第027話:星降るテラスと、ホット野草茶
吊り橋を渡った先の巨大なクスノキの上に、アルトは新しい「星見テラス」を完成させていた。
大樹のツリーハウスが、壁と屋根に守られた「眠りと安らぎの城」だとすれば、このクスノキのデッキは、森と空へ向かって完全に解き放たれた「天空の展望台」だった。
地上五メートルの太枝の分岐点に、スギの厚板を円形に敷き詰め、全周に頑丈な手すりを巡らせてある。
頭上を覆う屋根も、視界を遮る壁も何ひとつない。
川面から吹き上げる涼やかな風と、森の梢のざわめきだけが、ダイレクトに肌を撫でる開放的な空間だった。
テラスの縁から振り返ると、九メートルの吊り橋の向こう側に、自分たちの本拠地である大樹のツリーハウスが見える。
西側の壁に嵌め込んだ琥珀色の丸窓の奥で、夜光苔のガラスランプが淡い若草色の光を優しく灯し、まるで森の深海に浮かぶ小さな灯台のように、温かい光の溜まりを作っていた。
夏の終わり。
雲ひとつなく澄み渡った新月の夜、アルトはカマドで沸かした熱湯を鉄鍋から木筒へと移し、吊り橋を渡って星見テラスへと向かった。
シロが足元を軽やかに駆け、アルトを先導するようにテラスの板の上へと躍り出る。
「シロ、温かいお茶を飲もう」
アルトはヤマザクラの木から削り出した二つの木製マグカップを取り出した。
中には、夏のあいだに対岸の森で採取し、日陰で丁寧に乾燥させておいた「野生のハッカ(ミント)」と、カモミールに似た甘い香りを持つ「ノギクの花弁」、そして天日干しにした「野イチゴのドライフルーツ」の小片をブレンドして入れてある。
熱い湯をカップへと静かに注ぎ入れた。
――シュウウウ……
その瞬間、立ち上る真っ白な湯気とともに、息を呑むほど芳醇で甘酸っぱい香りが夜風に乗って広がった。
ハッカのツンとした爽やかな清涼感と、カモミールのリンゴのような優しい甘み、そして熱湯で戻されたドライフルーツの濃厚な果汁が溶け合い、薄紅色の美しいハーブティーがカップに満ちていく。
シロ用の浅い木皿にも少し分け、フーフーと息を吹きかけて人肌に冷ましてやる。
シロは待ちきれないとばかりに鼻先を近づけ、ペチャペチャと美味しそうに飲み干した。
そして、「ふぅ……」と小さな息を漏らし、アルトの膝の上にすっぽりと顎を乗せて丸くなった。
アルトもまた、熱いカップに両手を添えて、一口すする。
――ズズッ……
甘酸っぱく、温かい液体が喉を滑り落ち、胃袋の奥から全身の毛細血管へと、じんわりと温もりが染み渡っていく。
今日一日の作業の疲れが、心地よい脱力感となって抜けていくようだった。
ふと、アルトは顔を上げた。
そして――言葉を失った。
――息を呑むほどの、圧倒的な星の海。
遮るもののない頭上の夜空全体に、本物の「宇宙」が広がっていた。
東の地平線から西の峰へと、夜空を真っ二つに横断するようにして流れる、白銀の巨大な天の川。
その光の奔流の周りには、数千、数万、数億もの星々が、青く、白く、金色に、ダイヤモンドの粉を惜しげもなく撒き散らしたかのように、爛々と瞬いていた。
オルディスの防壁都市にいた頃、アルトはこんな星空など一度として見たことがなかった。
都市の空は、いつ何時も魔力炉から吐き出される黄色い煤煙と重い雲に覆われ、夜空に見える星など数えるほどしかなかったのだ。
星とは、おとぎ話の絵本の中だけの絵空事だと思っていた。
「すごい……星って、こんなにたくさんあったんだね……」
アルトの呟きに、シロが小さく「クゥン」と喉を鳴らした。
純白の毛並みが、満天の星明かりを浴びて青白くきらめいている。
川のせせらぎが、五メートル下で銀の帯となって歌い、初秋の虫たちの涼やかな合唱が、夜の静寂を満たしていた。
アルトはカップを膝の上に置き、シロの柔らかい首筋を抱きしめた。
胸の奥から、熱いものがこみ上げてきた。
(……僕、生きているんだ)
追放された春のあの日。
巨大な境界門の閂がガチャンと外され、無能の烙印を押されて、冷たい泥の中に突き飛ばされた十一歳の少年。
背中で閉ざされた鉄の門の重い音。
着の身着のままで、ポケットの中には火打石と古い小刀が一本あるだけだった。
冷たい夕立の雨に打たれ、泥水をすすり、暗闇の巨木の洞で寒さに震えながら、飢えと孤独に怯えていたあの日々。
あの時は、自分が明日生きていることすら想像できなかった。いつ野獣に喰い殺されるか、いつ寒さで凍え死ぬかと、毎晩毛布もない冷たい土の上で丸くなって震えていたのだ。
けれど、少年は諦めなかった。
火打ち石を無心で叩き続け、指の皮を破りながら最初の火種を起こした。
泥だらけの濁流の中から、冷え切っていた小さな白い命を抱き上げ、自分の体温を分け与えて救い出した。
川底から拾い上げた赤錆だらけの鉄鍋を川砂で何時間も磨き直して穴を塞ぎ、ツルの繊維を三つ編みに撚り合わせて世界で一番強いロープを作った。
大樹の幹に十二段のステップ階段を打ち込み、地上四メートルの枝の上に初めての水平な床を張った。
雨露をしのぐ急傾斜の屋根を架け、琥珀色のガラス瓶を磨いて丸窓を嵌め込み、猛暑を吹き飛ばす天窓を開けた。
泥の中から黒いパイプを掘り出し、竹のフィルターで雨水を磨いて自律インフラを築き、山桜を削って器とスプーンを作った。
光る底石でカマドを温め、柳の筌で川魚を獲り、空中に九メートルの吊り橋を架け渡した。
魔法なんて、一つも使えなかった。
魔導士のような派手な呪文も、戦士のような強靭な剣技も持っていなかった。
街の大人たちからは「魔力測定値ゼロの役立たず」と嘲笑われ、路傍のゴミのように捨てられた自分。
けれど、目の前にある自然を観察し、物理の理を解き明かし、自分の手と足で工夫を重ねることで――少年は、誰の力も借りずに、この広大な原生林の中に、世界で一番温かく安全な「楽園」を築き上げたのだ。
「シロ……ありがとう」
アルトの目から、ぽろりと大粒の涙が零れ落ち、シロの白い頭に吸い込まれていった。
「お前がいてくれたから……僕、ここまで来られたよ。僕たち、生きてるね。自分の足で、ちゃんと生きてるんだ」
シロは顔を上げ、アルトの涙で濡れた頬を、温かい舌でペロリと優しく舐め取った。
金色の瞳が、星々の光を宿して静かに微笑んでいるように見えた。
二人の魂は、過酷なサバイバルを乗り越える中で、どんな血縁よりも深く、どんな魔法の契約よりも強い絆で結ばれていた。
夜風が吹き抜け、クスノキの芳香がふわりと漂う。
世界で一番孤独で、世界で一番満ち足りた幸福の夜。
すべてが平和で、この穏やかな暮らしが永遠に続くかのように思えた。
――だが、その時だった。
シロが不意にピクッと耳を立て、アルトの膝から跳ね起きた。
金色の瞳を鋭く細め、西の空――遥か彼方の地平線をじっと凝視したのだ。
「……シロ? どうしたの?」
アルトも立ち上がり、視線を向けた。
そして、凍りついた。
満天の星々が輝く澄み切った夜空の、西の果て。
かつてアルトを追放した、オルディス防壁都市の方向。
青白い星の光とは明らかに異なる、禍々しい【赤黒い光の明滅】が、地平線の彼方の雲をチカチカと不気味に焦がしていたのだ。
――ズズズズズズ……ッ。
数秒後。
耳朶を打つ音ではなく、足元のクスノキの幹を通して、大地の底から伝わってきた重い地鳴り。
森の茂みの中から、夜鳥たちがバサバサと怯えた羽音を立てて一斉に飛び立ち、遠くの森の奥から獣たちの警戒する遠吠えが響き渡った。
まるで、巨大な怪物が地底で暴れ回っているかのような、低く不吉な振動だった。
「ウウゥゥゥ……ッ」
シロが背中の毛を逆立て、西の空に向かって低く唸り声を上げた。
背中を走る銀のラインが、警告を発するかのように、鋭く激しく明滅を繰り返している。
「街の……方角だ……」
アルトは息を呑んだ。
雷ではない。
あの都市の心臓部にある、巨大な「魔力炉」が暴走を始めているのか。
それとも、防壁都市を揺るがすほどの何者かの襲撃が起きたのか。
アルトには知る由もなかった。
けれど、確かなことが一つだけあった。
自分たちを追放した冷酷な都市の彼方で、確実に「破滅の秒針」が動き始めているということ。
そして、その災厄の波は、やがてこの境界の森の秘密基地へと容赦なく押し寄せてくるだろうということ。
「大丈夫だよ、シロ……何が起きても、僕がこの基地を守るから。僕たちの家は、絶対に誰にも壊させない」
アルトは唸るシロの温かい体をぎゅっと抱きしめ、西の暗雲を強く睨みつけた。
少年の瞳には、恐怖ではなく、自らの居場所を守り抜くという鋼の決意が宿っていた。
星降るテラスの穏やかな夜は、静かに幕を下ろした。
少年の楽園は、来るべき冬と嵐、そして外界からの脅威に立ち向かうための「要塞化」の時代へと、足を踏み入れようとしていた。




