槌を掴み出す。
腰には小刀を差し、背負い竹籠の中には、すり潰して乾燥させておいた止血用のヨモギの葉と、清冽な湧き水を入れた竹筒を詰め込んだ。
十二段のステップ階段を一気に駆け降り、地上へと降り立つ。
シロが白い矢のように先頭を走り、秋の枯れ葉が敷き詰められた南の森へと突進していく。
木々の間を縫うように疾走するたび、足元で枯れ葉が激しく舞い散る。
原生林の奥深くへ進むにつれて、樹木の間隔が狭まり、絡みつくイバラが容赦なくアルトの服を引っ掻いた。
だが、少年は足を止めなかった。
春のあの日、冷たい泥水の中で誰にも見向きもされずに死にかけていたシロの姿。
そして、都市の大人たちに見捨てられ、誰の助けも得られずに暗闇で震えていた自分自身の姿が、苦痛の声を上げる名もなき獣の叫びと重なっていたのだ。
「待っててくれ……今、行くからな!」
南へ近づくにつれて、地面を揺らす激しいもがきと、苦悶の唸り声が一層大きく、肌を震わせるほどの轟音となって迫ってきた。
生臭い血の匂いが、秋の冷気の中に混ざり始める。
都市の破滅の煙が立ち上る境界の森で、もう一つの重大な運命の歯車が、激しい音を立てて回り始めていた。




