第025話:木の上の読書(失われた文字)
魚獲りの筌を引き上げた夕暮れの清流。
水流によって深く抉られた川底の岩盤の割れ目から、アルトの手によって引き上げられたその物体は、夜を迎えたツリーハウスの床の上で、静かに白銀の輝きを放っていた。
それは、本の一ページほどの大きさをした「極薄の銀色の金属板」だった。
縦八寸(約二十四センチ)、横五寸(約十五センチ)。
厚さはわずか二ミリほどしかなく、上質な羊皮紙を数枚重ねた程度しかない。
手に取ると、羽のように軽く、まるで乾いた木の葉を持っているかのようだった。
川から引き上げた瞬間、表面に付着していたはずの水滴は一滴も残らずチュルンと滑り落ち、拭くまでもなく完全に乾き切っていた。
だが――その紙のような薄さでありながら、両手で親指を当てて全体重をかけて曲げようとしても、一ミリのたわみすら生じなかった。
ダイヤモンドのように硬く、何百年も川底の砂利と水流に洗われ続けていたはずなのに、角ひとつ欠けておらず、表面には鏡のように周囲の景色が克明に映り込んでいた。
「すごいな……傷ひとつ、ついてない」
アルトは壁に掛けた夜光苔のランプを外し、床の中央に置いた。
エメラルドグリーンの淡い燐光が、白銀の板の表面を照らし出す。
その瞬間、板の表面に刻まれた「無数の微細な紋様」が、影を伴って鮮やかに浮かび上がった。
「……文字、だ」
アルトは息を呑んだ。
板の全面に、髪の毛よりも細い極微の彫刻によって、見たこともない奇妙な記号の群れが、整然と刻み込まれていたのだ。
オルディスの防壁都市で公用として使われていたアルファベットではない。
寺院の神官たちが祈祷に用いる古代ルーン文字とも、魔導士たちの呪文式ともまったく異なっていた。
精密な直線と、滑らかな真円の弧、規則正しいドット、そして幾何学的な四角形が、まるで精巧な機械の歯車のように完璧に噛み合いながら連なっている。
不揃いな手彫りの跡などどこにもない。
文字そのものがコンマ一ミリの狂いもなく浮き彫り(レリーフ)にされ、冷徹なまでの機能美を放っていた。
アルトはあぐらをかいた膝の上にその銀の板を乗せ、人差し指の腹で、一番上の行の記号をそっとなぞってみた。
――スゥッ……
指先を通して、微かな凹凸の感触が皮膚へと伝わってくる。
アルトには、そこに何が書かれているのかは分からなかった。
オルディスの貧民街で、魔力測定値ゼロの「無能」として扱われていたアルトは、学校に通うことなど夢のまた夢だった。
街の子供たちが清潔な教室で文字の読み書きを習っている間、アルトは冷たい石畳を這い蹲り、兵士たちの泥だらけの長靴を磨かされていたのだ。
かつて、兵舎のゴミ箱に捨てられていた手紙の切れ端を拾い、そこに書かれた文字を指で真似して地面になぞっていたことがあった。
それを見つけた兵士長は、アルトの手を踏みにじり、こう吐き捨てたのだ。
『無能のゴミが、字なんぞ覚えてどうする。お前みたいな出来損ないは、死ぬまで泥水をすすって命令に従っていればいいんだよ』
そのあと、冷たいバケツの泥水を頭から浴びせられ、熱を出して三日間寝込んだ。
自分の名前を歪な線で書くことと、日当を数えるための簡単な数字しか知らなかった。
文字とは、アルトにとって「自分を蔑み、排除し、虐げるための暴力の道具」でしかなかったのだ。
けれど――今、この指先に触れている記号の群れは、まったく違っていた。
「……なんか、音楽みたいだな」
アルトは呟き、ゆっくりと指先を滑らせていった。
記号の並びには、息を呑むほど完璧な「リズム」が存在していた。
短く鋭い直線の連続のあとに、ゆったりとした大きな円弧が現れ、三つの点が静かな間を置く。
ハニカム格子の中心から、まるで銀河の渦のように美しく放射状に展開する曲線の連なり。
それは、大樹の年輪の重なりや、川のせせらぎが奏でる波紋、梢を吹き抜ける風の調べと同じ――大自然の深淵に流れる「絶対の秩序」そのもだった。
指先を滑らせるたび、頭の奥に溜まっていた過去の暗い記憶がスウッと溶け去り、深い静寂と安らぎが全身を満たしていく。
文字を読んでいるのではない。
世界の法則そのものを、指先を通して心で聴いているかのようだった。
「クゥ……」
シロが横からトコトコと歩み寄り、アルトの膝に前足を乗せた。
そして、白銀の板の端に黒い鼻先をピトッとくっつけ、ふんと小さく息を吹きかけた。
その瞬間だった。
――チリン……
鈴の音のような微細な高周波の音が、部屋の空気を震わせた。
シロの背中の中心を走る銀のラインが、フワッと青白く淡い光を灯したのだ。
すると、まるでその光に応えるかのように、金属板の上に刻まれた幾何学文字の溝の奥から、淡い蒼光のパルスがツゥゥンと走り抜けた。
文字の配列が、呼吸をするように淡く明滅する。
シロは金色の瞳を細め、喉をゴロゴロと鳴らしながら、アルトの手首に自分の顎をちょこんと乗せてきた。
二人で並んで、淡く光る失われた文字の板を見つめる。
「シロも読めないよね? ……でも、すごく綺麗だね」
文字の意味は分からない。
言葉としての発音も分からない。
けれど、この樹上の静寂の中で、相棒の温もりを感じながら、古代の叡智の結晶に指を触れているその時間こそが、アルトにとって何ものにも代えがたい「本物の読書」だった。
誰にも奪われない、誰にも嘲笑われない、純粋な知と美との対話。
「これ、僕たちの宝物にしよう」
アルトは立ち上がり、作業に取り掛かった。
この奇跡の板を、ただ床に転がしておくわけにはいかなかった。
アルトは乾燥させておいたヤマザクラの木片を小刀で削り、板の四辺をぴったりと挟み込む、頑丈で美しい「木製の額縁」を作った。
小刀で木肌を滑らかに削り出し、角は釘を使わずに「留め継ぎ(四十五度の斜め継ぎ)」にして、硬い木の楔とツル縄で強固に締め上げる。
オニグルミの実を潰した油を塗り込むと、ヤマザクラの木枠はしっとりとした深い赤褐色に輝き、白銀の金属板を美しく引き立てた。
そして、ツリーハウスの正面――西側の琥珀色の丸窓のすぐ隣の壁の柱に、その額縁をしっかりと固定した。
夕暮れには琥珀色の光が差し込み、夜には夜光苔の淡い光が照らし出す、部屋の最も尊い特等席。
白銀の金属板は、木肌の温もりと調和し、二畳半の素朴な秘密基地に、まるで古代の神殿のような気品と風格を与えていた。
少年には知る由もなかった。
この板に刻まれていたのが、かつてこの星の環境を調停していた太古の文明の【調停プログラム基本構文】であり、のちに訪れる過酷な試練において、壊れた世界を修復するための「奇跡の羅針盤」となることなど。
アルトにとっては、ただ自分とシロの家を美しく飾る、世界でたった一つの誇らしい宝物だった。
額装を終えたアルトは、デッキの縁に立ち、夜風を浴びながら深呼吸をした。
真夏の夜空には、満天の星々が天の川となって輝き、足元では小川のせせらぎが銀色にきらめいている。
向こう岸には、昼間に魚を獲り、果実を収穫した、広大な未知の森が広がっていた。
「飛び石があるから、川は渡れる。……でも」
アルトは川面を見つめ、眉をひそめた。
七つの飛び石は頑丈だ。
だが、秋に向けて台風や激しい大雨が降れば、小川は激流となって飛び石を完全に水没させてしまう。
もし対岸の森にいる時に大雨が降れば、基地へ戻れなくなってしまうし、逆に大樹の側にいる時に川が増水すれば、数日間も対岸の食糧を取りに行くことができなくなる。
川が増水しても、決して孤立しない道がどうしても必要だった。
「地上を渡るのが危ないなら……」
アルトは顔を上げ、対岸の森の縁にそびえる「巨大なクスノキ」を見上げた。
樹齢数百年はあろうかという巨木だ。
大樹の枝と同じ、地上五メートルほどの高さに、大人が何人も乗れる太い横枝を川に向かって力強く差し伸べている。
大樹のデッキから、対岸のクスノキの太枝までの距離は、およそ五間(約九メートル)。
川面からは五メートル以上の遥かな高空だ。
「木の上から木の上へ……空中に橋を架けられないだろうか?」
少年の瞳に、途方もない大工事への挑戦の光が宿った。
川の増水など関係ない。地上の泥や獣の脅威も一切届かない。
空中の樹上テラスと、対岸の樹上テラスを一直線に結ぶ――【天空の吊り橋】。
常識で考えれば、子供ひとりで九メートルの空中橋を架けるなど不可能に近い。
けれど、火を起こし、カマドを築き、家を建ててきたアルトには、自然の素材と力学を組み合わせれば必ず道は開けるという確信があった。
「シロ、僕たち、空の上に橋を架けるぞ!」
シロがアルトの足元で立ち上がり、満天の星空に向かって、「ウォンッ!」と力強く、誇らしげな声を響かせた。
金色の瞳には、アルトと同じ冒険の輝きが満ちていた。
二人の秘密基地は、ただの住処を超え、森の梢を渡る広大な「空中要塞」へと、その翼を大きく広げようとしていた。




