第026話:吊り橋の架橋、対岸の樹上へ
大樹の樹上テラスから、対岸の森の縁を見下ろす。
そこには、樹齢数百年を数える巨大な「クスノキ(楠)」が、清流に向かって太い大枝を水平に大きく差し伸べていた。
大樹のデッキと同じ、地上五メートル。
二本の巨木のあいだを隔てる距離は、およそ五間(約九メートル)。
その真下には、白波を立てて激しく流れる小川の本流と、尖った川石が横たわっていた。
「あそこに、橋を架けるんだ」
アルトはデッキの梁に手をかけ、真剣な眼差しで空中の空間を測量した。
川を渡る飛び石は便利だったが、秋の台風や激しい大雨が降れば、一瞬で濁流の下へと水没してしまう。
だが、地上五メートルの木と木を結ぶ「空中吊り橋」が完成すれば、どんな大洪水が起きようと、安全に対岸の豊かな果樹林と行き来することができる。
何より、大樹の一箇所にとどまっていた秘密基地が、森の梢を渡る広大な「立体要塞」へと進化するのだ。
だが、その工事規模は、これまでのどんなクラフトをも遥かに凌駕していた。
九メートルの空間に人が乗っても落ちない橋を架けるためには、膨大な資材と、命を懸けた空中作業が必要だった。
都市の外壁補修で仮設足場を組んでいた頃の記憶を総動員し、アルトは地面の黒土の上に小刀の先で綿密な設計図を描き出した。
上部の手すり索二本、下部の足場索二本。
四本のメインケーブルを垂直のハンガーロープで結ぶ、強固な箱桁トラス構造だ。
「よし、シロ。まずはロープ作りからだ!」
アルトは丸三日間を、ひたすら「ロープの製作」に費やした。
森の奥深くから、腕の太さほどもある極太のヤマフジとアケビのツルを何十本も切り出し、川の水に浸して木槌で叩き解す。
トントン、トントン……と木槌を振るう腕は鉛のように重くなり、手のひらには新しいマメができて破れた。
けれど、シロが編み上がったロープの端を咥えて引っ張り、テンションを保ってくれたおかげで、三本の束を限界まで強く撚り合わせた、太さ二寸(約六センチ)の「超極太ツル綱」を四本編み上げることができた。
一本の長さは七間(約十二・六メートル)。
大人が二人同時にぶら下がっても絶対に切れない、岩のように頑丈な主索だ。
さらに、橋の床となる「踏板」として、スギの厚板を三十枚切り出した。
一枚の幅は一尺(約三十センチ)、長さ二尺(約六十センチ)。
両端には、主索を通すための丸い穴を小刀で二箇所ずつ開け、靴底が滑らないように表面に格子状の滑り止め溝を彫り込んだ。
対岸のクスノキの太枝にも、到着したときに安全に立てるよう、三畳ほどの広さを持つ「見張りテラス」の床板を先行して用意した。
資材が揃ったところで、最大の難関が訪れた。
――どうやって、何もない五メートルの空中に、最初のロープを対岸へと渡すか。
「石を投げて届く距離じゃないし……どうしよう」
九メートルの距離は、重いロープを結んだ石を投げるには遠すぎた。
腕を組んで唸るアルトの横で、シロが「ワンッ!」と澄んだ声で鳴いた。
シロは金色の瞳をクスノキの太枝に向け、足元をトントンと踏み鳴らしている。
まるで「僕に任せて」と言っているかのようだった。
「シロ……手伝ってくれるのかい?」
アルトは細くて軽い、案内用の細いツル糸を用意した。
その端をシロの背中の革帯にしっかりと結びつける。
「シロ、対岸のクスノキの枝まで、この糸を持って行けるかい?」
シロは力強く「ウォンッ!」と吠えると、大樹のステップ階段を駆け降り、地上へと飛び出した。
シロは飛び石を軽やかに駆け抜け、対岸の岸辺へと渡った。
そして、クスノキの巨木の根元に取り付くと、樹皮の深い溝に鋭い爪を立て、まるで白い風のように幹を駆け登り始めたのだ。
中型犬のサイズに育ったシロの運動能力は、野生の豹をも凌駕していた。
あっという間に地上五メートルの太枝へと到達し、川に向かって突き出た枝の先端に立つと、アルトに向かって誇らしげに一声鳴いた。
「すごいぞ、シロ!!」
アルトは大樹のデッキから、細い案内糸をゆっくりと手繰り寄せた。
対岸のシロが糸を咥えて引っ張る。
案内糸に太い中綱を結び、中綱に極太の主索を結んで、慎重に空中を引き渡していく。
枝の上でシロが踏ん張り、太いロープの端が対岸のクスノキの枝へと無事に到達した!
「よし……第一段階、突破だ!」
ここからが、アルトの物理工学の出番だった。
九メートルの長さに渡したロープは、自重だけでも中央が大きくたわんでしまう。
人間が乗っても沈み込まないよう、ロープを極限までピンと張り詰める「緊張」を行わなければならない。
少年の腕力だけで、数十キロのテンションをかけることは不可能だ。
アルトが使ったのは、都市の石材運搬で使われていた【動滑車(倍力システム)】だった。
大樹の幹に頑丈な木の滑車を取り付け、ロープを折り返してテコの棒に結びつける。
アルトが全体重をかけてテコ棒を引き絞ると、倍力の原理によって数倍の牽引力が発生した。
ギチ、ギチ、ギチギチッ……!
ロープから余分なたわみが抜け、まるで弓の弦のようにピンと一直線に張り詰めていく。
アルトは大樹の幹にロープを三重に巻きつけ、カシの硬いクサビを何本も打ち込んで、絶対に緩まないように完全ロックした。
同じ作業を四回繰り返し、空中に四本の強靭な主索が架け渡された。
上部に手すり用の主索が二本。
下部に足場用の主索が二本。
地上五メートルの虚空に、平行四辺形のロープの回廊が浮かび上がった。
そして、最も恐怖を伴う「踏板の設置作業」が始まった。
「ふぅ……落ちたら、ひとたまりもないな」
アルトは腰に巻いた命綱のフックを、頭上の手すりロープにしっかりと掛けた。
一枚目のスギの踏板を抱え、下部の二本の主索の上に乗せる。
足元の穴にツル縄を通し、主索と踏板をギリギリと締め上げて固定する。
さらに、頭上の手すりロープと踏板の端を、垂直の「吊り索」で連結した。
上から吊るすことで、板にかかる荷重が手すりロープにも分散される、吊り橋特有のサスペンション構造だ。
一枚、固定した。
アルトはその板の上に一歩踏み出し、次の二枚目の板を固定する。
トッ、トッ……
足場を一歩進めるたびに、アルトの身体は、大樹の安全圏から離れ、川の真上の虚空へと突き進んでいく。
ギイ……ギイ……
川風が吹き抜けるたびに、橋全体が左右にフワリと揺れた。
下を見下ろすと、足元の板の隙間から、五メートル下の激流が目眩がするほどの速度で流れていくのが見えた。
尖った巨岩が牙を剥いている。
背筋を冷たい汗が伝い、足がすくみそうになる。
「落ち着け……ロープは絶対に切れない。構造は完璧だ」
アルトは歯を食いしばり、恐怖をねじ伏せた。
対岸のクスノキの枝先で、シロがじっとアルトを見つめていた。
金色の瞳に宿る絶対の信頼。
相棒が待っている。その想いが、少年に無限の勇気を与えてくれた。
五枚、十枚、十五枚。
橋の中央を越えたところで、アルトは横揺れを防ぐための【耐風ブレース(振れ止め索)】を施工した。
橋の中央の踏板から、川岸の左右の巨石に向かって、斜めにツル縄を二本張り渡したのだ。
この斜めの張線によって、風による橋の横揺れはピタリと止まり、岩のように安定した剛性が生まれた。
二十枚、二十五枚、三十枚――
そして、最後の一枚の板をクスノキの太枝に噛み合わせ、ツル縄を結び終えた瞬間。
「……つ、着いた……!」
アルトはクスノキの巨大な横枝の上に、しっかりと両足で着地した。
その瞬間、待ち構えていたシロが歓喜の声を上げて飛びつき、アルトの胸元へと飛び込んできた!
「わっ……! あはは、シロ! 架かったよ! 橋が架かったんだ!!」
アルトはシロを抱きしめ、二人でクスノキの大枝の上で転がり合って笑った。
涙が溢れていた。
振り返ると、夕暮れの空の中に、一本の美しい【天空の吊り橋】が堂々と横たわっていた。
大樹のツリーハウスから、対岸のクスノキの太枝まで。
九メートルの空間を渡る、少年と犬の手だけで作り上げた奇跡の空中回廊。
アルトはシロを連れて、完成した吊り橋の上へと歩み出た。
手すりロープを軽く握り、橋の中央へと進む。
心地よい適度なたわみはあるが、ビクともしない。
橋の真ん中で足を止め、見渡した。
――絶景だった。
川面から五メートルの空中。
夕陽が川面を黄金色に染め上げ、梢を渡る初秋の涼風が、二人の体を通り抜けていく。
地上にいた時には決して見ることのできなかった、鳥たちの視線。
川のせせらぎが、まるで自分たちの足元で歌っているかのように響いている。
地上のどんな大水も、どんな猛獣も、この空中の道には届かない。
対岸のクスノキの上には、新しく設けた展望テラスが広がり、果樹の森を一望できる。
「僕たちの道だ……! 世界で一番高くて、世界で一番強い橋だ!」
シロがアルトの足元に寄り添い、誇らしげに尻尾を振った。
夕闇が迫り、空には一番星が青白く瞬き始めていた。
二人の秘密基地は、孤立した一本の木を脱し、森の天蓋を支配する真の空中王国へと、偉大なる飛躍を遂げた瞬間だった。




